慈愛のうばら

美の象徴のような、長さを誇る彼の髪の毛が空に散らばる度に、魅入ってしまうと、次に飛んでくるものはいつも決まっていた。「バカヤロウ!」端正な作りからは想定しえない、男らしさを孕んだ声色が叫んだ。そして続けられた先には、死にたいのか、という怒りだった。まさか、そんな、と唇をすぼめて、宙に舞うそれから気持ちを切り離して、慣れた手段で事なきを得る。

敵の怒声と、風を切る鋭さから逃れて、地に足がついた頃にはあの美しい黒髪も静止していた。隣に降り立った彼の長身から、伸ばされたそれに、つい手が粗相を起こしかけて、鼻をかすめる血生臭さで、はっと我に返る。もう少しで彼の耽美を汚してしまうところだった、と指先を丸めた。

「神田といると任務が早いね」

誤魔化しきれない焦りを、言葉で覆い隠して神田と呼んだ男を見上げた。私から見ると、彼は随分高く感じてしまうけれど、この国からしたら私の方が異端な大きさであることは、長い生活で認知している。神田は愛想のひとつも向けずに、私が武器を懐にしまうのを、一瞥しただけで返事は貰えそうになかった。

ふう、と心中で静かにため息を吐きながら、周囲を見渡していくと、さっきまで人だったであろう塊が眼にはいる。形も残らないそれを人と認識できるのは、置いてきぼりにされた遺留品が、人であった証を落としていったからだ。助けられなかったのは、誰の所為でもない、と割り切った言葉が反芻して、自己を宥めてみても、腑に落ちない部分が渦を巻いた。

「気は済んだかよ」

別次元へ飛んで行ってしまいそうな思考を、容易く引き戻した声へ視線を辿っていけば、神田は相変わらずだった。彼らに情を抱くわけでもなく、かと云ってこちらへ意識が向いていることもない。神田は先ほどまで舞っていた空を、淡々と見ているだけで、私が歩みを始めるのを辛抱強く待つような言葉を与えるだけだ。

「うん、待たせてごめん」
「行くぞ」
「はい」

素直に言葉を乗せれば、待ち望んだようで、さっさと歩幅の広い脚で帰路を辿る。忍耐力のない神田にしては、随分譲歩したと知っていたから、素っ気無さに引っ掛かりを覚えずに、背筋の伸びた美しい背中を追いかけた。

汽車の中での神田はより寡黙になる。混んでいるから、という理由で向かい合わせで腰を下ろしたのに、神田は頬杖をついて、窓の外を眺めてこの場をやり過ごそうと決めてしまった。その向かい側で、なんとなくぼんやりとした目的のない気持ちが、居た堪れなくなって神田から意識を逸らす。丸めた指先を広げてみると、汚れを落とす時間もなく飛び乗ったためか、戦いの痕が爪に如実に表わされていた。

「……はあ」

十字架を背負う教団の関係者の爪を、わざわざ見るような奇特な人間はそう居ないだろうから、気に留めることでもないし、帰ってからいくらでも落とす機会はある。それなのに、こうも気分が落ち込むのは何故だろう。ガタン、と汽車は降車しない駅へ止まり、石炭の燃焼を空中に撒き散らした。気分転換に、と窓を開けていた所為で、たっぷりと害のありそうな煙を吸い込んで、慌てて閉める。煙たい車内にも神田は、無駄な動きひとつしないで、関心は乗り降りする人々へと移っていた。

「神田」

任務を云い渡されてから、一度も視線を交えてもらえていない、鈍い思考の持ち主でも気付いてしまう。神田、と呼びかけたのに、名前の持ち主はこちらに意識を向けるのがもったいない、と云うような頑なさは一向に崩されない。少し腕を伸ばせば届いてしまう身体や、膝も僅かに前のめりになると、触れてしまえるのに、神田の意識は私からとても遠かった。

「…早くつかないかなあ」

心中で呟いた筈が、つい弾みで喉から出てしまい、汚れた手のひらで口元を覆う。日常生活の中に紛れて、片隅にしまえた記憶は、生臭さによって再び乱暴に取り出された。撒布された言葉を飲み込めないのに、隠した手のひらの下で下唇を強く噛んだ。至近距離で呟かれた言葉に、空耳は通用せず、微動だにしなかった前髪が微かに動いて、眉の動きを知る。少し伏せると、神田の鋭さはほとんど黒髪で隠れてしまって、心中を探ることも一層難しい。(なにか、云って)そう、願うのに彼からは望んだものは得られず、喧しい汽笛に身体が強張ると同時に、外の景色も変化していった。


「神田、すき」

靡いた黒髪が、空色に染まることなく、自我を保つ屈強さが彼と酷似して、胸は溢れかえった。つい口をついて出た言葉に、稽古をしていた神田は一切の動きを止め、座禅を組んでいる私を見下ろす。単純である言葉の端々から、難解な欠片が弾けて、神田の周りで光を放ち、眼が痛い。精神統一のための座禅が意味を成していないことが、どうでもよくなるくらいに、彼の全てに眼を奪われていることが詳らかだった。

「寝てんなら部屋に帰れ」

あれだけ動いたのに汗ひとつかかず、綺麗に静止した身体の先の神田は、どんな感情にも無情を貫くような顔で、煌めきを一蹴した。受け止めてもらえると露ほども思わず、想像の中でのみ活きたそれを、呆気なく砕いてしまう神田は、憶測の域から出ることはない。途端に告げてしまった本心を後悔して、まともに見られない眼光から逃れるように脚を崩した。長年腹中に潜めていた愛情を、ひけらかしてしまった後悔と混ぜ込んで、偽りを固めた頬はへらり、と緩められる。組んだ脚が痺れて感覚がない。能天気な笑い顔が気にくわないのか、神田の険しさに輪をかけた気がした。

「うん、眠てたみたい」
「………」
「部屋で寝てくる」

寝ていたのか、そう云われたらそんな気がして、瞼も重たいし、欠伸もしていないのに目尻に涙が浮かんだ。目元を擦って、子どもじみた仕草に呆れられただろうか、と思ったりしたけれど、神田を見つめ直す余裕はない。もう一度あの瞳と交えてしまったら、堰が切れてしまうのは眼に見えていたから。感覚のない脚を持ち上げて、まるで他人事のような一部を叱りながら、急ぎ足で稽古場から逃げ出した。


重たい瞼を持ち上げると、汽笛がまた鳴った。何度目だろう、と窓枠へと眼を向けると、教団のある街まであと数駅のところだった。いつの間にか下がった、頭をもたげると神田は寸分違わない姿で、目の前に存在していた。(ああ、そういえば、)神田が様々なことを、一段と向けなくなったのはあれから、と云うことを思い出す。幻影であってほしい記憶は、夢うつつの中で再現されて、眼を背けるのを叱咤するようだ。

(好き、)

なんで私はこんなにも神田が好きなのだろう。しだれた前髪からあの光は見えやしないし、だからと云って見えても、交えられる自信は皆無だ。すっかり見えなくなった感情線に探りを入れて、曖昧のままで放置された告白に終止符を打って欲しい。かと思えば、このまま、見て見ぬふりをした神田の向かいで、黙々と想い続けていたい気持ちも胸をかすめる。隠伏していた気持ちが、夢のせいで掘り返されて、人形のように動かない神田に触れてみたくなった。

「そんな眼で見んな」

暗幕から瞳を出した神田は、逸らすことなく、一途に私を射抜いた。触れてみたくなった衝動から、伸ばしかけた指先が中途半端な位置で静止をかけられて、二の腕が震える。長い間交える機会を与えられなかった、無機質な神田の双眸は、窓から差し込む光で、煌めきを取り戻したような錯覚がした。そんな眼、というものが分からずに、戸惑うまま窓ガラスへ眼を向けると、冷静沈着とは程遠く、感情の揺さぶられるがままの、おぼつかない瞳と合う。

「ごめん」

汽車の揺らぎに身を任せて、神田の言葉を飲み込むと、苦味が舌を麻痺させる。口にしなくても、気付かれてしまうほどに、溢れている感情を隠そうと、膝に眼を落とす。膝小僧は擦り傷だらけで、普段は眼もくれない癖に、この時ばかりは意識が向いてしまう。年頃とは思えない無法地帯に虚しくなって、団服の下に隠した。

「何を今更」

空気を震わす柔らかさに眼を開けると、神田は少しばかり歪めた唇で笑っていた。彼自身の腕によって歪められた頬の作用と、そう解釈したい身勝手さを考慮しても、神田はしっかりと私を見ていた。重たい上着の下に潜めた両脚がつられて笑う。

「い、今更だって気になるんだよ」

半ば開き直りながら、天邪鬼な自己が可愛げの欠片もない言葉を吐く。膝小僧然り、どれをとっても女らしさもない、性別だけが辛うじて女というだけ。神田と同じ濃厚な髪色を持つ、女性を思い浮かべ、彼女の持つ魅力の一部が自分にもあったのなら、と不毛な考えが巡った。車内は元の木阿弥。好機を握りつぶしたつむじまがりから、再び眼を逸らした。「らしくないだろ」教団のある街へたどり着く最後の一声と重なり、うまく聞き取れない神田のよく通る音質を辿る。

「なんて云ったの?」

見られずにいた神田の鋭さを、自ら絡め取ろうと追いかける。神田はやや不機嫌そうに、歪みを強めた後、外の景色へ視線を投げてしまった。

「繰り返し云うつもりはねえよ」

再び動き出した汽車の揺れが、穏やかに律動を繰り返して、日常へと戻していくのを、神田は黙々と受け入れているようだった。車内の外では廊下を走る子どもの甲高い声と、遅れながらも、その喧しさに引けを取らない声が続く。扉を開ければ、その中に簡単に飛び込んでしまえるのに、彼らの日常へ足を踏み入れることは赦されていない。時々、その中へ全てを投げ捨てても、入ってしまいたい時はある。

「すきだよ」

頬杖から離された顔から、憮然とした神田の瞳が、私を射抜いた。頃合いよく、子どもが両親に捕まり、一層強く叫んだ声で、ほとんどを掻き消してくれる。耳に入らなかったと高を括って、おかえしとばかりに微笑み返すと、その驚きは色濃く引き出された。どうしてまた云ってしまったのか、自身のことなのに、分からなかった。ただ、その人の傍にいると、気持ちを落としてしまいたくなる、そんな相手が人には居て、私には神田だった。「今、なんて」と問われるのか、それとも「寝ぼけていたのか」と再びはぐらかされるのか、内心は苦し紛れの気持ちだったのだけれど、神田は驚きから脱し切れずに、丸々とした瞳のまま私を見つめていた。

「今、」

それを見つめ返すと、何かが身体から抜けていくようだった。もし、神田が聞き返してくれるのなら、少しは素直さを身につけてみようか、と思いあぐねる。日常へ返す揺らめきは、些か憂鬱へと沈めてくれるのに、時々、人間味のある瞳を見つけると、それだけで満足してしまいそうだった。遠かった神田が、やや前かがみになりながら、しっかりと唇を緩めたのを見て、もう一度「すき」と告げた。