関さんがあの人の事を芥川の亡霊に取り付かれたような人相だ、というものだから私はすっかりそれを信じ込んでそれに会うまで芥川を念頭に置いていた。強ち間違えてはいない形容に初対面であるにも関わらず口元を緩ませてしまった私に関さんはいつものように顔を赤らめた。友人を紹介すると、関さんが自慢げに出会ってから丁寧に年代順に話してくれた。その期待を背負った私は簡単にそれを壊してしまった所為だった。ごめんなさい、と眉を下げれば関さんは未だに赤い頬を些か持ち上げて僕も悪いのだからおあいこさまさと云った。芥川のようだ、と思ったのも一瞬のうちだけで直ぐに似ているのは鋭い眼光と、この年では些か古いと思わせる着流しくらいだ。けれど隣に並ぶと関さんが逆に浮いて見えるくらいに彼の着こなしは善かった。

です。関さんとは数年前からの知り合いで、中禅寺さんのことは善く聞いています」

善く、彼の事を何を考えているのかちっとも分かりやしないとぶつくさ文句を垂れていたが、こうして並ぶ二人を見るとどうやらその愚痴は好意によるものだと分かった。

「ああ、中禅寺秋彦です。私もこれから善く君の話を聞いているよ」

ああ、と声を荒げた関さんににたりと云う擬音が善く似合う笑い方で中禅寺さんはああこれは云ってはいけなかったねと洩らした。それさえも禁句だったのか関さんは益々顔を赤くして抗議の声を上げた。玄関口で大の大人三人が立ち往生しながら、声を大きくする様はとても奇妙なものだった。ひと悶着の後、中禅寺さんはどうぞと綺麗に着こなした着流しの裾を持ち上げ道を指し示した。綺麗などと云う言葉は何処にでも多様された陳腐な言葉ではあったが彼のその姿はまさにそれが形になっていた。

先に茶の間へと上がった私の後ろから関さん、それから家の主である中禅寺さんと続いた。背中から猿、と呼ばれて驚きに振り向くと関さんと中禅寺さんがまたしても小言のぶつけ合いをしていた。どうやら猿、というのは関さんの愛称らしい。愛称と云ったらたどたどしく憤慨するのだろうけれども、いがぐり頭にした彼の容姿はそれがしっくりきた。

「好きな位置へ腰を下ろしてくれて構わないよ」

茶の間には座布団が一枚奥へ敷かれており、その上には主そっちのけで小さな生き物が楕円形を保ちながら息をしていた。何処へ腰を下ろそうと迷っていると後ろで待っている関さんが背中を押して京極堂の右隣側に行けば善いと耳元で呟いた。京極堂、と呼ばれた相手と私と関さん以外の人間、この家の主の名前と口の中で混ぜ合わせてそれが誰の事なのか直ぐに合点が行き関さんの云われるがままに腰を下ろした。

「関口君、お茶を入れてきてくれ給え」
「何で僕が、」
「客人だからと云って私が入れてこなくてはいけないという道理はないのだよ」

それに、彼女に出涸らしを飲ませたいのかい、と口角を上げた中禅寺さんに関さんは暫し頬色を普段よりも強くしながら台所らしき場所へと消えた。楕円形を保っていた生き物は主が柘榴、と呼んだのをきっかけに小さな両耳をぴくぴくと動かし、するりと身体をどかした。鈴をつけた柘榴と呼ばれた猫はそのまま縁側で身体を丸くした。主の意思を一から十まで知っているかのような動作に今にも我輩、と口を滑らすのではないかと期待したが彼はあくまで芥川のそっくりさんであり夏目漱石じゃないと緊張を解した。

それも数刻と経たずに中禅寺さんとふたりきりになってしまったと気付いたときには関さんを真似たかように顔に熱が集まるのが分かった。ネタ明かしをしてしまうと、私は関さんから芥川の亡霊のような中禅寺さんの話を聞かされていたおかげですっかり魅入られてしまっていた。最初は友人向けの対話の仕方で聞いていた芥川の亡霊の話を自己の為に聴くようになったのは、いつだったか。関さんが右隣と云った、それを素直に聞き入れたのが間違いだったか。いやしかし真正面というのも視線を何処へもっていけばいいのか分からなくなりそうだ。まるで此方の考えが手に取るように分かるのか、芥川のそっくりさんはふ、と笑った。

「そんなに強張らせなくても、とって食べようなんて考えていませんよ」

関さんに見せたにたり、とした笑いは何処へやら。たった四判刻で胸の内はあっという間に焦げてしまった。すみません、と返せばばいいのか。緊張してしまって、とおどけて見せればいいのか。一度焦がされた部位の鼓動はそれはもう酷いものだった。関さんが聞けばあの、さんが、と精一杯の軽口を叩いただろう。その関さんは他人の家の台所で出涸らしを入れぬようにと奮闘中なのだろう。

「実は……関さんから話を聞いているうちにすっかり中禅寺さんのファンになってしまったみたいです。ご覧のとおり、身体が云う事利いてくれません」

唇がすらすらと言葉を奏でた。ファン、だなんて我ながらおかしい喩え方をしたものだ。言葉にした処で固まった身体は容易には弛緩しようなどとは思わないらしい。おどけて見せた私を面白いもの—関さん曰く、内と外とでちぐはぐなことをする人を観察したり、論破するのが愉しみらしいが—を観ているかのような表情を見せた。

「あ、いえ。ファンだなんて、云われたのは二度目だったもので」

無意識のうち、訝しげな視線を向けていたのか中禅寺さんは弁解を口にした。
二度目、というのはどういうことか、眼を丸くさせて見上げた中禅寺さんの表情はとても愉しそうだ。

「関君、ですよ」
「…え?」
「貴女と似たような顔で、ファンだと云ったのは」

まあ、あれは貴女とは似ても似つかないような顔のつくりですがね。と笑う。酷く無邪気な笑いをみせた中禅寺さんに心奪われてしまいそうにもなったが、それよりも関さんと同じ失態をしてしまったことのほうが頭を占めた。関さんもきっと私と同じように芥川似の彼に魅入られてしまった口なのだろう。会う度、芥川の、が常套句になるほどに。返す言葉も見つからず、熱くてしようがない頬を両手で押さえた。中禅寺さんはそんな私を見て益々笑みを深くした。嗚呼、恥ずかしい。

「…、関さん遅いですね…」
この妙な空気から抜け出すためもあったが、純粋に関さんが台所から戻らない不安も重ねて口にした。他家とは云えここまで時間がかかるものなのだろうか。関さんのことだから茶筒が見つからず台所でひとり唸っているかもしれない、と座布団から足を上げた。

「すみません、少し様子を見てきます」
「ああ、待ち給え」

立ち上がったおかげで中禅寺さんを見下ろす形になる。のに、彼の持つ眼光の鋭さは立ち上がったくらいでは鈍くはならないようだし、中禅寺さんも格別気に留めた様子もなかった。あれは茶程度でも人の倍は時間を要しているから、気にする事はない、と足を下ろしていた座布団を子供に諭すように数回叩いた。何故かそれが仲睦まじい恋人同士がする事のようにみえてしまい、中禅寺さんの意図せぬところでまた顔を朱くしてしまった。

素直にまたもとの場所へ落ち着けば、左隣手前に居る着流しの善く似合う男は液状化しそうな私の脳みそとは無縁な顔で僕も貴女に云っていないことがある、と打ち明けた。冒頭に関君も莫迦なことをする、としっかりと呟いて。

「異性に好意を抱かせるには利き手側に腰を落ち着かせると魅力を感じるそうです」

そしてその証明に、僕の利き手側に貴女が居る。どういうことか、分かりますか。関君には悪いが、話を聞いているうちに僕にしては珍しく彼の空気に当てられてしまったみたいでね、興味を持ってしまった。これはきっかけに過ぎない。そうです、貴女ですよ、さん。

胸に詰まる思いというのはこういうことを云うのだろうか。
ほぼ初対面に等しい相手を心に住まわすなんて、どうかしている。きっと以前の私なら、一刻前の私なら思っていたに違いない。けれど、感情というものはどうして、人の思考をあっという間に崩してしまう力を持っているのだ。足を置いている座布団は、ついさっき彼が掌を何度も置いたものだ。どうやって座っていたのかさえ分からなくなりそうなほど、中禅寺さんの言葉に、視線に胸は弾んだ。

2012/04/23|つ|つよいひと向けのよわさ