素顔

普賢と呼べば普賢はいつものようにほわりとした笑みを浮かべながら綺麗な唇でなあに、ちゃんと呼んだ。私は少し朱くなる頬を自覚しつつもそのままにあのね、と云った。平和なのが一番いいよねと普賢は岩場に腰掛ける。たったそれだけの動作なのに様になる、私はそれに一々高鳴る胸を空気をたくさん吸う事によって抑えつけているのだ。それでもふとした時に胸は何度も床に叩きつけられるような衝撃を持ってくるものだから心の準備が出来ていない私はその度に普賢から顔を逸らさなければならない。普賢は気が付いているような表情をするものだからいつももしかしたらばれているのかもと危惧するのにその後に来るいつものほんわりとした彼の雰囲気によってそれはただの勘違いに終わる。少しだけ余裕のない彼の顔を見てみたい気もするのにどんな言葉を投げかけても普賢は笑うだけだった。

想いを馳せているのは私だけであって普賢はそんな私を友達としか見ていないのだから何をしても彼が慌てる様子なんて見る事が出来ないのだ、と悩みをあまり頼りのなさそうな居眠り道士に相談してみた処、案外好いている奴がいると仄めかせれば普賢は顔色を変えると笑いを押し込め、少し眠そうに目蓋をうつらうつらさせている太公望は云う。そんなに上手くいくものなのかと半ば呆れていると眠そうにしていた目蓋が急に力を持ち始めた。

「もし普賢が何の反応を示さなかった場合はおぬしの恋人になってもよいぞ」

それくらい確かだと太公望は笑った。もし外れたら私は太公望の恋仲にならなければいけないなんて厭だな、と感じているとまた急に力を失くし下がった目蓋の持ち主太公望はわしもだと一言呟いて本格的に眠り始めた。普賢にどうやって話を持ちかけようとぐるりと渦を巻いている頭は突如として普賢の存在を確認した。あれ、いつの間に隣にいたのと解けなくなった紐のような思考回路に普賢は少し前から、考え事しているようだったから声をかけ損ねたとふにゃりと云った表現が正しいような笑顔で私に笑いかけた。その笑顔を見てしまうとこのままでもいいかもと思ってしまう自分に叱咤した。このままでいたらいつまで経っても普賢の気持ちは聞けないのだ、私は思い切って口を開いた。

「あ、あのね普賢」
「うん、なあに」
「実は、私」

好きな人がいるんだけれど、までは云えずに胸につっかえた。 普賢が身体を射抜くような目で私を見返しているからだ、私は今までこんな事はなかったと驚き、同時にいつもの普賢真人ではないと普賢の慌てようと見たいと思っていた自分が酷く慌てた。なあに、ともう一度聞き返してくる普賢に何も云えなくなった私は別の意味で顔を逸らしてしまった。

ちゃん、」

普賢の綺麗な声が脳に響く。逸らした顔をゆったりとした動作で普賢に持っていく。顔を上げても普賢は何も変わりなどなかった。私はつっかえそうになる相槌を喉から搾り出した。

「う、うん」
「僕以外の人の名前を出したら駄目だからね、」
「……っ!」

ほわりと笑った普賢に何も云えなくなり胸が詰まる。幾ら望ちゃんでも許さないよと笑顔で云われた処で私は望ちゃんもとい、太公望と恋仲になるつもりなんてそもそもなく、もしかしたら太公望は普賢がこうなることを知っていたからあんな事を云ったのではと少し恨んだ。普賢は射抜くような視線を私から失くして、私に擦り寄ってきたかと思えば頬に唇の残響音だけを残して離れていった。私の頬が朱く染まるのはその数秒後。