何度か、友人が家に足を運んだ形跡があった。一瞬鍵を渡していた事を忘れて、空き巣の仕業かと勘ぐったけれど、それにしては閑散としていた為、友人の仕業だと分かった。形跡、というのはいつも訪ねて来るのは夢に落ちている間に、身辺を片して行ってくれているようで、昨夜、変化の無い暖炉に堪え兼ねて、投げ込んだクッションが煤だらけである筈なのに身綺麗な姿を、テーブルの上にお披露目されていたからだ。なんて、行儀の悪いクッションだ、と悪態をついて、批判するけれども魔法のかかっていない普通のそれは沈黙を守った。友人もまた、魔法族の一員ではあるけれど、あちらの世界の均等が崩れていると察してからは早々日本へ帰って来た口だった。

さして特化した能力に恵まれなかった彼女には、丁度いい処遇であると、思った。
もし自身が闇の魔法に対する防衛術への感心が低ければ、彼女と時を同じくして日本へ戻っただろうから、他人事とは思えなかった。彼が教師としてホグワーツへ勤めなければ、リリーとジェームズが死ななければ、私が彼を想っていなければ、全てが必然のように重ね合わされ、私が、存在している。そろそろ一週間が経とうとしていると、くたびれた洋服を見下ろし、思う。頬にかかる髪の毛は、油気を含んで、とても見られたものではない。触れてみても、そうだ、髪の毛は身だしなみの核であると考えていたから、どんなに忙しくても、手入れだけは欠かさなかったのに。とくに彼と日々、顔を突き合わせるようになってからは、尚更。まるで彼の髪の毛のよう、数回しか触れることができなかった、彼の髪質はねっとりとして、外見の無関心さを認識させられた。

「教授、これ…洗ったのはいつです…」

返って来る言葉に珍しく、恐怖を覚えつつも、薬品と睨めっこをしている彼に問いかける。お世辞にも綺麗とは云えない、所々スプリングが布から見え隠れしている、ソファーの背にかけられたローブを持ち上げた。湿り気を含んだ、それは、記憶が正しければ数日前、豪雨で中庭やグラウンドが水没した日、彼が着込んでいたものだと推測した。数日間地下室の、しかも空気入りの悪い部屋で、薬品の湯気も混じり、酷い悪臭を放っていた。それを手に出来るのも、この感情ゆえかは、考えないことにする。

「知らん。珍しい植物が生えてもいない内は声を出すな」

彼は手にされた黒い固まりを一瞥しただけで、関心のない服の始末を委ねた。このローブを着て薬草採取へ禁じられた森にと、足を運んだことが窺い知る事が出来、ため息を落としそうになる。声を出すな、と禁じられた以上、彼の機嫌を損ねてしまうことへの畏れで、両手を手に持って行ってしまい、もろに悪臭へと鼻を突っ込んでしまった。

「…ーーーッッ!!」

こみ上げる嘔吐感と、戦いながらかろうじて残った、気力で声を喉に留める。
やや残った薬草の匂いに、意識を集中させれば、何とか理性は保たれた。こちらを見もしなかった彼は、薬品の瓶を置く、静かな音を机と共有させた後、視線を向けた。落としてしまった、ローブを慌てて拾い上げて、何事も無かったかのように、取り繕った私の頬は、臭みで引きつった。こういう時こそ、彼のような平常心を身につけれたのなら、いいのに、と莫迦みたいな笑いを口に貼付ける。彼は思惑通りには、進んでくれず、呆れたように眉を寄せた。

「………要領の悪い人間に世話を焼くほど、暇ではないのだが」
「わ、分かっています……少し、油断しただけ…」

鍋の湯気で益々、不機嫌さを演出された、彼をどうやってたしなめようか、思考を巡らせるけれど、彼を出し抜いた答えなんてはなから出てくる筈はなかった。腕の筋肉までも、ローブによって引き攣られてしまいそうになる。全てはこのローブが悪い、と呪いをかけながら、片します、と云った。

「魔法使いだという事をお忘れか」

水気を含んだそれを持ったまま、地下室から飛び出そうとする、私を鋭い声が止めた。貴様、や、お前が付かなかっただけ怒気はそこそこで済んでいて、声を漏らした私を再三にわたり、注意を促す彼の、視線が刺さった。声を出した事で、失念していたと云うことが露見してしまい、外でやろうと思った、という云い訳は通じなくなってしまった。「あの方もどうしてこんな…」と呟いたところで、彼は、複数言葉を飲み込むように、喉仏を上下させて、口元を閉めた。

多忙を極める彼には、私の一々を指導してやれるほど、暇ではなく、最後まで続いた言葉を聞けば少なからず反論が返ってくる。それが面倒で、喋るのを止めたみたいだった。開きかけた扉から風が入り込んで、もくもくと、煙っていた部屋に、新鮮な空気が入る。心地がいい、と暫くそのままに、とした思いは呆気なく彼に感知され、「閉めろ」と最小限の言葉を吐かれ、鍋底へと関心は移ってしまった。

「…………」

それをすこしだけ、淋しいと、思ってしまうと大人としての威厳が無くなってしまう。悪臭を放つ固まりをどうにかすることに専念しようと思った。その時のローブは、後で知ったことだけれど、彼のお気に入りだったらしく、闇の魔法に対する防衛術以外はあまり得意とは云えない、私の腕で一回り縮んでしまい、見事に仕事の邪魔をしてしまった。特別なものならば、もっと丁寧に扱うべきだし、カビが生えるのを待っているくらいの物がお気に入り、だなんて誰が思うのだろう。痩躯でひ弱そうな皮膚色をしている癖に、力は男性そのもので、思い切り拳骨を食らった頭上には、見るも無惨なたんこぶが出来た。

満足げに、たんこぶを見る彼の視線を受けながら、ああ、試されていたのだと知った。こんな根性が歪んでしまって、陰湿なしかえしを愉しんでいる男のどこに、と泣きそうになりながら縮んでしまったローブをマグル式で洗いながら自問自答する。かじかんで赤く染まる両手を、彼はハリーに見せるそれと、似たような笑いで、仕事を放置してまでも見に来た時は、さすがに辞めてしまおうかとよぎった。

「あの時のたんこぶ…残ってしまったのに」

女をキズモノにした場合、世間一般的には男が責任を負わなくてはいけない、というのに。彼は、一度も頭に触れることはなかったから、知らないのだろうし、私もそれを付け加えることもしなかったから。(拳骨は数にははいらない)朝が来て、昼が過ぎ、夜が来て、一日中の時間をソファーで過ごした身体は精力を与えられず、冷えきった自分の手が乗った。もともと、体温が高い方ではなかったから、足されて一層、冷ややかだった。撫でられたこともないのに、彼の手の体温のようで、胸が詰まった。まるで、死に急ぐように栄養をあまり取ろうとはしなかった、彼の基礎体温は低い筈だから、多分、これくらいだ。いつも触れようと躍起になるのは私の方で、一度として近づかれた記憶はない。傍に寄る理由は、いつも、怒気を含んで居るときだけで、心労への負担を減らす為に利用されたくらい。

それでも傍に居たかった、という我が侭を今更、口にしたところで、黒々とした棺から物音ひとつしない。彼の前では何処か格好つけたがる、自分の自尊心に負けてしまった結果だった。

「そのローブ、着ているの…ね」

私の力量を試す為に、使われた、やや丈の短くなったそれは彼に着込まれていた。本を片した際に立ち上がった彼の、足下を見て、気付く。足先まで隠す筈の長さがくるぶし辺りを、ひらりと舞う姿に罪悪感と、殴られた痛みを彷彿とさせ、顔を背けたくなる。現に呟きながら思い出した私は、手元から視線を上げる事ができなくなってしまって、目の前の書類を読む振りをした。(魔法一つで丈くらいどうとでもなりそうなものを、その時はそこまで考えが及ばなかった)彼は、呟きが聴こえないとでも云うのか、そもそも、答える気がないのか、言葉は戻って来なかった。一方通行の、言葉ほど、淋しいものはない、と落ち込み具合が、視覚にも表れてなんとも奇妙な文字が羊皮紙の上で踊る。

「…………」

一日のうち、地下室に入り浸る時間が圧倒的に長い為、沈黙を呼び寄せることは当たり前のこと、投げっぱなしになる言葉達が、彼の足下に散らかっていた。指摘してしまったことから、彼の機嫌を損ね、ついさっき終了した授業でハリー・ポッターを虐めた、愉快さはすっかり亡き者にされてしまったらしい。口は災いの元というが、自分自身がまさにそれだと、思った。

彼を、清々しいくらいに失望させてしまったりもしたし、それによって引き起こされた怒気の言葉攻めに合うことも少なくなかった。彼がどの程度、私に期待を抱いていたのかは、彼の心中に残されたままだ。複雑に絡み合った絹糸を指先で、摘みあげるのが困難なように、それと同等の繊細さを求められた薬学に真摯であるから、私のくだらない問いに、気を散らされた彼が、唇を捲れ上がらせるのは当たり前だった。

「……いつまでそうしているつもりだ」

日常と寸分違わない、彼の、声がだいぶ遅れて戻ってきた時は、内心驚きにみちみちていたのに、意固地な性格を持ち合わせていたため、澄ました言葉が唇を撫でた。子供染みた部分は、学生から卒業してもまだ残骸を持て余していて、無自覚のうちに出してしまう行動は、彼を困らせたと思う。

「……書類に目を通しているだけです」

享受しているうちは、黙認されただろうことを、今している自覚はあったのに、目線を落としたままで、打開策を講ずるそぶりのない脳内では、益々呆れられることは必至だった。踊ることが愉しくて仕方ない、というわけでもなさそうな文字は、狂ったように動作を続けていたし、視線を上げられない私をどうなじろうか、思案しているのではないか、と暗鬼が顔を出した。全てにおいて要領が悪いと、教師の補佐にして初めて気付く。出来の悪さに、閉鎖的な空間では、益々気持ちは落ちて行くばかり。彼は、そういう、雰囲気にのまれる程、白くはなく、自我を保てるだけの理論を盾にしていた。冷ややかな石造りの床は物音一つでもよく響いた。

「何度も同じ事を云うつもりはない」

長い足先が奏でる、小気味良い音が沈黙に花を与え、確かに一歩ずつ、こちらにやってくるのを感じると同時に、脅かされるであろう生命が頑なな私の、心を動かした。急ぎ足で取り繕った顔で、すこし離れた場所から、向かってくる彼を見た。彼は、闇によく似合う、顔を掲げて近づこうとして、私の視線に制された。殴り損ねた、と云わんばかりの表情が印象的で、勝敗を競い合った訳でもないのに、勝ったような気分になったのを覚えている。

「次の授業の準備、ですよね」
「………分かっているならいい」

そのお陰で持つことの出来た余裕を胸に、彼に微笑みかけた。一文字も頭に入らなかった書類を脇に、魔法式懐中時計が言葉の背中を押した。彼は、化かされた、とでも云うかのように私を見ながら、止めた歩みを進めようとは、思わないようだった。子どもらしさが、お互い(主にわたしから)流れ出て、全く持って、大人らしくない事をしてしまった、と後悔が胸を過る。翻るローブの重たさを見ながら、きっと彼も同じように思ったのだと、推測した。汲み取れたようで、掴みの悪い心は、彼に手向けた、あの、一輪の花と同じように重かった。

2015.11.28 | x