雨を知らない猛獣へ

ある時期になると、唐突に、腹心の男であるセブルス・スネイプに、ダンブルドアは告げた。淡々と語られる少女の経歴と、物悲しさに、一時眉の動きが顕著になるが、それもすぐに治る。重要性を孕んだ内容は、勿論のこと、警戒を重ねた校長室で行われたため、ふたりと、ダンブルドアが飼育する不死鳥、それと偉業を成し遂げたであろう、過去、ホグワーツを支えた柱達。立派な額に飾られた肖像画達は、下手くそな寝たふりを決めつつも、象のように大きくなった耳はしっかりと会話を盗みとっていた。

「あとは頼んだぞ、セブルス」

名を呼ばれた、スネイプは何度か、言葉の隙間に反論をねじ込もうと、口を切るも、それをみすみす逃す失態を犯さない大賢者は、嫋やかでありながらも、確固たる意識で跳ね除けた。頼んだぞ、は翁にとって、この話は終いとする、と同意義であり、スネイプは承知の上だった為、早々と諦めた。

季節外れの転入生が学舎の扉を叩く、というのは噂好きな小さな魔法使い達にとって、これほど美味なことはない。とくにそれが、一昨年入学したハリー・ポッターの双子だとしたら、尚のこと。が雑巾のような帽子をかぶることになったのは、ダンブルドアから呼び出されてから翌週の出来事だった。大広間にて、随分大柄な男に連れられてやってきたのは、少女だったことに、スネイプは些かの驚きを浮かべる。あの翁の口からは性別は聞かされず、必要性のなさから、すっかり同性だと思い込んでいた。相手が大きすぎた為か、今にも消えてしまいそうな小ささだとスネイプは思う。少女は突然の宣告によって、学舎に半ば強制連行されてきたものだから、すっかり怯えた身体を引きずっている所為で、一層それが顕著に思えたのだ。

「彼女が性を名乗っておるのには、わけがあってのう」

先週語った翁の言葉に、スネイプは憎々しげに眉間を寄せる。例のあの人に狙われたポッター家から、ひとりでも、と連れ出された幼子だった双子の妹は、リリー・ポッターの遠い親戚である家に身を委ねたのだと云う。彼女の親戚ならば勿論、マグルの育ちであったからか、魔法のひとつも見たこともない少女にとって、頭にかぶせられた雑巾が、裂け目から言葉を発すなどと、露ほども思わないだろう。跳ねた身体と、雑巾のような帽子が「グリフィンドール!」と高らかに叫ぶのはほぼ同時だった。


ハリー・ポッターは、ネチネチとした物言いをする男を真似るように、眉間に不機嫌を乗せた。先ほど行われた魔法薬学では、思った通り、底意地の悪い質問と、詰りが待っていて、男の赴くままに点をたっぷり減らされてきたばかりだった。下級生と入れ替わりで出て行くと、ハリーは酷くあどけない少女とすれ違う。それが自分の双子の妹であることが、にわかには信じられず、怒涛の質問攻めからひと月以上経つというのに、まともに会話をしたことがない。

「やあ、元気?」

と一声かければいいのだろうけれど、そういった陽気さに欠けていたハリーには難関で、魔の部屋へと身をつけた妹の背中を見送った。

つい最近までマグルだった少女が、突然魔力を持つからと云って、魔法学校へ放り込まれるのは、獅子の檻に無防備な人間を放り込むようだ。スネイプはひと月経っても、雰囲気に溶け込まない浮いた少女を、尻目に常套句を吐きながら、課題を淡々と提示した。子ども達はあからさまに、厭そうな顔をしながらも、堂々とスネイプに抗議できる強者は居らず、当てられまいと頭を机に縛り付けて、薬を煎じることに没頭しようとしていた。

誰もがスネイプから一番遠ざかりたいばかりに、後ろの席がよく埋まっている中、目立つ髪色だけが先陣をきって腰掛けていた。好き好んで、その列に座る生徒は誰一人としていない。スネイプは興味深げに、視線を落としていくと、たっぷりとした赤毛が、たどたどしい視線を教科書に向けているところだった。少女は他の者と同様、机にかじりついていたが、必死に理解を得ようとする様子は、ただひとりだけだった。スネイプは逡巡するも、ダンブルドアの呪縛が頭を過ぎり、諦め半分に、小さい身体に近づいた。大柄なハグリッドに連れられていない分、成長したように思えるが、それでも幼さが残る小柄さだった。

「鷲の爪はそのまま入れるものではない」

教科書に鼻を押し付けていた少女は、はっとして思い切り頭をあげた。その際に宙を舞った赤毛に胸を抉られたような、痛みを訴えた気がしたが、スネイプは知らん顔をする。赤毛に埋もれた作りの小さな造形は、スネイプの知るところの男女どちらとも当てはまらず、双子の片割れを思い出しても、重なる部分はほとんど見受けられなかった。

「そう…なんですね…そのまま入れてもいいものかと思ってしまいました」

今度ばかりは知らん顔を決め込むことはできなかった。少女の呟く、透明感のある通る声質は、スネイプの胸を浸すには十分な代物だった。赤毛のみ、とばかり思い込んだ身勝手さを笑うかのような、かの人を切り取ったそのものに、指導する立場を崩してしまいそうになる。

「…魔法薬とはとても繊細なものだ。極僅かな違いでさえ顕著にされてしまう」

興味深げな瞳が、スネイプを見上げ、子どもらしさを孕んだ純真さが薄暗さに光を入れる。その瞳はスネイプと良く似た漆黒で、目鼻立に突出した特徴はない。それだというのに、平凡さを包む非凡な赤毛と、心中に隠された声は厄介そのものだ、とスネイプはテリトリーである地下室から逃げ出したくなった。

「その差異から時には大惨事を引き起こすこともある」

普段のスネイプならば、私語はまともなものが出来上がってから、と叱咤するものの、に向かって放たれた言葉は、当たり障りのない会話を成立させようとするもので、愕然としたのはスネイプの方だった。やりきれない思いに引きずられて、子ども相手に視線を逸らしてしまう。

「そそっかしい人には難儀な科目ですね」

困ったように笑いながら、「そそっかしいので気をつけます」と付け加えたは、スネイプの畏怖に当てられることはない。とんだ食わせ物だ、と少女から視線を逸らしたまま、再び見ることはしないで、スネイプは後ろの方で追い詰められた兎のような生徒達へ足を向けた。聞き耳を立てていたのに気づかないほど、気を取られていなかったスネイプは、主にグリフィンドールへの点を奪った後、一限前にも起こした意地の悪さを余すことなく発揮させた。


あの消え入りそうな赤毛は、もうひと月経つと悪目立ちしていた色が、すっかり獅子寮色と溶け合っていた。主に勉学面で発揮された、もともとの才気が、教授達の関心をハリー・ポッターの妹から、という才女への感心へと変化を遂げる。一学年から学んでいた事柄は、あっという間に兄であるハリー・ポッターに追いついた。蛇寮ばかりを贔屓しすぎる傾向にある、スネイプでさえ眼を見張るものがある、という少女の勤勉さは、最近までマグルだったという事実が、虚妄のように思えて仕方がない。

「そそっかしい、とは良く云ったものだ」

スネイプは鍋の奥底までじっくり見つめて、少しでも粗を見つけようとするが、混ぜられた液体は次第に、深い緑色になり、やがて黒板に書かれた通りの、黄金色になった。今にも唾を吐いて、成功した薬を廃棄に追い込むのでは、と周りが不安で押しつぶされんばかりであるのに、当事者であるは、目の前にまで迫った鷲鼻に微笑みかける。

「嘘は云っていません」

は出来栄えに満足をして、ガラス瓶に液体を流し込んだ。手を下せなくなったそれは、透明ながら、きらめきを遮られた地下の中でも、僅かながらの光をたっぷりと吸収して、輝く。難癖のつけようのない液体に、スネイプは赤毛の少女をどうしたら苦しめられるのか、できる限りの手立てを組み立てようにも、そもそもの材料がない。それが一層、スネイプを苛立たせた。

「よそ見をしているような余裕があるようには見えないがね、Mr.ウィーズリー」

ウィーズリーと呼ばれた少年は、持ち前の赤毛と同じくらいの顔色になり、目の前の鍋から煙が出ると、直ぐに青くなった。勤勉な少女の、燃えるような赤さほどではない髪色から興味を無くし、スネイプは相変わらず先頭から退くことのないに視線を戻した。

「あっ」

スネイプの胸を鷲掴む、短い発声が聞こえたかと思うと、少女の指から溢れていく赤さにぎょっとしてしまい、思わず足に力がこもる。はスネイプの視線に気がついて、眼が眩むような赤毛を揺らめかせながら、やや恥ずかしげな様子で笑いかけた。

「蝙蝠の血をこぼしちゃいました。やっぱり気を抜くと駄目ですね」

その言葉から、提示した薬の材料の一部に、蝙蝠の血抜きが含まれていたことを思い出して、スネイプは我に返る。失態を犯したことで、ゆとりのあった少女の気持ちが、少なからず悪影響を及ぼしたらしく、困ったような顔だった。「そそっかしさ」を今かと待ち望んでいたスネイプにとって、嘘偽りのない言葉が、搦め手となったというのに、流れ落ちる赤さに眼が離せられなかった。赤毛でしか、かの人を彷彿させない、少女の見た目に反して、困惑を共有しかけたスネイプは、うっかり「減点」しそこない、色白な腕を伝う赤色に背筋を震わせられた。

「先生?」

滑らかに聴覚を刺激する、あどけない声色に歯を噛みしめると、不健康そのものであっても、いい音がする。煩わされた事実を突き付けられて、スネイプは蝙蝠の血を無駄に流し続ける、の腕を出し抜けに捕まえる。触れたことのない細い腕は、ひくり、と一瞬跳ねたものの、スネイプの動作を否定することまではしなかった。

「蝙蝠の血液には中毒性がある」

赤さはスネイプの指先まで汚して、ぬめりを移していく。はスネイプの言葉に憮然として、戸惑いを瞳に浮かべるが、掴まれた腕の所為で好き勝手には出来ないと、大人しい。少女の後ろの席では、先ほど叱咤した少年の青々とした顔と、そのまた数席下がると、丸眼鏡越しに対抗心むき出しの少年も見えた。いつもならば、高らかに挙げられる手の持ち主である、栗色の少女は、まだそこまでの知識を得ていないからか、黙って事の顛末を見守る。通常の男であれば、好機とばかりに反骨精神を折るのだが、そんなことは取るに足らないと、スネイプは全く別の感情に支配されていた。

「洗い場までついてくるよう」

スネイプが作用を加えれば、あっという間に引きずられてしまいそうな、細い腕は素直に釣られる。やや奥ばった場所に作られた流し場が、生徒達との繋がりを遮断して、スネイプはひっそりと唇を歪めた。は「先生のローブに、」と不安を揺らしながら、ひとりでできることを示唆するも、スネイプは聞き流して、たどり着いた流し場の蛇口をひねった。流れ落ちる赤は、みるみるうちに薄まり、瞬きをする間にはすっかり流れ落ちて、中毒性について詭弁であることは、蝙蝠の血と共に排水溝へ吸い込まれる。

「ありがとうございます」
「気を抜くと、このようになる」

スネイプは元通りの白さを放つ、少女の腕から指先をおもむろに外して、何かを見せつけるようでいて、知らしめているようなしつこさを垣間見せた。はそれを見つめながら、互いに濡れてしまった肌の感触に羞恥心を覚えた。