中禅寺秋彦が好きだと気付いた時既に男には才色兼備の奥方が居た。居たからと云ってどうしようと思い患う事をしないよう彼女は必死になりながら別の事柄に意識を寄せようと努力に勤めた。その甲斐あってか彼女は芥川の亡霊さならがの男にその心境を見破られることなく座卓に勧めら茶を呑む事もしばしばだ。細君も彼女の心の裏に隠された淡い想いにはこれっぽっちも気が付く事はなく、人の良さそうな笑みを浮かべてごゆっくりと紅も付けていないというのにやけに朱い唇を動かした。
家に来ているからと云って夫婦の間を裂くつもりは元よりなく、只本の虫である中禅寺に会いたいが為に尋ねているだけ。喩え、本ばかり読み漁り此方を向く事が稀であっても、見た目では推し量れない男の細君への愛情が深いとしても、彼女は男を厭う事はなく京極堂へと足を運ぶのを止められなかった。毎度来る度に呆れ顔でまた君か、と呟く男の薄い唇に何度心を跳ね上がらせたことか、気付く由もないだろう。何せは人より些か感情を表に出すのが苦手であるからだ。それは掌に水を留めようと躍起になるのが酷く滑稽な行為であるのと同じだ。幾らその掴めるかも分からぬ水を掬い上げられる唯一の男であっても困難であるとは自負していた。何故そんな風に自信が持てるのかと云えば、今まで一度も男から発せられた気分の様子を云い当てられた事がなかったからだ。普段の男の様子を見ているものならば世迷言を、と笑い飛ばしたかもしれない。が、真実であるのだから覆す事は出来ない。
「いつ見ても千鶴子さんは美しいですね」
また君か、と幾度となく云われた言葉には気にする様子もなく向かい側に座り込んでいる。中禅寺はの言葉の意味を汲み取ろうと思案しているようでもあり、頁を捲ったばかりの本の内容を吟味しているようにも取れた。
「君はいつから同姓趣味になったんだい」
「…なんでそうなるんですか、」
中禅寺はの視線を追う事をしていないにも関わらず断定的な言葉を吐いた。こういう時に限っては彼の云い分は正しい事が多い。
「恋する少女のような眼をして千鶴子を視ているからだよ」
本から眼を離さない癖に、とは心の中で思ったが大体は合っているので反論は出来ない。中禅寺の細君はとても一般人とは思えない美しさがあり、しかも中禅寺秋彦の妻なのだからそう云った眼で見てしまっても仕方ないのだ。そういう点で云えば千鶴子に恋をしているかのように見えるのかもしれないと思った。本当は貴方が好きなんです、と口に出せたらどんなにいいのか一向に顔を上げようとしない本の虫に気付かれぬように溜息を吐いた。
「、態々人の家に来て不幸を撒き散らしに来たのかい。それならば早々と帰って貰おう」
「溜息ひとつでそこまで飛躍するなんて大袈裟じゃあありませんか」
恨めしい眼で睨みつけても相手は一向に気にする様子もなく本の頁を捲る。破いてしまいたい衝動、何て子供じみた感情なのだろうか。そんな此方の感情を意に介せず中禅寺は云う。
「大袈裟なものか、人はそういうささやかな事に流されやすい生き物なのだから」僕がそんな事で気分が落ち込んだりするものかと呟く姿にこの人はなんて憎らしい人種なのだろうと思いながらもは厭にならない自身が酷く疎ましく感じた。これこそが恋の厄介な処と云うべきか、それとも此方が稀なのだろうか。はめいっぱい開けられた襖障子から流れてくる風に沿って目線を向かわせると丁度中禅寺の前を行った。その風に心中を悟られているのかと刹那胸を詰めたが、まさかそんな筈はないと外へと視線を投げた。先程長ったらしい前髪から垣間見えた中禅寺の真剣な目つきが反芻され、外を眺めているというのに穏やかになる筈である心は酷くなる一方。唇を些か窄める行為も分かり易いと思われがちだが本の虫は気付く由もない。偶にそれが些か憎らしいとも云えるが助かるとも思ってしまう自身の度胸の無さに虚しくなる。
「僕はこれでも愛妻家なんだ」
突如呟かれた言葉は風の音と勘違いしてしまう程のささやきだった。幸い、は中禅寺に対し恋心を育んでいる最中だった為その声はしかと彼女の元へと届いた。本の蟲が声を出したと顔を上げた彼女に対し、中禅寺は顔を上げる事なく、頁を捲る。さっきの音は風の音だったのかと刹那思ったが前に垂れた髪の毛から垣間見える瞳が鋭く此方を突き刺したものだからそれは思い違いだったのだと気付く。
「中禅寺さんが愛妻家なのは知っていますよ」
何を、分かりきった事を行き成り云うのだろうと顔を顰めるに対し臆する事なく、中禅寺は微かに見えるかんばせの唇がつりあがるのが見えた。
「承知の上でそんな眼を僕に向けてくるのかい」
「な、何のことですか」
うっとおしいと他人が思う程に長い前髪が揺れ、外から侵入してくる風が顔を善く見せてくれる。中禅寺は嘲笑気味な頬のつり方をしておりそれを視界に入れたは言葉を失う。恐ろしいのではない、横恋慕の彼女にとってそれは何処まで行っても魅力的にしか映らない。中禅寺はそれを承知の上で彼女に見せたのだ。
「思わず君に手を出してしまいそうになる。この愛妻家の僕がね」
「…ちゅ、ぜんじ…さん、?」
だから常に本を手にしていなければならない、と中禅寺が笑う。まるでそうすればこうなると知っているかのように、示し合わせた訳でもない、けれどもそれがどういう意味合いを含んでいるのか、そしてこれからどうなるのか瞬時に察しながらは伸びてくる細い指先を振り払う事は出来ないだろうと胸を潰した。
2011/04/08|な|泣いたり笑ったりはもういいです