留守番電話に入れられた、ハリーの言葉は、私の心を、動かすには十分だった。
この一週間何かにしても、気力の湧かない抜け殻と化した、身の腐敗を待つだけの存在として、惰性で息を吐いていた人間には、ハリーの言葉は刺激的に聴こえた。ハリーは、彼が命を差し出しても守ろうと決めた、全てなのだから、重ねて、私の原動力になりうるに足る存在でもあったということも大きい。

『この間は止められて、云えませんでした。……けれど、やっぱり先生には知っていてほしい。』
『だから、お時間を頂けませんか?……連絡先は———』

ぽつりぽつりと呟かれる数字の羅列に、一切の拒絶を示していた記憶回路はきちんと機能を果たそうと廻る。栄養の行き届いていない、そこにたった数桁の数字でさえ、焼き付けるのに一苦労するように、ぐるぐると眩暈もした。もう何日も食べ物らしいものを口にしていなかったと、今気が付いたように、冷蔵庫が眼に入る。当然のこと、食料品を買いに行くなんていうのも、無かったものだからろくなものが冷やされているとは思えず、ただぼんやりと眺めるだけで、この足で外に行こうという気分には持って行けなかった。

ハリーの云う、番号を押したのは、埃のダンスが見えなくなってから、薄暗さが部屋を包み込んでホグワーツの、懐かしい地下室を彷彿とさせる空間になってからだった。今朝方乱暴にされても、職務を全うする電話機に感心させられながら、めっきり回転数の減った脳内で、廻る数字をひとつずつ、間違えないように入れる。遠くなってしまった、魔法界の全てが繋がる瞬間だと、微かに震える心臓の意思に反して、電話は呆気なく繋がった。

『———はい』

ハリーと約束を交わしたのはその日から、一週間あとだった。
私はいつでも、とは云いながらも、ホグワーツへ行くのが怖かったものだから、嘘をつけたして、妥協点が一週間という時間だった。この情けない姿を、肖像画であっても、彼には見せたくなかったという気持ちと、土気を帯びた肌でも血の通った、彼の顔を見るのが怖かった、というのもあった。ハリーの云う、「知って欲しい」ことが、口頭では云えないというもので、それがホグワーツに限定されたものならば、尚更、知らなくてはいけないことというものが数限られてくるものだと、示していた。口を聞いていた頃はあんなにも、畏怖の概念などほとんど捨てられていたのに、どうして今更、思うのだろう。怖い、などと。

「口を慎め、。お前に求めるものはそう、多くはない」

身にも震えがくるほど、不穏な空気が漂い始めた頃、彼は淡々と、云う。挨拶のような、身軽さを持たせた言葉は、彼にしても私にしても、決して軽いものではない筈なのに。シリウスが死んでしまい、彼にとっての憎悪の向け方にも、支障をきたしたようで、彼は一段と残酷な言葉は吐いた。そして、暫くすると、泥水を飲み込んだように、歪められる顔が、肩を超えて壁へとぶつかっていく。彼は、私にではなくて、いつも、自責するかのように言葉を吐き、孤独に沈むのが妥当な処遇だと感じているようだった。そんな、と反論しようものならば、彼はもっと早くに、私を遠くへやったのかもしれないし、ダンブルドア先生の言葉で思いとどまったかもしれないけれど、もう真相は分からない。私は告げない方を選んだのだから、もう一辺の私なんて、思考を巡らせるだけ、無駄な行為だった。

「先生、お久しぶりです」

ハリーとの約束は果たされて、それまでに私は、元の生活を取り戻す必要があった。埃が舞っていた部屋に手を入れて、時間の経つがままにしていた身体を綺麗にした。一週間という時間は、とてつもなく長い間に思えて、何度か沈んで行きそうになったのを、ハリーの云う「知って欲しいこと」の真相が、私を留めた。二週間振りに顔を合わせた、ハリーは、少し大人びたようで、言葉尻に笑う彼は、思慮深さが垣間見えた。

「そんな、久々という言葉が似合うほど、時間は経っていないと思うけれど…久しぶり、ハリー」
「はははッ…そういう処は全く変わっていませんね」
「この歳になるとね、変化は身にしんどいのよ」

軽口を叩きながらも、内心は早鐘のように心臓は脈を打ち、今にも倒れてしまいそうなほどだったと、口が裂けても云えない。彼の葬儀から、という言葉は示し合わせたように、お互い硬く口を閉ざして、喉を震わすだけに止まる。猶予を与えられた私を歓迎してくれた青少年は、まるで彼の亡霊でも乗り移ったように、似たような仕草を眉間に表したかと思うと、それは一瞬の出来事だった。

「ホグワーツは本当に久しぶりだわ…」
「でしょう。いきましょう、先生」

ハリーは見守らなくなった長い間に、随分と大人の気を帯びて、彼の云う「小生意気なスター気取り」の少年の面影はない。最も、はじめから驕りたかぶった部分は見受けられなかったけれども、濁り水から通した少年は、多くの歪曲をなされたのだろうと思う。

校内は以前と寸分違わず、ほとんどがダンブルドア校長の頃と変化は見られなかった。思うに、現校長のマクゴナガル先生の計らいであることは、容易に想像がつき、たくましくなった背中を追いかけていると、ハリーの方から「ホグワーツはやっぱりこの形がいいと、マクゴナガル先生と話したんです」と云った。

「…そう」

中庭、渡り廊下、大広間、図書室、そこから連想されるものは全て一点へ向かっていく私を、嘲笑うかのように、伸びている影がまるで彼を似せて、闊歩しているように思える。大広間の垂れ幕が瞬時にして深紅に変化してしまった時の、心底憎らしげな横顔を見ていたことや、ハロウィンを迎えるたび、悪罵の強みが胸を抉られたことなんて、彼は知らないのだ。彼は、彼に懸想を抱いている私を、感知する余裕は皆目なかったのだと思う。ほとんどの時間、ホグワーツに身を置いていたものだから、彼の気配が強く残っているようで、私には刺激が強かった。

『もし、仮に、過去を懐かしむことがありうるならば…』

眩暈が引き出されるほどに諳んじた筈の、彼の台詞は、少し思い出さない間にぽっかりと、空きを作ってしまい不明瞭になってしまっていた。彼のように、忙殺の中であっても、他者の機微や窺知にも重きをおけるわけではなくて、散々罵られた癖に、虫食いを作ってしまっては『お前に限ってそれすら難しいだろうが』と鼻で笑うのを思い出せば、やはり彼の言葉は的確なのだと知らされる。

「先生には少し、覚悟が必要でしょうけれど、此処です」

足跡は、何度も行き来し合った場へ導かれて、何処へ行こうとしているのか、ハリーの云わんとする処は、予想を立てなくとも察しがついた。追いかけていたあの頃の私は、今は彼の恋敵の子供を追う。もし、隣に彼が歩幅を合わせていたのならば、こういうだろう。『なんと、嘆かわしいことか』親切心をものとはせずに、相も変わらずの憤然としている中で冷静な判断で相手を詰るのがセブルス・スネイプという男だった。

ハリーの指し示す辺りは、身が否定したくなるほどに懐かしく、思わず顔を背けて見て見ぬふりをしたくなる場だった。好んで地下に教鞭を置くような男は、彼くらいだったようで扉の前までに、様々な障害が立ちはだかっていた。蜘蛛の巣を頭に巻きつけながら、あげたい悲鳴を飲み込むと、また彼が呟く。『なんとも、鈍臭い女だ』彼は、長身をいかしながら、私を虚仮にすることを愉しみにしていて、口角は嬉々と上がる。私はそれが、とても心地よかった。

「…先生?」

丸眼鏡の奥で、複数の偉人を背負った意思が力強く、私を見つめる。
今やもう過去になってしまった出来事に、すがりつく私を咎められているように思えて、視線を零す。

「ごめん、ちょっと思い出していただけだから…」
「…こっちです」

好奇心の塊であった青年はそれぞれの事情の下で、何気なくを装っていることを知り、譲歩する術を身につけたのか詮索はしてこなかった。こっち、と指しながら、杖で重々とした枷のような鎖が、冷ややかな地下に落とされると、心臓が捕らえられ、握り潰しにかかるような痛みがひときわ目立つ。彼の記憶に頭を突っ込むのは憚られる、と一歩後ろで待機していた私にしてみたらそれは、とても勇気のいる行動だった。

初めて足を踏み入れる場だった。彼の私物や、その他の実験用具、服、生活感のどない閑散とした空間に、微かな息遣いが呼応して、回帰する記憶が苦しみを訴える。彼は良しとしたのだろうか。些か強張る身体を、一回り若い青年は綽々な足取りで進んでいった。

「大丈夫です、先生。あの人が云っていたから」

行き先迷子になる私の足元を、振り返りながら見たハリーは、安堵を落とした。
部屋の持ち主との差異を見せられて、息が詰まる。

「ルーモス」

丁寧な発音が静かに、闇の中へと溶けて、すぐにそれは淡い光となる。彼の私室の奥の、寝室は閑散としていた。生前、戦場へ赴く前にこうなることが分かっていた、と云わんばかりの状態に、詰まる喉は忙しなく渇きを主張する。高い天井に張り付いた棚いっぱいに差し込まれた本、主人を待ち望むようにシワを伸ばしたシーツ、壁にかけられた替えのローブ、机の上に置かれたインク瓶。娯楽といった類のものは一切ないが、彼にしてみれば極上の空間だったのだろう。そこに恋敵生き写しの青年が立っているというのは、酷く不釣り合いで、下手くそなコラージュのようだった。

「ここです、先生」
「どれ…?」

ハリーは、机の上のささやかな本立てを指差して、私に手に取るよう、催促した。他のどれもが埃をかぶり、色褪せて見えたが、指先のそれだけは他のどれもと違い、まだ新しいようだ。薄っすらとしか積もらせていない埃が示している、それと同時に戻らない主人を彷彿とさせて、心臓が掴まれて痛む。

「僕、外に居ますから」
「…え?ちょっと、ハリー…?」

私の制止を聴くことなく、さっと扉の向こうへ身を滑らせていってしまったハリーに、呆気を取られる。人が足を踏み入れたことで、舞う埃は、地下室の薄暗い部屋では気づきにくく、光も消えてしまった所為で余計だった。「くしゅん」鼻腔をそれらが柔く撫でる。薄暗い空間に戻った部屋に一層、居心地の悪さを感じて、身を捩るけれども、それを叱咤する声はもうしない。

壁にかけられたローブは見るからに重たく、彼のようだと思う。ベッドサイドに置かれた水差し、整頓された枕やクッションは、定位置から寸分のずれもなさそうだ。天井を突き破りそうな本棚に並んだ背表紙、一生かかっても理解出来なさそうな難解語句、複雑さが、彼が持ち合わせた愛憎に似ている。そのどれもが彼を息づかせていたもので、瞬きすれば、憎らしげな眉間がこちらに向けられるような、そんな錯覚が降ってきて眩暈がしそうだった。青年が間を取り持ってくれたおかげで、余分なことを考えずに済んだというのに、居なくなってしまっては、この部屋は身体にも心にも悪い。

「あなたは、私に何を見せたいの…?」

酷く罵り、叱責され、目の前から存在を消すよう云った癖に。
彼の宝物箱からはねられた私を、今更どうしようと云うの。そんな気持ちが浮いては落ち、繰り返されて、ハリーの指差したものに手をかける勇気はでない…だけれど。

「リリーの瞳の中で、あなたは…幸せだったのでしょう…?」

苦しめないでほしい、このままずっと枷として胸を締め付けていてほしい。そのどちらもが心中を支配していて、足を引っ張りあっている。彼の心中を深く探ろうとして、伸ばした手のひらが何か掴めた試しなど、一度としてない。ましてや、彼がそれを差し出してくれるなんて、否定する自分にそぐわず、それに触れたら知ることが出来る、という淡い期待を抱かせる。逡巡する指先が、薄い膜を撫でると、そこは闇に染まったように見えにくくなり、背表紙は意志を強くさせた。

『Dear…』

黒革の表紙が手によく馴染む、他の書物と比べて一回り小さく、手にするまで気付かなかった。
存在感のある黒色を持ち上げると、本の重要性を際立たせたように、パラフィン紙の上に見慣れた神経質な細文字が装飾を手助けをしていた。頁を捲ると、装丁されたような規律正しい文字が浮かび上がり、脳が認識すると同時に息継ぎを忘れて、溺れてしまいそう。紛れもない、セブルス・スネイプの筆跡だったからだ。

途端に目頭が熱くなり、痙攣をおこすのが分かる、けれども、自意識では止められない。
彼に似つかわしくない、所々言葉を濁すようにインクで潰されて、平常心から些か離れていたようにも見えた。熱を持つ両眼が文字を追いかけるのを拒否しようとするが、闇に溶けず輝きを増した文面は、彼の落ち着いた声色で、緩やかに脳内を麻痺させた。

"
突然のことに驚いているだろう。
これを開いているとなれば、我輩の任務は完遂したということだろうな。
それについて、然許り納得いく結果だったと云えよう。これを、彼女の子に託すのはやや憚られたが、そうも云っていられない、それは君も理解したことと思う。さぞ恨んだのだろう…いや、我輩のような過ちを犯すような人間ではなかった、すまない。
何度か機会はあった、闇の帝王を欺くほど、閉心術に長けた自身の力量を持ってしてならば、容易な行為だ。

無情にと、ある一点の目的の為に誓った心は、幾度もやってきた機会をみすみす逃し、その度に好機ではないと見送った。その度、内側に押し込めた蛇が、囁いていた。

『——消してしまえば——』

それについて、なんと答えようか……この後に及んで、それを覆う答を探している己を、君は笑うだろうな。…君の笑い顔は嫌いではなかった。

自己を飾ろうとせず下心のない、純粋な表情。たまに垣間見せる年齢にそぐわぬ、少女特有の輝き。暗く汚れた己とは違い、不変の美だ。それが、時折こちらに向いていることは、とうの昔に気がついていた。

不特定多数に魅せるそれと、こちらに向けるものが別であることに…気がついていながら、機会を落としながら、傍に居させたのは何故だろうか。
絡まる闇腕の誓いを、永遠の誓いを反故にすることはなく。
甘い言葉のひとつも寄越さない男に、向ける瞳ではないと怒りさえ覚えた…それだと云うのに。

—我輩は…———

来るその瞬間まで、百合の誓いは胸から離れはしない…これは往生際の悪い男の足掻きだと、
そう思ってくれて構わない。心を現世に残していくつもりはない…なかった、そのつもりだった。
非道い言葉を何度、君に、浴びせ、罵ったことか。喉元の震えを目の前で感じながら、何度、そこに噛みつきたくなったことか。

『——————』

この部屋で、白と混じる純潔を想像し、この手で壊したいと何度、思っただろうか。
手の中で縋り、我輩に依存する君を想っては、罪悪を感じながらも歓喜していた己もいたのは事実だ。告げてはいけない、贖罪を、赦しを、全てを分かち合いたいなどとも。
ここまで書きながらも、君のことだ……我輩の云わんとしていること、分からないだろうな。
鈍感とはある種の才能だ。呆れかえることが殆どだったが、それに幾度となく助けられていたのも事実だ。

だから————その輝きを損なう結果にはしたくはない。
無関心であろうとしたが、できなかった。だから、君の行動は手に取るように分かる。
…我輩が居なくなった後のことも。

自惚れだと、笑ってくれる方がいい。
我輩の知らぬ相手と、平穏な日常の中で、緩やかな心持で居てくれたら…だが、そうでないことは明白だろう。
先延ばしにしていた結論を突きつけたあの日、伏せた睫毛で隠された瞳が語る想いは、どの言葉よりも重たく、悲痛に満ちていた。隠伏させようとして、結んだ唇の赤み、指先に伝う悲しみの震え。せせら笑う唇と冷えた双眸で、掻き抱きたい衝動に駆られていた…と告げたら、君は、どんな顔を見せてくれただろう?

———今は…

それを左右させるのが、この両手だと想うと、歓喜している己が居る。
君は憤慨するだろうが、もとよりそういう男だ…諦めてほしい。
痕跡を遺すつもりは毛頭なかったのだ…その意志を揺らぎさせたのだから、いい加減分かるだろう。
最期が迫っている今でさえ、皮肉しか浮かばないこの歪んだ我輩を、君は…これを手にした後も、想っていてくれているだろうか…気の利いた台詞も浮かばないが、、君の幸せを祈っている。————S.S
"

頁はゆっくりと役目を終え、渇望した声は聴こえなくなり、きらきらと光を放った文字は、螺旋状に指先から内側へと侵入を赦した。彼女を想いながら、逝ったと聞いた時『ああ、』と納得出来て、彼らしいと思った気持ちは、今ではもう全く変わってしまった。鈍感だと云われるほどに私は、彼の一々が、いつの間にか自分に向けられていたなんて、思いもしなかった。

「…セブルス…」

震える下唇が、上手く彼の名前を呼べなかったのに、叱責する言葉ばかりが浮かんだ。彼は何故遺していったのだろう。何故今更、彼女への永遠を確実にさせたのだろう。彼がそうであるように、私もまた彼の皮肉さが、遠回しさが、本音を隠していることは分かっていた。分かっていたのに、離れ、死迫る時でさえ、足をもたつかせたのだ、自分が傷つくのが怖くて。苛立ちのまま、逡巡すると一層鈍くなり、苦しみはやわらぐどころではない。

「…私にあなたが居ない日々を過ごせって云うの…」

小ぶりな本を手放すのは、思ったよりずっと簡単だった。
利きの悪くなったスプリングで、軽く跳ねたそれを見届けることなく、床についた膝が全身の熱を奪うのも早い。苦しい、痛い、いたい、いたい…『セブルス…!』彼が咄嗟に手にした行動を実行されずにいたこと、後悔する。この身を形成する全ての彼を、消してくれていたら、この痛みに気付かないで済んだのに。

彼は狡い人だ。最期までずっと、後ろ暗いまま、見返りを求めないまま、逝ってしまうなんて。去る時になって欲求を零されても、それを与えることすら赦されず、何も知らないまま触れた彼の頬は冷えた抜け殻だ。投げ出した本のように、部屋を全て壊してしまいたい。壁にかかったローブも、ベッドの下に隠された革靴も、彼を形成した本たちも、全て。

「なんでっ…!…私には何も…っ…!与えさせてはくれなかったのっ……!」

重く振り上げた拳が、折り曲げた膝にぶつかり、身体を揺す振ろうとしたが、胸の奥に潜んだ棘がひと際強く、主張するばかりで、到底及ばない。知っていた癖に、息を止めたくなるほどに、あなたを想っていたことを。それなのに。

眩暈が全身を覆って、自身の力で受け止めきれなくなると、前傾した身体が机に寄りかかる。闇はどれだけ渦を巻いても、景色を色付けせずに、深く濃くなるばかりだ。このまま落ちてしまえば楽になれる、一度浮上させた回路は堕落する容易さを訴え、遠くなる意識は確実に、闇に支配される。——ああ、もう楽になりたい——そう思った。

』何時間、何十分そうしていたのだろうか。突如芯を暖めた存在が、せきを切ったかのように溢れる。螺旋状に入り込んだ柔和な光は、私の名前を呼んだ。目蓋をあげても意味がないと分かって、沈んでいく全てのものを受け入れようとする。『』光はもう一度、ゆらめきをみせ、なんの意志も持たないのに問いかけてくる。あの人のような、頑迷さによく似ていた。

『——————』
せんせい?」

浮上する意識が、重たい目蓋をこじ上げて、視点の定まらない視界から、不安げなエメラルドグリーンの輝きが見えた。それは闇色に灯し、混ぜ込もうとしても染まることを知らない、強さだった。 ハリーの腕が背中に回り、支えになると、不安定だった視界が安定するのが分かる。ガラス越しの輝く瞳は、強く目蓋を下ろした濃黒に似ても似つかないのに、面影が見えて、激しく波打った感情は遠ざかり、弾んだ息も静まるのを感じた。

「倒れているから驚きました…先生、大丈夫ですか?」
「……ええ……」
投げられた本、倒れている身体、ふたりともそうではいことは詳らかなのに、口にはしなかった。地下室のこの部屋では、どれくらいの時間を使ったのか、知る術はない。ハリーは少し困ったように、迷いを隠すことなく一瞬眉を寄せ、それから口を開いた。

「もし、何かあったらいけないと思って……いえ、あの人が云ってた」
「………あの人が、」
「…ええ、想いを託した後、途切れ途切れでしたけれど…」
「………」
「一度手助けをするだけでいい、と。そうすれば先生は自らの道を歩くから…」

それがここだと、彼は云った、のだと。
買いかぶりもいいところ、そう云って、頬を殴りたかった。青白い頬に赤みを差して、ほらみたことか、私にもできる…と。けれどもその彼は、セブルス・スネイプという男の魂は昇って行ってしまった。

「…わたしは…」
ハリーの暖かさが、冷え切った背中の感覚を戻して、徐々にその範囲は大きくなる。顔色を手助けした化粧は散々になった後で、今更気にすることはないのだろうけれども、溢れてくる感情を押しとどめる理由にした。天井に広がる孤独を、彼は、どれほどの長い年月見続けて、白日のもとに晒されることを拒み続けたのだろう。今にも落ちそうなシャンデリアが、扉から入る僅かな光に呼応して鈍く輝く。

「…僕も同じです」
「ハリー?」

母のこと、と一瞬躊躇しながらも、それは続いた。
「あの人は、心から、母だけを想っていた。幸福な感情がたくさんありました…辛い感情も。けれど、いつ頃からかそれは母ではなく、先生——先生ばかりを呼んでいた。歯車を回す担い手は、先生だった…」

セブルス・スネイプという視点から見た、は弱々しい感情の下に、慥かな意志がみえたと呟いた。鈍くて、気付き難い純粋な心で、いつも呼んでいた——と。「だから僕も、あの人と同じ気持ちです」背中に回された腕は、青年の細腕なのに、とても力強い。それが歯車の人に似てみえる。姿形はない、けれども、双眼にはフィルムが張り付いたように、蝙蝠さながらの男が見えた。しかし、錯覚だと理解する。いつだって全てを持って行ってしまう、舵を支えているのは過去も現在も、ひとりしか浮かばない。

「…そんな重みを感じた試しはなかったわ…だって、いつだって…あの人は重たすぎる」

幸せになれ、と勝手な幸福を押し付けて、理想論を突きつけて、決めつけて。それなのに、滞りは湧かず、膝に落とした指先が震える。歩め、と云われたら、そうせざるを得ない。彼のセブルス・スネイプの云う言葉は呪いではない、願いだと知ってしまったから。ふ、と笑う音が鈍い輝きの結晶と共に降る。

『——その身に染み込んだ光は、永遠を——』

誓おう、と胸に灯ったそれは、低く不機嫌を演出させながらも、確実な感情を含ませて告げた。

2015.11.28_Revise:2019.01.27 | x