ひやりとした身体と、痛みで眼を覚ませば、まるでダンゴムシのような格好でうずくまっていた身を笑った。頬に触れると乾燥しきって、ひりひりと痛んだ。身体の痛みも、もちろんのこと、こっちの痛覚も尋常ではない。せめて、弾力のある床であったのなら骨の痛みくらいは取り除けただろうに、自傷に走ったらしい、自身は情けなくも叫んでいた。仕事を放り出して飛んで行ったというのに、然程焦燥感も抱けず、時計が始業を差していても、何かしようとは思わない。彼に決別を云い渡され、不死鳥の騎士団も散り散りになってそれぞれが我が身を保護することで必死だった。私はダンブルドア先生のすすめもあってか、母国である日本に戻る事にした。小さな島国をどうこうしようという小規模な野望を持っていなかったヴォルデモート卿は無関心も同然だった。

彼の死を纏う姿を、注視していれば、死の際、彼を、と逃亡を謀った身の癖に、好きなように思った。眼を背けて、自分の心だけを向けた、私にはもとより寄り添いたい、という行為は、彼には役不足だった。姿表しで瞬時に帰路についた、縫われた足下は折れ、立ち上がる気力はないようだった。冷えきった身は、暖をとろうと震えるけれども、それをどうにかしようと云う気持ちにはなれなかった。

五日目が経った。相変わらず、仕事はほったらかしにして、電話口には何件も会社からの呼び出し音が聴こえて来たけれども一切を無視した。床に転がっていた日から翌日はソファーに移り、一日をぼんやりと過ごした。何か劇的な事が起きるのではないかと胸が躍ったのも一瞬で、一人暮らしの部屋は孤独を抱く事でしか淋しさを埋められなかった。日本の家では珍しく、暖炉を取り付けた場所だけが異次元で、不格好だった。それが唯一魔法界へと繋がりを眼で確かめられる方法だったから、一年中使うこともないそれは埃まみれで、見られたものではないのに、日差しのお陰で輝いてみえ、眼が離せない。もしかしたら、蝙蝠のような彼が飛び出して来ることを秘かに願ってみたが、そもそも姿表しが出来る人間が、これを使うとは思えなかった。

「呼び出しには便利だが、我輩自身の使用は遠慮したいものだ」

いつの間にか、一人称が年寄り染みた、と大笑いしたのを憤慨して、ことあることに暖炉に煙突飛行粉を目一杯振りかけ、呼び出されたのを思い出す。煤やら、余分な粉やらが暖炉内で舞い散って、苦しむ私を愉しむのが彼の復讐方法だった。親友達の訃報にイギリスへ戻り、久しく見ていなかった彼の姿は見られたものではなく、まだ器だけになった彼の方が些かマシだったような気がする。どうしても彼の近くに居たくて、ホグワーツの薬学補助を手にした私を心底憎らし気に見られた時が懐かしい。そうして雑用をやらされたり、仕返しされたり、憤慨した。昔よりも前にくるようになった子供染みた性格は、居心地のいいものだった。

私だけに地を見せてくれている、と錯覚してしまうくらいに、彼は、趣に素直だった。ハリー・ポッターをホグワーツに向かい入れた初年、彼は私を見た時以上の苦々しさで、少年を見ていた。ダンブルドア先生が「驚くでないぞ」と茶目っ気のある瞳が交差した時、まさか、と身構えたのに、防衛も無駄になるほど似すぎていて、先生が三日月眼鏡越しに笑う。

「…セブ…あ…ごめん……スネイプ教授、あれ」
「指摘せんでも、分かっている」

校内はもとより、名前を呼ばれる事へ忌んでいた彼を、思わず呼びかけると、ギロリとした眼が刺さる。食べ物を目の前にしているというのに双眸を保護する瞼や、涙袋は痩せすぎていて、無駄に浮き上がり、更に畏怖感を持たせていた。骨の伸びに際して、重量までは比例しなかったのか、ひょろりとした大人になった。幼少期の名残があるお陰で、あまり畏れを感じない私を、就任早々に諦めた彼はため息を落とし、云った。

そう、分かっている。遠目からでも分かる、空を好き勝手遊ぶ、自由さを表した髪型。幼いながらに男親の特徴をそのまま受け継いだ、眼の悪さ、利口そうな表情のつくり。やや、痩せすぎている気がするのは、マグルにあまり善い扱いを受けていない所為なのだろうと思う。そして、何より、きっと彼が言葉少なに呟いた台詞の意味するところ。度の入りによって、やや歪みを与えていても、美しさまでは隠せない凛とした瞳は、少年の女親であり、彼の云う「分かっている」の正体だった。豆粒くらいの大きさでしか確認のとれないというのに、本能的に感じ取れる彼女の温かみを感じ取ったのだろう。

「……罪だわ」

ダンブルドア先生の合図と共に食器の奏でる喧騒に巻き込まれ、隣の彼には聴こえずに済んだ。その証拠に彼は、瞳にも黒衣を被せたまま、じっと、何かを待つようにしていたから。もしかしたら、何かに気を取られていたお陰か、どちらにせよ本音をひた隠しにしていた私にとって、聴かれたくない言葉だった。

「……あの時、云えば…あなたは少しくらいは…傾けてくれた…?」

クッションに沈み込んだ身体に合わせて、落ちていく言葉に、気持ちは一層落ち込んだ。ハリー・ポッター、と忌々しく口にする度に、彼の顔は同じく歪まれて行くのを、教室の端で見ていた。見ていただけで、何かを告げることもなく、痛みを少しでも共有できたのなら、と身勝手なことを思った。台所では勝手に緩まったネジの所為で水滴が流し台に落下し、苛立たせる。数日間、ほとんど使う事の無かった流し台からは、生活感のない匂いが充満していた。空気の入れ替えもされない部屋は埃が舞い、日だまりの中で粉雪のよう。この暖かさでは雪なんてすぐに溶けてしまうだろうに、部屋を舞うそれらは揚々と空中を泳いでいた。五月始めの部屋とは思えない寒さだった。

生活音も全て遮断して、ソファーで身じろぐこともなく、天井を仰ぎみる。上からすり抜けて、誰かが降りてくるのを、願っているのかもしれない。(そう、魔法学校に居るゴースト達のように、彼が飛び出して来ることを期待した)けれども、彼は、未練なんてものを感じていなかったのか、暗闇から浮き出て来ることもなかった。気が付けば外は夜に権力を握られて、室内を遊んでいた雪達は眼に映らなくなってしまっていた。

「………」

学校の校長室に並べられた額の中には、ダンブルドア先生も、彼も仲良く隣同士に飾られている。態々ゴーストにならなくたって、額の中に居る彼に、会いに行けばいいのだ。彼である筈、だけれども、彼ではない。もう思考や感情はそこから芽吹くことはない、その時のまま、信念も、きっとそう。それに対峙するのが怖い。失ってしまったものの、大きさを確かめるのが。

「お前はそこまで、弱い人間ではなかろう」

呟きが聴こえた。また記憶の中の彼が私に話しかけてきたのだ。眼を瞑ると、確かにあった出来事が走馬灯のように流れ、私に語りかけてくる。彼は、苦虫を潰したような顔で、いつものように思いやりの欠片も感じない台詞を、さらりと流した。助手として常に一歩後ろで待機していたから、慣れてしまった、その刺々しさに、笑って返事を返す。

「強いかと聞かれたら、肯定しかねますけれど…」
「貴様の自信はトロール以下か」

フン、と鼻息を少し荒くし蔑むような目線を向けられる。レタス食い虫と云われるよりは、だいぶ譲歩された喩えではあったけれども、それでも失礼な言葉に彼よりは、マシな縦ジワを眉間に作った。

「私がもし、折れてしまいそうな人間だったら?」

歩幅の違いでこうも、距離を遠ざける事が出来るのか、と感心して、前を行く彼に尋ねた。彼は、弱さを私に投げ掛けた事を一瞬忘れたように、間を作り、やがて呆れたように、振り返る。答えは知っている、というよりも、何となく察していたのに態々彼に求めるのは、少し期待をしていたからかもしれない。彼女のような、素直な道徳心を彼が憧れたように、それを、強さだと感じたように。私には求められていないそれが、今の私には、癪だった。それでいて、彼は弱者ではないと云う。「そこまで」と表現したのは完璧なる強者ではないと理解していたから、彼なりの優しさだと、知っていても駄目だった。彼が「弱者は要らない」とチェス駒のように呆気なく手放すことを、表に出されることを私は秘かに望んでいたのかもしれない。そうすれば、彼女との違いを見せられた筈だから。

「……気が狂れたと思えばいい」

そう云い残し、地下室への歩みを早めた彼は、まるで、照れ隠しをするかのようだった。
意外な答えに驚いた私は、必死に付いて行っていた足を止め、小さくなった黒衣を纏った彼の姿を見た。弱さが浮き彫りにされたその時は、助けてやろう、と云われたのだ。まぐれだと思って。酷く分かりづらい、差し出された手のひらが、目の前で朱くなった気がした。捨て駒だと、期待して、救い舟を出されて喜ぶ、難解さをオトメゴコロと呼べばいいのか、からくり箱のように複雑だった。

「……そういう優しさが、諦めきれない理由になるのに……」

ほんのたまに、彼は気持ちを、知っていて暇つぶしに使っているのかと思う時がある。愛情面で酷く不器用な彼が、魔法薬の制作のように緻密な動きを見せられる程、器用ではないと、知りえていても時々思わずにはいられない。飴の差し出す時期がへたくそだとも云える。こうして秘かに燻らせている想いが、彼にとって迷惑になり得るのに、私が手放せないことがなによりの証拠だった。

小指に巻き付く糸も、見えずに、時折の飴でお腹を膨らませていた、安い女でいるうちは彼も、私を追求することはなかった。関心は常に、ハリー・ポッターと薬学への探究心でせわしくなく、他者では満たされなかったから、というのもあったのだろう。追随を赦さない、一貫とした態度は、彼の云うところの強者なのだと思う。それを真っ先に見せてくれた女性への手向けのようで、頑なに守り続けている心情を知りつつも、手放せない私もまた、頑固な人間だった。

2015.11.28 | x