「お邪魔します」

派手な音が立つ引き戸の向こうに声を張り上げれば天井へと連なっている本達のその奥の縁側のように腰を下ろせる処に男は座っていた。まるで本達の頂点を独り占めしているかのようだとは思った。表には看板が些か高い場所に打ち付けられておりその名は京極堂と書かれ古書肆であり奥に鎮座している男は店の店主だと云う事が容易に窺えた。暗闇の中で活字を追う等と云う酔狂な事をしている男を何度注意したことか、男の妻である千鶴とは懲りない人だと半ば諦めていた。折角何処ぞの人とは云わぬが眼力に長けているというのに態々自身から悪くしに行っている所業を是非とも全国の眼鏡男子に見せてやりたいものだ。大勢で寄って集れば少なくとも今よりはまともになりそうである。

「邪魔だと思うのなら初めから来なければいいじゃないか」

ちなみにこの言葉は幾度となく繰り返されて耳にたこが出来てしまうとは思った。
皮肉や屁理屈をこうも直球に云える男は日本男児でこの男くらいではないだろうかと些か、否多いに感じながら男の言葉を見事に右から左へと受け流した。彼女の行動も男は幾度となく目の当たりにして来た事からその言葉による返事はもとより期待していない。云うなれば常套句のようなものだった。は古書肆、もとい中善寺秋彦へと歩みを向けた。

「今日は居ないのですか」
「主語をつけて貰わないと、幾ら君と永い付き合いである僕でも分かりかねる」

分かっている癖に、と云えず中善寺の前に立ちながら決して隣には腰掛けずに云った。

「千鶴子さんです」
「ああ。千鶴子なら暫く家に居ないよ。実家に帰省中だ」
「為る程、ついに愛想尽かされたんですね」
「想像力が逞しいのは結構な事だが、それに僕を巻き込まないでくれ給え」

中禅寺は本からは決して眼を逸らさずに淡々と云ってのけ、いつもの見慣れている事だとしても本と会話を両立出来てしまう男は早々居ないのでは古書肆の芸当に些か感嘆するばかりである、がそれを男に知られるのは酷く癪でありいつものように毒舌を吐いて周りを旋回するのが彼女の十八番になっていた。善く鷹が餌を狙う様子だとか(その後に嗚呼、鷹はそんなに鈍くはないね等と減らず口を叩くのが中禅寺である)云って彼女をからかった。

「仕様が無い」

そう云っては座敷へ誘うのだから古書肆は気の善い奴なのである。
只それを知られるのには眉間の皺と男の性格を熟知しないと分からないので世間一般では付き合い難いと思われがちだ。外へ看板を出しに腰を上げる中禅寺に早々座敷に上がったは出してきたよと笑いながら奥へ消えていった。全くもって分かっているのならば出入り口の取っ手に触れる前、腰を上げた頃に云って欲しいものだと珍しく中禅寺は苦虫を潰したような顔つきになったがそれを彼女が眼にする事は今までない。運が悪いと云えばそこまでなのだが、生憎男はそう易々と相手に弱みを握らせたくない性分な為居ない時を見計らって表情を崩すのだ。厭な性質だと売れない鬱病を抱えた小説家が幾度となく云ってのけたが当の本人は涼しい顔で知らぬ振りをし幾度となく繰り返している。

「お茶でいいよね」
「ああ」

店の方とあまり変わらない程に本が積み重ねられている茶の間へ足を運べばは手馴れた様子でお茶酌みへと台所に向かっていった。古書肆はその様子を見送った後、定位置に腰掛け此処でも店先と同じように本を開く。これが彼の日常風景なのだ。お茶酌みに出たは直ぐに器を微かに鳴らしながら戻ってきた。その時も勿論の事古書肆は顔を上げる事はせず一瞬眼を走らせただけで、それも彼女が気付かない程度のものだった。

「はいどうぞ」
「ああ、どうも。しかし手馴れたものだね」
「そりゃあ、秋彦が入れると出涸らししか出してくれないんだから必然的に手馴れるわ」

古書肆の向かい側に座布団を敷き腰を下ろすと、お茶を啜った。
そうなのだ、この中禅寺秋彦は客を敬うという事を知らない。お茶を出してくれるまでは善いのだがそれが出涸らしであったなら嫌がらせとしか考えられないし、客を追い出したいとしか思えない。それだから大体はが自ら台所へ赴いてお茶酌みをし、自身の分と家の主である古書肆へ出したりするとどちらが客人か分からない。それと問い詰めないのか、と云われればとっくの昔にしていてその決着はとうの昔に終結しているのだった。それは至極簡単な事である。

「そう思うのならば飲み物を催促したり、呑んだりしなければ善い話だ。そもそも客人にお茶菓子等を出すというのはあくまで客人であって君は只の暇人だろう、その相手をする僕の身にもなって欲しいものだ。もし呑みたいのならば自分で入れてくれ給え」

ああ云われればぐうの音も出ないのが現状である。何故ならば全て本当の事だからだ。暇を持て余しているから古書肆の処へ足繁く通っている訳ではないのだが、どうせ彼からしてみればどちらも同じようなものであるだろうし、意味の無い言葉だと分かっているから言葉にした事はない。それにたかがお茶酌みだ、とは早々に戦う事を放棄しているのだからこれはもう仕方のない事だ。

「そういえば昨日、関さんに会いました」

湯呑みを手にしたまま視線を古書肆へと向ければ、早速手にしている新しい本の頁を捲っている処だった。関こと関口に会ったのは近所の茶菓子屋前で彼にしては珍しく外へ繰り出している最中で、久々に会った昔の友人には顔を綻ばせた。

「君も物好きだな、彼を見て顔の箍を外すなんて」
「別に外してません。古い友人に久しぶりに会ったら誰だって嬉しいでしょう」

そう云い乍昨日の事を思い出せば古書肆は本から視線を一寸たりとも外しはしない癖に綺麗に眉を寄せ上げた。それはつまり会っても嬉しくないの意なのか、はたまた彼だからなのかは思考を巡らしてみたがどうにも男の中を探るのは昔から苦手である。

「あれは止めて置いた方がいい。年中鬱を抱えているし、何よりも」
古書肆の云わんとする事が分かり彼に打って変わって彼女は口を開く。

「妻帯者だ、って云いたいのでしょうが何を勘違いしているんですか。私は別に関さんに特別な感情を抱いてなんて居ません」
「それなら善いんだが」

古書肆はまた頁を捲る。読み終わった頁の厚みが積み重なっていく、その速さには眼を見張るものがあり、善くも話を聞いていて理解が追いつくものだと何度となくは思い乍またお茶を啜った。目の前の男もつられて湯呑みに手を伸ばす、その指先までもが的確にそれを捉える。一滴も零れずに持ち上げられた湯呑みを唇へと持っていくその姿を見つめていると彼の眉が一瞬痙攣した。嗚呼どうやら無意識の内に彼を凝視していたのだとは気付く。それが何だか身の置き場を悪くしたような気分になり話を切り出した。

「関さんを好きだと思うなんて、秋彦も洞察力が落ちたんじゃあないの」

そんな訳がないだろう、莫迦も休み休み云い給え、何を云われるのか身構えていたに対しその予想は大きく外れる事になる。古書肆、中禅寺秋彦は暫く身動ぎ一つせず頁も捲られずにそこに置かれたままになり、やがて動いたかと思えば湯呑みが卓袱台へと置かれただけで本の厚みが増える事はなかった。笑って云い返そうと内心決めていたは予想外の事に視線を迷わせる。中禅寺が本から視線を外したのはそこで初めて、は驚いた。今までどんな会話にも書物から顔を上げる事はなかった男が顔を上げて視線を彷徨わせている彼女のそれを絡め取ったのだから、驚かない筈はない。何か言葉を、と思い唇を震わせて見たが意思に反して言葉は出なかった。

「僕がそんな間違いを犯すと思うのか?」

思うのか思わないのか肯定か否定、出来た筈なのに言葉は彼女の唇から洩れない。
絡め取られた視線が思わぬ程に熱を孕んでいたから、危険であると鈍い彼女でも気が付いた。それはつまりこれ以上云うのならばこの関係が崩れるという事、彼なりの警告でありは本能的に気が付いた。幾ら内面を探るのが苦手な男相手であろうともその男から広げてきているのであれば分かり易いこの上ない。書物から視線を上げきっている中禅寺が酷く恐ろしく見えた。

「…あっ…き」
声が枯れきって男の名を呼ぶ事さえ躊躇われる。それが可笑しかったのか原因である中禅寺は絡めた視線を自ら外した。そして先程の緊迫した空気など元よりなかったかのように振る舞い始め、人間誰にでも間違える事はあるさと珍しく間違いを認める等と云う事も遣って退けた。どくりどくりと血脈が広がって縮んでを繰り返す音が近くでする、は空気の変わり様についていけず書物へと視線を戻してしまった古書肆へ視線を向ける事も湯呑みへと手を伸ばす事も暫くは出来ずに居た。

2011/02/23|て|ティーカップに溺れそう