再生を迎える準備を

※七巻後の話

彼女はよく似ていた。過去に、自身が思う無二の存在であった、人に。振り向けば、翳りのない笑みがまっすぐに、自身に向かうそれが、酷く落ち着かない気分にさせるのに、心地よかった。触れられそうな、近さには、彼女が柔らかそうな唇で、名前を呼んでくれる。自身に向かって、優しさを向けるのは彼女くらいで、手を差し伸べてくれるのも、変化のなさを見せてくれるのも、彼女だった。

目覚めると、全身を走る苦痛に、奥歯を噛み締めて耐えれば、底知れぬ悲しみをも隠せるように、そうした。霞む視界のほとんどが、白で埋め尽くされていて、死後を想像した。そうなれるとも思えないが、天国、という言葉が頭をよぎる。あの瞬間、憎しみから、痛みから、捕まえようのない過去のそれぞれから、解放されると思えたのに、自身の意識はまだ捨てられることなく、残っていた。混沌を振り払うように、首を傾ければ、些細な動きでさえ激痛が身をよじらせようとする。ああ、なんてことだ。ここは天国でもなければ、死してすらいない。生きているのだ、と聡明な男はすぐに、混沌からであっても、上手に汲み取り、状況を把握した。認識された全てのことが、一気に鮮明さを取り戻して、男に現実を差し出してくる。腕に感じる、針の食い込みや、安っぽいスプリングが背中を刺激する感覚、些かきつく締め過ぎているようにも思える、包帯の食い込みが、男を生へと繋いでいた。

「……生きているのか……」

誰に向かってでもなく、ただの呟きは、長いこと声帯機能を使うことをしなかったからか、掠れ、もとの威厳に満ちた迫力は微塵も感じられない。癖である舌打ちも、喉元が虚しく上下するだけで、呂律の回らないままでは、したつもり、でしか表現できなかった。なんて、惨めな結果であろう。引導を渡してもらうつもりで、今の今までの全てを、引き受けていたところがあった。それだというのに、自身は必死で息を吸おうとしているし、栄養も不可抗力ではあるが、身は貪欲に欲し、血液へと誘い込む。

(何故)

この世を見守るとされる、絶対的な存在を信仰するほど、男は純粋でもない。絶望を見つめて生きてきた男は、この時ばかりは、思わずにはいられなかった。神は、何故、自身を生かし彼女を死なせたのか、と。こうして、情けないほどに生を掴み、放そうとしない身体は、何のために残されたのか。解放された、と思われた全てのことが、心に戻る気配がした。

スネイプが、そこから解放されるまでに、目覚めてから更に一月かかった。その間に、目覚めたと報告を受けたようで、様々な人間が立ち替りに顔を出した。半数以上が見慣れない顔のもので、不謹慎な顔をする男に対して、憐れみの眼が降り注ぐ度に、何故、という考えが一層強まった。あれ程、憎かった男のほとんどを持つ青年の顔を見ても、毒牙を抜かれたように、気持ちは落ち着いていた。ハリー・ポッターは「先生のおかげです」と、感謝を述べた。賛辞をもらうつもりで、生きていたわけでもなかったから、全てを差し出したというのに。スネイプは歯がゆい心持ちで、澄んだエメラルドの瞳を見つめた。

「退院おめでとうございます」

顔の覚える気のない、スネイプは見慣れない癒者がそう告げるのを、黙って聞いた。
一月なにもせずに、ベッドの上で、思考を働かせることも、騙しを行う手立てを企てるのも、必要なくなってしまった為か、呆然と、天井を見ていた。赤毛の女性は、スネイプを憎んではおらず、あの頃と変わらない、澄んだエメラルド色で見つめている。解放されてしまった、虚無感が、決して健全ではなかった以前の身体よりも、動かし辛い。全てに、苛立ちながら、スネイプは黙りを決め込んでそこから姿を消す。彼女は、見舞いにはおろか、近況を誰かの口から引き出されることもなかった。

何かを期待していたわけでもない、と言い訳がましく、打ち消せば、彼女は呆気なく消えてしまえる。過酷になる中で、騙し合いの渦中にいたスネイプの付近に、いつも当たり前にいた彼女は、時折、荒ぶる感情を抑えてくれる鎮静剤のような存在だった。誰かを寄せつけようとはしない男に、受け入れられるには、彼女は無二の人に似ていた。二重に行き来する、愛しき人への面影を追い、何度、彼女を苦しめたかもしれない。それが、やがて、だぶつくことなく、彼女という一己の存在になっていたという事実は、今更、覆しようのない深さまで落ちていたふたりには、嘯きでしかなかった。腕の中で掻き抱く、彼女は涙で濡れた頬から、微かに微笑みを浮かべて、「好きです、先生」と云ったそれが、彼女と交わした最後だった。


「では、教員としてまた働いてくれるのですね、セブルス」

校長の椅子に腰掛けるマクゴナガルに、スネイプは暗い瞳で、頷いた。生きている限りは、とスネイプはやや血色のよくなった唇で紡ぐ。とは云っても、その差は僅かで、マクゴナガルには気付けないものだった。スネイプは少なくとも、自室として使用していた校長室を見渡し、天井に近い壁側にかけられた、歴代校長の肖像画を見やる。ほとんどの校長が狸寝入りか、不在のなか、白ひげをたっぷり蓄えた翁は、男の不健康から些か立ち上がった顔色を見るや否や、微笑む。その意に、様々な感情が落とされていることを知る、スネイプは不愉快な心持ちを隠さずに、眉間を寄せて、意思表示をした。肖像画になってもなお、千里眼は健在らしかった。

校長の立場になっても変わらぬ、風貌のマクゴナガルに、以前との相違点を探ろうとするが、世が変化しただけで、そこそこの年を重ねてきた彼らには、移ろいというものはない。元の場に帰還したとして、以前とは違う、男の内情を知る生徒たちは、スネイプを好機の眼で見つめる。男の纏う鋭さや、陰湿さに違いはなく、好機が足されただけで、益々煩わしさが増えただけだった。

「Ms.が、貴方の身を案じていました」

部屋を出るスネイプの背に向かい、誰も口にすることのなかった彼女の名前が出され、僅かに動揺が、胸をかすめる。背を向けていたおかげで、分かり難い男の機微を一層深めて、マクゴナガルは「顔を見せてあげてください」と告げた。彼女はあの混乱の中から、落ちることなく、生きているのだ。スネイプは返答をすることなく、螺旋階段を下り、彼女のことを思った。ホグワーツに在校する時間はあと一年あったことから、ここで寮生活を送っていることは間違いない、あの忌々しかった深紅色のネクタイが出入りする場に、彼女はいるのだ。

捨てたも同然の扱いをして、彼女を振り払った自身に、生還したとして、弁解の余地などなく、足は懐かしき地下牢へと向かった。彼女は魔法薬を不得手としていたから、七年生となった今では、魔法薬学を受講することはない。そうすれば、一年足らずの時間、顔を見ずとも縁が切れてしまうのは、広大な校内では有りえることだった。

「おかえりなさい、スネイプ教授」
「………ああ」
「戻ってこられてなによりです」

贔屓眼を向けていた深緑色のネクタイを下げた、生徒の激励の間を通りながら、重たいローブを引きずる。何度、彼女をこの地下牢で、好きなようにしたか、記憶が及ばないほど、回数を重ねた。重量感のある扉を開くと、使われていなかったからか、埃が舞い、黒衣を白くしようと群がってきた。明らかに不衛生な地下牢を、教室として使用するものは、スネイプ以外には居なかったようだった。

「………」

懐かしき地下牢へと、身を滑り込ませる。静寂を、湿度がさらに重たくさせて、スネイプはただでさえ体力の戻っていない身体を、しんどそうに歩めた。薬品や、羊皮紙、机など全てがそのままで、スネイプを出迎えているようだった。けれど、そこには彼女の姿はない、当たり前なことが、物足りないと、男の背中を蹴飛ばしていた。全てが終わり、男を縛り付けるものがなくなった。使命という名のしがらみが、取り払われて、ただの一教師になっただけ。彼女の子供を守ること、二重に嘯く罪深さも、ないのだ。以前の絡み合ったしがらみと比べたら、教職員という壁など、無きに等しく、それ以上の関係性を持っていたふたりには、もはや何の障害でもない。

「…

スネイプは近場の机に、指先を滑らせて、思いに浸ろうとすると、当時にはなかった汚れが、なぞる毎に広がった。横暴さを顕著にすべく、彼女に知らしめるために、普段生徒に教鞭を振る机で、酷い思いをさせてしまった後悔が、今更ながらに胸を痛める。いつでも彼女は、スネイプの為に頬を濡らしていて、それが酷く情動を駆り立てられた。

(ーー先生ーー)

もうあの影に追われた二面性の男は、居ない。
彼女は安否を問うのに、姿を現そうとはしない。そのいじらしさに、少なからずも罪悪感が湧かないわけではなかったが、それをどうこうして、駈け出すほど、子供ではなかった。彼女もまた学生の身分でありながら、積まれた荷の重さを、理解を得ていたから、舞い戻ってきた男の元へ来ることはない。押しつぶされてしまいそうな、彼女の荷を、解く手伝いをしたから、分かっていた。彼女が来ないことなど。

(ーー身代わりでも、私はあなたが、好きーー)

彼女の優しさを、利用して、無下にもへし折って、スネイプは微笑を浮かべる。いくら近しい関係になったとしても、滅多なことでは見せない、男の笑いを見ると、彼女は何も云えなくなるのを、黙認していた。それでも彼女は、スネイプを見放しはせず、都合よく扱われていても、にこにこと笑顔を絶やさず、鈴のような可憐な声色で「先生」と呼んだ。

「…皮肉なものだな、」

スネイプがなぞったあとから露わにされる、ニスのかかった綺麗な机は、以前と変わらない。指先に張り付く埃のように、すくい取れば月日を戻せるように、彼女との間にできてしまった時間を、巻戻せたのなら、とやぶさかである心持ちを笑う。心臓の奥から、湧き上がる熱は、とっくの昔に、彼女ひとりに向かっていたというのに。どくりどくりと、脈を打つ自身の心臓は、生をまざまざと感じさせて、それを与えてくれるのは、いつも彼女の方だ。スネイプは、彼女を操作しているようでいて、なにも掴めていない。

「…

その場で身を蹲らせると、鼓動の速さは一層強まり、その度に酷く強打したような痛みが、胸から広まっていく。何度も、何度も、暗室で呟く名前に、力はなく、戯言だと云い聞かせて、スネイプはここぞとばかりに呼んだ。誰も入り用のない地下牢は、スネイプの独壇場であり、沈みいく闇へと、自身の胸を掻き抱きながら、悲痛を訴えた。何故、生かされたのか、今の男には平静さを欠いていた。

幻想の中での彼女は、思わず眼を逸らしてしまうほど、眩しくあり続けて、腕を伸ばそうとすると、そこには冷たい床が並んでいるだけ。「先生…」幻の中の彼女は、相も変わらぬ声で、スネイプを敬称で呼んだ。ぴくりとも動かせなくなった身体は、持ち上げることも億劫であり、病室が白から黒に変わったようなものだった。

「……先生…大丈夫ですか…?」

とうとう、幻聴まで脳を侵食しようと、彼女の声を借りてやってきたのだ。スネイプは本調子ではない舌を丸め、やや迫力のかける舌打ちを落とす。もう苦しめてくれるな、と牽制のつもりでしたのに、幻は彼女を引き連れて、もう一度呟かれた。

「一月足らずで退院してくるからですよ…先生だって、もう、若くないんですから」
「………Ms.…」
「はい。お手を貸しましょうか?」

蹲る身体を些か広げて、頭を傾けると、目と鼻の先で、彼女は腰をかがめてスネイプを見ていた。勘違いをしているのか、それとも道化を演じているのか、彼女は手を差し出して、小首を傾げ、見慣れた癖をしてみせる。一年足らずですっかり風格を感じさせられるのに、瞳の輝きは曇ることなく、純真でいて、そこには何の拒絶もない。幻想の中の彼女と、霞むことなく、はまり込んだ。

「…君は莫迦か、それともどうしようもない愚か者のどちらかだ」
「ふふ、先生には負けます」

彼女に伝えるには、男は酷く口下手で、愚かなほど、彼女に対して、自己評価を低く見積もっていた。彼女のふたまわりほど、歪めた物言いだけで生きていたためか、率直な言葉はスネイプにしてみたら、愚の骨頂である。いつものように、目線を同じくしようと、相手に合わせる彼女は、そんなスネイプの愚かさにも眼を瞑ってみせる。

「恨み言のひとつくらい投げられるかと思ったが、案外度胸がないのだな」

質をそのままにした、スネイプの声は、悲痛さをやや緩和させて、自嘲気味に口角を持ち上げる。彼女はそんなスネイプを、一時、驚いたようでアーモンド型の瞳を、更に大きくさせた。

「、あなたが生きているだけで、私は、幸せ者です」

彼女の心理状態が、どのあたりで、凛とした鈴音が、くぐもった声色に変わるのが果たして、どういう意味を持つのか。スネイプは読むことに関して、手練であるのに、彼女に対して姑息さを、用いようとは思わなかった。求めもせずに、ただ、与えるだけの愛情は、ただ自身が傷つくだけで相手は素知らぬ顔だ。それが愛情だと、重々承知の上であるのに、彼女には見返りを求めてしまう。苦しいほどに、理解をしていたにも関わらず、過ちをまた犯してしまったのだと、気付く。

強気でいた彼女の肩は、注視しなくとも、震えが見え、スネイプは幻影である彼女を想うときよりも、ずっと胸が傷んだ。けれども、それを優しさで覆うような、言葉は生憎口から出てこない。出そうとすれば、大抵は憎み口で、自身のひねくれぶりにも、スネイプは歪めた笑みを浮かべるしかなかった。「愚か者同士、似合いだと思わんかね」考えあぐねた結果にでた言葉も、素直とはかけ離れていたというのに、彼女は驚きを一層強める。散々混じり合いをしていた視線は、耐えかねたように逸らされ、スネイプも少なからず困惑した。触れてもいいものか、一時考える余地を自身に向けたが、伏せられた睫毛が上がったときに、見せられた涙色にスネイプは、愚かなる理性を飛ばして、彼女の細い肩を抱き寄せた。