初めて彼を見た時も多少の驚きはあったけれども、あの人によく似た唇で発せられた言葉には身体中に電気が走ったようだった。今年中忍になったという新人の男の子。異性に飢えている女性事務員達は先ほどまでの気だるさは何処へやら、色めき立った。男の上に若くて、有望、おまけに風の噂ではなかなかのイケメンだと聞けば尚更、格好の餌食だった。はその輪になかなか入れず、隅っこで書類を片し、話題にものぼらないオジサン達にお茶を入れるのが日課だった。エリートと呼ばれる人間とくっつきたい、と思うのは生き残るため、現代版に直った人間の本能なのだろう。輪に入れない彼女がその本能を発揮するか否かと問われれば一目瞭然だった。

「奈良、シカマルっす。どうぞよろしく」

ついにやってきた対面の日。誰もが期待に胸を膨らませ、どんなアピールをして他の社員を出し抜こうかと考えている中。彼はやってきた。若い、にしても限度があるだろう、とは思ったが口にはせず(出来なかったという方が正しいかもしれない)いつもよりも派手になった顔達が強張るのが分かった。空気は一気に急降下。鈍い彼女と云えども察する事が出来たその重たさに、有望、という看板を背負った奈良シカマルという少年が気付かない筈もないのに平然と、興味も無さそうにつん、としていた。歳の割りには合わないかわいげのない表情に波紋を呼んだのは直ぐ後のこと。だけれど、は別のことを考えていた。よく似ていた、あの人に。

任務で助けてもらってから、意識しだしたあの人に。思いを寄せる相手にしては年が行き過ぎていたし、相手に家族が居るのも直ぐに知った。報われない、と分かっていたのに書類を提出しにやってくる彼を眼が追うのも止められなかった。言葉を交わしたのも片手で事足りる程度。それでも憧れなのか、恋なのかはっきりしない気持ちを長年持ち続けていた。そんな彼女の目を覚ます為にと云わんばかりのタイミングで受付から裏方に移された。以来会えず、の心も硬く貝のように閉ざした。それなのに、その人によく似たこの男の子。そして、同じ苗字。同じ髪型。は久しぶりに胸をときめかせた。

とは云え、新人君といち事務員の彼女とでは接点なんて無く、日々は過ぎていくばかり。
彼がやってきて何ヶ月間もは相変わらずの仕事っぷりだった。その間に彼は底なし沼のように知識を吸収していき、非難を呼んだ態度もいつしかクールで格好良いなどと云われるようになっていた。最初は生意気な子供だ、なんて影で云っていた癖に、と思いつつも横槍をいれる度胸もない女はただ聞き流すだけだった。あの人によく似た彼をたまに見かけては目で追いつつ、種のまま成長しない花を飼っていた。

「えっと、サン?」

いつもの風景、いつもの仕事場、その中で放たれた声に私は振り向いた。
一瞬でがちりと固まってしまったの身体を見て、二年のうちで言葉通りすっかり格好良くなり、身長もどんぐりの背比べ程になった奈良シカマルは、違ったっすか?と珍しく不安げな表情を見せた。数ヶ月間は見られる場所に居た彼もエリート候補に挙がっていただけあって見る見るうちに上の仕事を任されるようになった。下から数えた方が早い場所に居たが彼を眼で追いかけることが出来たのも今になっては懐かしい思い出になりつつあった。飼ったまま、何も与える事もなかった花を捨てかけていたというのに。彼は平然と目の前に現れた。二年でこんなにも大きくなるのだ、子供って末恐ろしい生き物だと頭の片隅で思いながら、声に出さなくてはと静かに叱咤した。

「、あってますよ。奈良くん」
「……覚えていたんですか、俺の事」
「まあね」

覚えていたの、って聞きたいのはこちらのほうだった。どんどん上へ行ってしまう彼が少しの間見かけた程度の人間の名前もちゃんと覚えていたのは奇跡に近いのではないだろうか。よこしまな思いを抱いている女が彼を忘れる訳がなかった。少し驚いたような顔をした彼にぎこちなく笑いかけながら、こんなところに何か用事?と聞く。丸く切った爪が頬を掻く。初めて見る仕草だった。初めて知る奈良シカマルという人間のこと。

「別に、こっちには…ア、アンタ…じゃなかった。さんに、用があったんです」

私に、遠めからオジサン達が興味深そうにちらちらと視線を寄越しているのが分かる。今日は準備万端じゃないからと化粧室に逃げ込んだ人たちはまだ戻ってこない。吃驚して言葉が出てこないに、彼はゆっくりとした動作で机の上に置いてある紙とペンを取った。身長が伸びたせいか、腰の位置が高くなった彼が身を屈める。動作がいちいち綺麗だ。呆気にとられているを置き去りにして奈良シカマルはあっという間に紙を染めた。滅多に行動しないオジサン達が興味を満たそうと前のめりになるのが視界の端から感じられる。なんて大胆な事をするのだろう、と頬に熱が集まっていくのと対照的に直ぐに広まるであろう根も葉もないウワサの棘の痛さを考えて頭ががんがんした。

「もし俺の勘違いだったら恥ずいんで、後で見てください」

すらすらと何かを書いたのを当事者が中身を見る間もないくらい素早い動きで半分に折られる。ずいと差し出されたそれを素直に受け取る。驚きで顔を上げると些かさっきよりも耳が赤い気がする。けれどそう感じたのは暫くみない間にはめられた赤いピアスのせいかもしれない。直ぐに冷静になる心の歪みを埋めるかのように、青年らしくなった男の言葉が降った。ここまでして恥ずかしいもないだろうに、と思わず零れかけた言葉をぐっと飲み込んで、勘違いかもという正体を見ようと紙切れに手を伸ばした。流石は期待株である。鈍った女の指先をうまくかわしてそれは遠くへ押しやられてしまう。

「意外と意地悪いっすね、」

まあ、それくらいは知っていたけど、と小さく呟かれた言葉はしっかりと届く。何で、と空気を吸ったの唇よりもはやく、彼はじゃあ、と引き戸の向こうへ瞬く間に行ってしまった。その直ぐ後、喧騒がやってきたかと思えば数分前よりも派手になった顔達が部屋へなだれ込んでくる。中に入ってきた彼女達は口々にシカマルくん、と猫なで声で呼びかける。(同じ発音の筈なのに全く別物の生命体の名前のようだった)しかし彼はものの数秒前に出て行ってしまったばかりだ。いつもは空気的な存在に指定されているオジサン達に声がかかり些か嬉しそうにさっき出て行ったよと云うのが聞こえる。非難の声と興味を失くした彼女達が蜘蛛の子を散らすように居なくなるのを見て、遠くへ押しやられた紙切れに手を伸ばした。

何かを握らされたところまでは書類の山のお陰で見えなかったらしく、追求は飛んで来なかった。肩身の狭さを感じる事なく日々を終われそう、と安堵をしながら白昼夢のような出来事を思い出す。そして、急激に恥ずかしくなり震える指先で紙切れを開いた。

(親父よりも惚れさせる自信、ありますから)

それはとても短く、簡潔だった。それでいても羞恥心を煽るには十分な材料となった言葉に全身が熱くなるのを感じる。傾きかけていた思いの片鱗を掴まれた事で全てを持って行かれた感覚が身を支配する。化粧の濃い女達の暇つぶしや、喧騒は全く気にならなくなっていた。淡い横恋慕だった筈なのに、それ以上の強い力を持った息子は何処でも先へ向かっていた。

2012/11/26|し|シュガーコートの魔法