彼は逝ってしまった。あまりにも呆気なく。私は自分でも驚く程に冷静でいて、且つ彼へ向けた涙一粒さえも溢れてこないのだから全く持って非情な女だろうかと罵ってみた処で、一向に零れてこない水滴一粒、身体から放出させるのが酷く惜しいのだろう。そう自己完結してみたとしても頬を濡らすことすらなく、表情筋も攣ることもない。いくらもがいてみたところで彼が短い生涯の内一度でも私という人間について考えてみてくれた事があっただろうか。否、無いだろうと即座に返答出来てしまうのがおおいに不満であるけれども、仕方がないと思い込む様にしてからどれくらいの年月が、過ぎただろう。彼は晩年、私という人間と一切関わりを経った。学生時代から、あらゆる縁となって、繋いでいたものは呆気なく切られてしまった。もともと頑丈ではなかったと記憶しているそれは彼が要らない、と手を離してしまえば見失う程に、薄く、細かったものだから、片鱗さえも確認のとれないそれは、もうないのだと、思った時も涙はなかった。

「あなたひとりで、何をするつもりなのか憶測でしか語れない。あの人はただ、」

私にセブルスを頼む、とだけ告げて死んでしまったのだから。
皮肉な事におおらかな唇で紡いだ名の人物によって、息をとめられたあの人の、最期。その時の私は暢気なことに自室で居眠りをしていた。あの時の気持ちは一生消えてなくならないだろう。代償に机の上で寝るのが酷く怖くなってしまったのだ、ともう居ない人へと文句を投げる、もちろん答えなんて期待はしていない。ほぼ、だけれど。(ダンブルドア先生ならば魂だけでも会いに来て、冗句を云いそうだと思ったから)そんな淡い期待も、息を吹けば四散してしまう。

私はしつこくした覚えがある。あの人に貴方を頼まれたのだから、見捨てる訳にはいかない、化かす事は不得意だけれど、拠り所くらいにはなれるのだと過信した言葉を云った気がする。息をしていた頃の彼が蘇って、私に失笑を向けた。それでいて飼い犬に噛まれたような、衝撃があるような、複雑な表情だった。

「お前如きにこの内に巻いた闇を浄化出来るとでも?思い上がるな」

見慣れた鼻で笑う姿が、鮮明であるのに、今は影も形もない触れられない存在になってしまった。彼がこの世界から消えてしまってから日を指折り数えてみた、少しは気がまぎれるかもと期待したけれども、逆効果で益々痛みは増長されていくばかりだった。そう、まだほんの数日。彼が私を敵と見なして、全世界と向き合ってから一年、彼の身が冷たさを覚えてから三日目の朝。十二ヶ月は、私にはとても長い時間だった。幼少期から厭といわれるほどに顔を見てきた、大人になっても変化のない双眸や、油気のある髪質や、体つきを見られない事がこんなにも苦痛になるなんて、想像を遥かに超えていた。最期に交わした言葉は、場に似つかわしくない冷めたものだったと思う。

ハリーが云っていた。彼が残した銀糸の中はとてつもなく孤独でいて、痛みに歪められていた、そして幸福そうだったと。貴方ならば、と言葉を続けようとしたハリーを遮って沈黙を差し出した。もう彼は知っている、孤独を彷徨う彼のことを。彼がこの世で唯一愛を注いだ人への感情は、ハリーから見ても別格だと分かり、そして憎しみを抱かれた理由も、間で挟まれる苦痛も受け止めたのだろう。それを愛した人の眼に託したというのなら、彼以外が覗いてはいけない。命を差し出しても知られたくなかったのだから。一生のうちの、最も幸福を受けていた重みはどれだけかき集めても小瓶程度にしかならない、その絶望感に上乗せするかのように記憶の中での彼が、笑った。私はそこへ指先さえも侵入を赦されていないのだと、云われたようだった。

曇り空が印象的だった、式には当然のこと、誰しもが彼を英雄とたたえてもてはやされた。そんなものは、死者にしたところで何の意味もないというのに、今までを悔いるように善い事ばかりを口々に洩らされた言葉を叩き割ってしまいたい。輪をかけて白くなってしまった彼の顔は、穏やかでもなければ、怒りもない、そこにただ存在するだけ、の器。眉間に深く刻まれた苦悩も伸びきってはいても、長年の蓄積までは消せなかったようだ。胸にかざした深紅の薔薇が、彼に息吹を与えてくれるかのようにも見えたが、薄い唇は一向に動こうとはしなかった。

「私は、」

敷き詰められた花達に囲まれた身体は、不謹慎ながらも笑ってしまうほど、似合わなくて、棺にいれこむ花を一輪手にしたまま動けなくなる。どうせなら、薬草をつめてあげた方が似合うだろうし、もしこの場に居たとして、彼も同じ事を吐き捨てただろう。背後で声をかけられ、振り向くと大勢が列をなして私が退くのを待っていた。まだ、そんなに間は空いてなかったのに、と思いながらも場所を譲ると顔も見た事のない人が彼に花を手向けたのを見届けた。

「貴様等、我輩にとって取るに足らぬ存在である事を忘れるな」

何を云って、吐かれた暴言かは定かではない、けれども反論しようとした私に叩き付けられたという事だけははっきりとしていた。それを云われたら、私は何も口答えしなくなるっていうことを良く知っている彼は、殴られたような顔をした私を置いて踵を返してしまった。その大きく波打つ黒衣に何度眼を奪われたのだろう、自意識を表すかのように盛大になる黒とは対照的に内に秘めた畏怖を、気付く事ははたして出来なかったのだろうか。彼は知らない。私の気持ちなんて、伝えた事がないから、そもそも告げようとするといつも邪魔をするものだから、云えたためしがなかった。犬猿の仲でもなければ、互いの素性すら知らないという関係でもない、曖昧さが目立つふたり。獅子寮と蛇寮で関わり合いを持ちたくもない筈なのに、繋がった縁をもたらしたのは、なんてことはない、彼女の所為だ。

「莫迦。何か云ってくれなくちゃ、あなたらしくない」

いつものように遮って、言葉を奪ってくれたのならいいのに、と土に埋まっていく彼の器はどこまでも沈黙を守っていた。生前誰か、心を赦した人間が居たのなら泣き崩れて、棺に縋り付く者がいただろうに、嫌忌されていた彼には居ない。最も、そういうことを忌む人だったから、この場は適切だったようにも感じるけれど、これだけの人間が集いながらもそういう人間が居ないことに対して、淋しさは残った。

そんな彼のことだから、今までの日常の中で一度として気を赦したことはなく、ましてやその弛みが私に向けられることなんて考えられないことだ。見てほしい、なんて我が侭を告げるような機会もなく、彼はえんえんと百合のように美しさで出来た女性だけを想った。身勝手になれたのなら、少しはと期待を胸に、接してみても闇色に浸かってしまった瞳は私を尽きるまで見てくれようとはしなかった。

「………愛していたよ、セブルス」

遮りも、突き刺すような鋭い視線もなく、散って行く人々の間で誰に拾われずに土に還った。
彼を託したあの人は私の感情に、触れ、哀れに想ったのだろう。彼が居たのならきっとこういう。「馴れ馴れしく呼ぶな。」と。

黒服を脱いで、クローゼットに服をかけた後でも、実感の湧かない身は一層冷静さを持ち、思考を敏感にさせる。普段の彼は心の侵入を嫌う人なのに、容赦なく私の心に入り込み、どくどくと渦を巻く中心核になった。一度として、彼を受け止めた事のない両腕が空を切る。ベッドへ飛び込むことも、ソファーに身を落とすことも出来るのにどちらも出来ない身体は直立不動のまま。彼を相手に笑うことも怒ることも出来なくなった今では埋葬されたばかりの場に建てられた墓石を力いっぱい蹴り入れることでしか相手に伝えられなくなってしまった。それが胸の中にまっすぐに落ちて来て、初めて頬が引き付けを起こした。

「……云い返してよ……」

抱きとめられない、記憶を、両手で顔を隠し、感情を流した。云い返せない彼は悔しそうに歯ぎしりをしている、美しい花束に囲まれて。その中には百合の花が当たり前のように、彼に寄り添い、置かれている。歪みを持つ唇はもう何も紡いではくれない。その事実だけが実感となって身に刺さる。彼女だけが生き残れば、他はどうなってもいいと叫んだ、彼が浮かぶ。それでも良かった。利己的発言さえも今は恋しい。会いたい、恋しい、淋しくてたまらなかった。

2011.07.19_Revise:2015.11.26 | x