書類にかけていた手のひらを何気なくひっくり返すと、知らず知らずの間に出来た加齢による積み重ねが線となって出ていた。あ、と落とした声の分のシミを見つけため息のひとつでも吐きたい気分になる。中忍から繰り上がる事は早々に諦め、忍者学校の教師として十数年間、指折り数える為には腕をもう一本はやさないと無理な話になっていた。指先は紙の触り過ぎで心地悪い感覚が残る。眉間を寄せようとする反射能力に叱咤し、これ以上シワを増やしてなるものかと心の内に誓う。窓の外ではまだ幼い生徒達が無邪気に走り回り砂埃を立てていた。

(こんな頃、私にもあったなあ)
テストの添削に煮えらせていた頭は現実逃避に走ろうとする。土を蹴る小さな足は未来への期待を何本も作っていた。破顔させた子供のような表情は大人になったには出来ない。物悲しさを感じてしまえば後は落下して行くだけだ。山のような仕事にも、もう振り返る事の出来ない過去にも嫌気が差しかかった時、立て付けの悪い扉が開いた。

「よー。元気にしてるかよ」

窓に寄せていた視線を外すと珍しい客人が偉そうに両手をポケットに詰めて立っていた。アカデミー生だった頃から中忍までやる気の無さそうな姿勢は崩さずにやってきていた彼も今やすっかり大人の男だ。多忙を極める役職な為、遠目から見かけるくらいでしかなかった男はの目の前にいた。窒息しかけていた心は急な来訪者に耐えきれずはち切れんばかりになり声を失った。「久々に会いにきたってーのに、挨拶もなしかよ」シカマルはクッと意地の悪そうな笑みを口元に表す。遠い昔のようだった思い出が新たに更新され色鮮やかさを取り戻した。

「ご、めん…急に現れるから吃驚しちゃって、どう反応すればいいかわからなくなっちゃった」間近で言葉をかわしたのはいつだったか、と計算式が浮かび上がっては正確さを欠くほどに記憶が曖昧だった。ペンが嬉々として机上を転がる様は外の子供達のよう。広がる未来を祝ってくれているような気さえした。

「お前…こんなことで驚いててよく教師やってんな」
子供というものは別の人種のようだ。大人の思考網を張ったところで子供の感性の広さには到底追いつかない。シカマルが云いたい事はそういう事だ。

「まあね。新米だったのに知らないうちに中経になっちゃった」
自嘲気味に笑いながら転がるペンを指先で拾い上げ損ねて、また遠くへ行こうとする。シカマルは生徒側の机へ回り、窓側の一番前に腰掛けた。向かい合わせになったシカマルとの距離はさっきよりもずっと近い。

「頑張ってるみたいだな。さっきイルカ先生にも会ったんだけどよ」
「会ったんだ。変わってた?」
「老けたよな、流石に。ちょっと前に顔見た時はあんま変わってねーと思ったけど」

そう云いながら目尻に寄せたシワの数は思い出の中よりもずっと増えていて過ぎた時間の長さを物語る。普段顔を合わせている私でさえも記憶のイルカ先生より老けた、と思ったくらい。暫く振りならば尚更感じる事だろう。「ちゃんと歳食ってんだよな、先生も」と云った。は一瞬また言葉を失くしてしまいかけて、慌てて「そうだね」と返事を返す。久しぶりに会う同級生は驚く程に変わっていた。昔の彼は頭の良くて、少し格好良い、生意気な少年だった。それが今では思慮の深さも、格好良さも何もかも足されて到底手の届くような相手ではない。

「急に現れて、何その思い出巡り紀行みたいな」

思わず茶化しに入ったにシカマルは害するでもなくフッと落ち着いた笑いを落とす。
上忍になろうと云う気持ちも、何年も前から燻っている恋情も、深さも全て中途半端なまま投げ出した自分が恥ずかしくて仕方なくなった。それを隠す為に自ら道化師になり切ろうとするけれども、その意図も簡単に掬い上げてしまうような笑いだった。

「まぁ、そんなモンかもしれねェな…」
「そ、そうなんだ」

一気に静まり返った教室に、気まずさが空中を舞う。
校庭で愉し気だった子供達の声はいつの間にか疎らになり、ちらほらと聞こえてくるだけになっていた。窓から流れ込む夕日に部屋が橙で満たされる。腰掛けたシカマルの、任務で焼けたであろう日焼け色の肌が全く気にならないくらい見事な夕焼け色に染まった。日々見ていた橙がこうも切なくなるような色を持っていたのかと初めて知る。それもこれも久々に顔を出すこの男が悪い、と責任転嫁をした。

「今日は、用事があって此処に来た」

流れに逆らった声がの胸に浸透する。火影の補佐となった男がアカデミーに用なんて、と言葉を吟味するが思いつく限りの可能性を広げてみても核心には触れられない。広がるのは何故、という疑問ばかりだった。

「用事、って何…?」

恥などあるものか、と全てを投げ打って疑問をぶつける。シカマルは見透かすように口元を歪めた後実は、と切り出した。

「来週俺、結婚すんだよ」

転がったペンが心情を代弁するかのように床で跳ねる。静まった教室ではそのひとつの音さえも上手く拾い上げられて、お互いの耳に痛い程刺さった。何か変わった、感じた違和感はこういう事だったのかと崩れかけた理性心がピースをはめようと必死に動き回る。「イルカ先生にはさっき云って来た」と笑う男の笑いは教室に入って来てからのものとはどれとも当てはまらない。無理矢理はめ込もうとした欠片が弾けて眼球の裏に刺さるような痛みに見舞われる。夕焼け色に染まった男の頬が些か桃色に見えるのは恋情を抱いているからではない事は頭の悪い女でも分かる事だった。

「来週?」
「おう、」
「……あっ……相手は!」
まっすぐに逸らさず見ていたシカマルの顔が初めて窓側に向けられる。
組んでいた腕を態々外し頬を掻いた。
「………砂の、火影の兄弟なんだけどよ…」

染まる頬、砂の、でぎちぎちと音を立てていたピースは呆気なくはまってしまう。中忍試験の対戦相手だった「テマリ」だと。恋心を抱いている相手だから分かってしまう。女の第六感はこの時ばかりは当たって欲しくないと秘かに願い続けていたものだけれども、経過した今でもそれは有効であったらしい。普段は発揮されない役立たずの六感の仕事ぶりをこれほどまでに恨めしいと思うなんて。

「砂のって、もしかして…テマリさん?」
「そのまさか」

太陽が橙色を放出する事に飽きたのか、所々赤さが足されて、二乗。シカマルのもともとの赤さと相まって顔全体がゆでダコのようだ。当ててしまった喜びなのか、悲観から来るものなのか気持ちは想像以上に高ぶった。「そうなんだ、やっぱり」太陽が一通り演出を終え疲れたのか、電気も付けないままの教室は薄暗くなり、窓からの光も威力を弱めていた。その早さは尋常ではなかった。浅黒さから男の表情はよく分からなくなり、益々戸惑いを隠せなくなってしまう。これ幸いと暗闇という見方を付け何かをしてしまいそうだった。だけれども此処は普段生徒達に勉学を教える場、邪な感情は太陽光と共に沈んだ。

「やっぱり、ってイノと同じ事を云うんだな」

薄暗い部屋でシカマルの声は静寂にも負けなかった。
誰だって見れば分かる事だった、とは思い返す。中忍試験の事務も外部の応援として木の葉に来ていたテマリの側に居たのはこの男だった。人手が足りないから、仕方なしにとぼやきながら去って行った男の台詞は嘘に固められているかのようで今でも胸に疑問を残していたくらい。イノが云っていた。女嫌いのシカマルがテマリさんに対しては丁寧だ、と。自分とは憎まれ口を叩くくらいの仲で、たまにご飯を食べに行くくらいの中途半端な縁。女として見られていないことを理解していたからか。いつか来る出来事の伏線を何本も見つけてしまえば足取りは重くなり、いつの間にか会う事も稀になった。天秤にかかるまでもない。

「だって、見ていれば分かるよ」
ずっと、見ていたから。とは云えなかったは落ちたペンを拾う為に机の下に潜り込む。このまま床の一部になれたらどんなに楽なんだろう、と思わずにはいられなかった。いくら暗闇で溢れた部屋でも情緒の崩れは見破られてしまう、ましてや相手は上忍だ。せめてもの抵抗とばかりに机の下に逃げ込む。まるで叱られた後、ふて腐れる子供のような行動だった。

「……結婚式には、呼んでね」

人肌を離れたペンは驚く程冷気にあてられていた。大丈夫、と云い聞かせながら男が腰掛けている机へ視線を向ける。闇にすっかり飲み込まれた教室に眼は慣れず、そこには影さえも見当たらない。踵が脚にぶつかり接地面との擦れる音。

「シカマル……?」
「俺、好きだった」

背中越しに放たれた言葉と、伝わる他人の鼓動に身体が震える。教師と先陣を行く男との比較をさせられた気がして些か傷ついた自尊心はそれ以上に予期せぬ出来事で強ばっていた。きつく握りしめた拳の中で拾い上げたペンが悲鳴を上げる。その上から重ねられた温かみは言葉を固めてしまう。冷静さを保っている男に対して不安定な位置から抜け出せず、は本心をひた隠す事で精一杯だった。

「この教室も、校庭での事も、センセーも。ナルトやチョウジと莫迦やってさ。イノに莫迦にされて、たまーにお前も混じってイルカ先生に叱られて。不変なんてねーのに、お前とは変わんねえと何故か確信があったけど…気がついたらお前は離れてっちまってて……」
「…………」
「大人になるにつれて別々の道を行くのは至極当然だけどよ。まあ、なんだかんだあって、アイツと会って、結婚だもんな。男でもマリッジブルーっつーの?」

女々しい事は嫌いだと云っていた男の鼓動は一定の早さから逸脱する事なく伝わってくる。は冷静になろうと山のままになっている紙達を見る。重ねた手から歳を感じないで欲しいと云うささやかな乙女心を交えながら。

「………大丈夫。シカマルとテマリさんなら幸せになるよ」
「……おう、サンキュー…」

離れていく温かみを少し惜しいと感じながらもは安堵した。暗闇に乗じて何かをしかけたのは思いの外シカマルの方だった。気配を消して近づいた男は豪快に靴音を響かせながら教壇を歩く。もう着る事なんて滅多にない深緑のジャケットが、影と混じり合い紺色のように見えた。複雑さを増した色合いに一時だけ昔の悪戯仲間に戻りたいという衝動に駆られる。けれども、もうそれも手の届かないところにいってしまった。結婚式の招待状は送っとくわ、と近場で呟いたシカマルの声が反芻される。用事の済んだ足は出口へと向かい、相変わらずの立て付けの悪さにシカマルは「これも変わってねーな」とぼやいた。木の葉も何度か戦争になり学校内にまで資金が回って来ず、使えるところはそのままだった。何度か扉が抵抗を見せたが、それも直ぐに諦めたようで溝を擦る音が響く。

「じゃあな、」
「次は式場でね」
「ああ」

廊下の光によってシカマルの眼光がを射抜いた。次会う時はきっと今日のような少し憂いた彼ではないだろうし、今まで見た事もないような表情で彼女の隣に立つのだろう。暗所に慣れてしまった所為で光に飲まれていくような錯覚がした。「ずっと、好きだったよ」飲まれていく背中に向かい呟いた。この際思い出紀行と乗じた彼の辿り道に置いて行って欲しい。聞こえていても聞こえていなくても、この想いは来週には失くそうと思った。居なくなった男の姿を追いかけるような事はしない。隣に目線をやると夕刻から全く高さの変わらない未処理の添削物がまた視界に入る。外はすっかり暗闇で元気が取り柄の子供達は誰一人居ない。あの中に混じっていた頃の男も女も。マリッジブルーが伝染した、と苛立ちながらも来週の式を少しだけ愉しみだと片隅に置いてみる。香辛料のように降り掛かる痛みは最初に飲み込んで。

2015/11/01|が|害のない愛ではいられません