まっすぐな心で

素直じゃあない、と人間界に居た頃に恋人と呼べる人からそう云われてさようならを告げられた。それはたった一言だったのだけれども私にとっては生きてきた中で最大の傷を作った言葉だった。その直ぐ後に原始天尊様から仙人骨があると、スカウトされ仙人界に行ったからそれっきりその恋人だった人とは会っていない。あれから既に六十年は経過していた。

生きていたとしても彼はもう年寄りになっていて、六十年過ぎてもあれから外見が全く変化を見せて居ない私。最初の頃はこっそりと人間界に降りて様子を見ようかななんて健気な事を考えたものだけれど、六十年経つとそんな健気さはゆっくりとした速さで川に流されていき、素直じゃあないと云われた言葉から来た傷さえ懐かしい思い出として頭に浮かべても若かったと思える程にまでなった。それでもまだ、たまに人生初めての初恋にして恋人となった彼を思い出す時は少しだけ切ない気持ちになるのはどうしてだろう。うん、と岩の上で唸っていると数メートル隣の岩でいかにも修行していますな格好をした道士が胡坐を掻いていた。いかにも修行していますな格好ではあるが頭は項垂れていて、耳を澄ませばすうすうと気持ちのよさそうな音が聞こえてくるところから居眠りをしているのがばればれである。また天から原始天尊様のお仕置きが飛んでくること両手どころか何百人の手を借りたって数え切れない程だ。それでもこの太公望という道士は懲りずに修行中に居眠りをし続ける。

「わしは太公望、よろしくな、

最初会った時は頼りになる、兄のようで修行で分からない所があったら丁寧に教えてくれたりした。笑った時が無邪気で、たまに自分よりも年下に見えたこの道士はいつの間にか修行をサボるようになり、目を離した隙に居なくなっていることが多くなった。そのお陰で何度原始天尊様に叱られたことか、と思い出して溜息を吐くと隣から奏でられていた鼾音が聴こえなくなった。起きたのかと隣をまた盗み見ると頭は相変わらず項垂れたままで、だけれども手は丁寧に胸の前で合わせられていた。

来た当初は本当に凄かったと云うのに。数十年で仙人と肩を並べる程の力を身につけておきながらも突然やる気をなくしてこうなってしまった訳が分からない。聴こえてこなくなった鼾がぐう、と云う音を立ててまたやってきた。折角の才能をこれで無駄にしているのだから、意味がない。隣で堂々と鼾なんてかかれているのに修行に集中できる筈がなく、足を岩の外に投げた。

「人間界、かあ」

兄弟子が度々原始天尊様の目を盗んで普賢真人様と下界に降りているのは知っていた。私も、と何度か云おうと思っては何かが自分を止めて云えずにいた。理由は分からない。長い間この仙人界にいたものだから甘くなるような感情はもう私の中には残っていない、外見こそ変わらないものの心自体は年寄り同然だと思い溜息をつきたくなった。岩の上に寝転ぶと丁度良い暖かさが地面から上がって身体に染み渡った。

「行きたいか、

ぐう、と云う音はいつの間にか消えていた。起きていたのかと不意打ちを良くする道士になれた私はそれくらいのことでは驚かなくなっていた、別に懐かしいだけと返すと居眠り道士は衣擦れの音をさせた。隣からサボりか、と聞いてくる声がしてぼやける頭でどうにか云い返す。

「サボりは太公望の方でしょう、私はさっきまでちゃんと修行していたもの」
「わしだって起きておったわい」
「嘘」
「本当だ」

だから、おぬしが何を思って呟いたのかも全て知っておる。と横目で隣の岩を見ると悪戯好きな道士は空を見て目を閉じたそれをみて同じようにした。彼に未練があったわけじゃあない。だけれどもたまに痛むその心にやさしく入ってくるこの道士の事をいつの間にか人間界にいた彼に抱いていた同じ、それとは全く違うけれど似たような気持ちを抱いていた。だからかもしれない、忘れていた悲しみをふと思い出す、けれど、彼がそうしてやさしく見ていてくれるのならそれに少しだけ隠していた本当の気持ちを彼に云いたくなってしまって、目を開けたら運悪く塵が目に入って涙が出た。