ライラック色の狂気

は辟易とした心持を胸に、無駄に長く作られたようだと、悪態をつきたくなるような廊下を走り去る。いつもならば、この廊下に文句を云いながら、遅刻しかけている授業への焦りをぶつけるところが、この頃は、そんな長さに感謝を述べている。まさか、そんな日が来るとは、微塵にも思わなかった。駆け抜けていくの、その数十メートル後ろから、彼女と同じ道を辿る男が、ひとり。見た目も派手であるのに、その上言葉を大きく叫ぶものだから、すっかりふたりは好機の的だった。

「Ms.、私を置いて何処へ行く気です」

ローブの内側に隠した、苛立ちと杖が指先に触れる。閑散としていたのなら、罰則も厭わず、攻撃をしかけたに違いないが、左右には立ち止まる生徒達。一度として立ち止まれば、追いつかれてしまう、背後に着々と迫る、脅威。諦めるしかなかった。衣替えしたばかりの着衣は、まだ身に馴染まず、重量をその身に感じさせ、普段よりも足取りは重たい。逃げたいのに、重い、とんでもない時にふたつが合わさってしまった、とは力をつま先に込めた。

普段の品行方正が、教師の呼び止めに応じず、ましてや脱兎の如く逃げ出すなんて、誰も思い至らなかっただろうに、皮肉なことに今年やってきた男によって砕かれてしまう。闇の魔法に対する防衛術の新任だと云い、無駄なお喋りを足す男は早速、女性の心を掴んだようだった。同性、一部の女性からは舌を閻魔様に差し出すかのような、そぶりを見せ、色めき立つ声と混じり合い、大広間は異様な空間と化した。言葉多く語る男は信用しない、と心の家訓を飾るは、その男ギルデロイ・ロックハートに舌を出した。

「待って下さい、

呼びかけに応じないに、馴れ馴れしくも名前を呼び出す男へ、とうとう杖を向けてしまいそうな勢いで、身体を捻る。もうなんとでも 、と投げやりになった末の行動を、ロックハートは気をもたせるためと勘違いをする。風景が回転する中で、思いの外の出会いに、ライラック色のローブを靡かせている、ナルシストのことは直ぐにどうでもよくなった。杖に触れていた、指先を遠ざけ、身体は半回転で止まり、別の道へと広がる廊下へ駈け出す。ロックハートは、の機転の良さにすっかり気をとられて、足を縺れさせた。

「教授…!」

衣替えした服の重さや、犯罪一歩手前の男への心労が、床に落とされたように、軽やかに駆け出していく。そこには床と親睦を深めている、ロックハートがへばりついていて、は「ザマアミロ」と思った。それもつかの間のことで、ライラック色というふざけたローブをかけている男とは、対照的な黒衣を纏った男へと、向かう。誰も近寄りたがらないのに、廊下を闊歩している男へと、嬉々として近く人間は限られていて、スネイプは直ぐに察しがついた。闇を背負った男を、「教授」と呼ぶ、数少ない生徒を思い浮かべ、無駄な動きを避けつつ、首を少し捻った。

「我輩の、足を止めさせる程の事であろうな。Ms.
「ええ、教授」

普通の生徒ならば、ここで、何も、と云い脱兎のごとく逃げ出す事は、必須だ。しかし、教授と呼ぶ男、セブルス・スネイプに対して、すっかり手練となったは放たれる棘に、刺さるようなヘマはしなかった。

「もちろんですよ。後ろ、を見れば分かります」

は後方で、潰れているであろう男へ、視線を向けて、スネイプを誘導させる。
スネイプもそれに沿って行けば、確かに、厄介そうな物体が起き上がるところだった。なるたけ、関わりを持つ事を避けていたスネイプとしては、お洒落と称しているであろう髪型を見ただけでも、吐き気を催す面持ちである。視線を近場の生徒へやり、訴えを起こすが、トラブルを運んできた少女は、復活した男を見るなりスネイプの気持ちを伝染させたようだった。

「ね。どうにかしてくださいませんか」
「我輩に、あれをどうにかしろと?」
「ええ」

肯定をして、スネイプの機嫌を伺えば、もともと持ち合わせた顔色の悪さに拍車をかけて、落とされた視線からはそれ以外の、何かを汲み取る事は出来ない。ただ、ふたりに共通した点といえば、ライラック色を羽織った男のことが、心底嫌いである処だった。スネイプは、おぼつかない足取りで、着々と此方へ向かってくる男を見ながら、に苦々しく云う。彼女の普段の行いを、思い返しているようで、心なしか、諦めているようにも見える。

「日本でいうところの、身から出た錆、というやつですな」
「残念な事に、今回は無関係です」

はしれっと、云い放つ。そして、平然と「日本の言葉を知っているなんて、流石教授ですね」などと、持ち上げて対価を作るつもりらしい、とスネイプは、即座に思惑を汲み取り、少女を睨みつけた。それでも、少女には効果はないと知っているからか、早々に止める。過去の出来事から察するに、嘘を吐いて、場を切り抜けることはなかったように記憶していたからだ。にとってああいったタイプは、スネイプ同様、嫌悪の対象であるから、自ら火に油を注ぐような真似はしないだろう。スネイプは、半ば諦めて、の頭の向こう側で、歩み続ける男を見た。目的のためならば、校内一関わりたくない男として君臨し続ける、スネイプにも立ち向かう辺りは、評価してやろうと口角を上げる。大概の場合、スネイプが、何事もなしにそれをすることはなく、いつも裏が付きまとう為、見てしまった者は一目散に逃げ出すのだが、愚かな男は気づきもせずに、距離を縮めた。

「ああ、スネイプ先生!丁度良かった、Ms.を足止めして下さっていたのですね…!」

前後のどちらかに、私の為に、とつけたロックハートの、頭が痛くなるような莫迦加減を見せつけられて、スネイプは早速、この場から立ち去りたくてたまらなくなった。ちゃっかりと黒衣の裏側へ逃げ出したは、スネイプの背中を押し、追い出しへと駆り立てた。

「さあ、Ms.…恥ずかしがらずに私の腕の中へおいで」
「謹んでお断り申し上げます。教授と罰則が待っていますので。ねっ、教授」
「…………左様」

背中越しから、厭厭とした雰囲気を醸し出して、巻き込まれることはごめんだ、と云う心持ちが、多少の沈黙に含まれているようだ。莫迦を罪とするならば、まさにこの男がそうであり、ロックハートは組み込まれた意図も全くもって、感じ取れずに「そんな!」と叫ぶ。ああ、これだから、関わりを持つのは、と頭を抱えそうになるスネイプに気付かず、ロックハートは続けた。

、嘘をつかなくても私は知っていますよ。恥ずかしがらなくても、貴女の気持ちは」

一心同体になったふたりは、身体だけではなく、確かにこの瞬間、心も重なりあったことだろう。ロックハートのため息混じりの言葉に、は鳥肌を立たせて、壁にさせられている男も、湧いた台詞を恥ずかしげもなく、口にする男に、眩暈がする思いだった。何を、どうしたら、この愚かの塊である男にこうも、熱烈な言葉を吐かれるようになったのか、スネイプは後ろ手で、を非難するように肉を抓るが、当の本人は先ほどの言葉に気を取られて、痛みも感じる余裕もないようだった。

「莫迦はどこまでいっても莫迦…死んでくれないかな……」

スネイプの背中に惜しげも無く、呟かれた物騒な物言いは、頭のネジが外れた男には響いておらず、呑気なことに「わかりました」と何に対してか、分からない返答をする。は頭の飛んだ男の言葉になど、耳を貸したくもないのか、スネイプのローブで耳を塞ごうと引っ張った。それが、ロックハートの何かを突き動かしたのか、思考回路が全くもって常人のものではない為、常識人であるふたりには分からないが、ライラック色が目の前で回転する。

、貴女がそこまで云うなら仕方ありません。スネイプ先生と決闘をして、勝った方が貴女を譲り受けるということで、どうでしょうか」

「はあ?」
「……、止めんか」

品行方正と銘打っていた少女の口から、本音を落とせる男は、この男くらいだろうし、そういう意味では中々のやり手ではある、とスネイプは思ったが、それを考慮しても、常軌を逸しているのは眼に有り余った。スネイプは、立場上から、を咎めたが、本心では褒め称えたい気持ちで並々と溢れてしまいそうだった。ロックハートは云いたいことだけ云うと、「許可はとっておきますので、詳細は後ほど!」と好きに御託を並べたままに、返答は彼には必要ないらしく、さっさと去っていった。ご丁寧に、スネイプの背に向かって「愛しい」と爆弾を投下して。

「………」
「………」

台風のような男が去ると、ふたりはなんとも表現しがたい気持ちで、お腹を膨らませていた。下しそうな不味さに、ローブの中の隠れ蓑から顔を出したは、大口を開けて、げえ、と品の欠片もない態度をした。スネイプは、それを尻目で黙認しながら、勝手に取り決められた決闘という、自身には不必要な機会を、廃棄する手立てはないものか、と考える。何故あのような、粗忽者を雇う気になったのか、最も偉大であるとされる翁へ、もうろくしたのでは、と悪言が口から飛び出しそうになった。

「私のために、絶対勝ってくださいね」

一通り、吐き出したのか、はローブの間からスネイプを見上げ「そうしないと私が殺ってしまいそうで」と付け加えた。ここが校内や、彼女が生徒という立場でなく、その上、自身が教職についていなければ、大いに賛成しただろう。スネイプは、台風のように去っていった、忌々しい男を思い浮かべて、それをライラック色の狂気だと名付けた。