鍋で煮詰めた無垢の結末

薬品庫へ入ると自分が嫌いな臭いに囲まれた。厭なものほど、鼻についてなかなか落ちない、思わず飛び出してそのまま寮へ戻りたい気分に陥りそうになる。けれど、今はそれすら赦される身ではないと、重々理解していたため、一度後ずさった身を狭いそこへ押し込めた。迂闊だった、図書室で借りて来た本が思いの外、性にあったものだから夜更かししてしまい、マグル学までは自力を振り絞って眼を開けていたけれど、それ以上のものがあることを精魂尽くしたせいですっかり抜け落ちていた。そして思った通り、魔法薬学では睡眠時間へ貢献してもらい、個人的にはとても清々しい気分で眼を覚ましたところ、顔を上げればこの世の終焉を恨むかのような顔をした、男が唇をめくら上がらせて立っていた。

「我輩ではMs.を満たすことは出来ないらしい。その豊富な知識ならば、薬草など、直ぐに分かるであろう」

嫌みを真っ向から受けた事はなくて、ハリーやロンが云っていた噂の畏怖を、身にたっぷりしみ込まされた私の春のような気持ちの良さは霧散してしまう。ただでさえ魔法薬学への関心は限りなくゼロに近く、薬草の独特な臭いには、吐き気を催すくらいに苦手だった。それでも将来、闇払いになりたいと志を高く、目指していたら早速の難関が、何の因果かこの教科への選択だから、たまったものではない。


それはハリーとて同じ思いで、魔法薬撲滅同盟なんて、密かに作ってみたものの、ハーマイオニーの一声で呆気なく廃止になってしまった。天井に高く作られた薬品棚は、首と背中をくっつけない限り全てを見ることはできなさそうで、どうしたらこうも詰めこめるのだか、と文句が口から出てしまう。此処は不幸なことに、あの鼻もちならない男が管理する場所だから、悪態ひとつ嗅ぎつけられて、グリフィンドールの減点を赦す口実を作ってしまう。危ない、危ない、と唇を固く締め、手近にあるいかにも怪しげな瓶を取り、ラベルを読もうとするけれど、これまた達筆な字で書かれた言葉は、解読不可能に近かった。これでは、本当に知識頼りだけで、薬草を持ちにいかなくてはいけない。とことの重大さに気づき、夜更かししたのが昨日ではなく今日だったのなら、魔法薬学の時間に寝ることはなかったのに、と嘆いた。

「カノコソウの根ってどれよ…」

かろうじて読める、根と書かれた棚には同じようなものが所狭しと並んでいて、貼り付けてあるラベルはここでも何の役にも立っていなかった。授業で出てきたのかさえも、思い出せないような材料の一々を頭に入れておくほど、魔法薬への関心はない。乾燥した根っこは、凝視していると気持ちが悪い。

「生姜と区別つかないじゃない…生姜持っていってもばれないんじゃないの…」

日頃隙のひとつもないように思えても、薬学教授とて人間なのだし、失敗くらいはするだろう。男が生姜を片手に鍋に放り、驚く様を想像して薬品庫だということをすっかり忘れて、笑い転げた。今が授業中で、その上罰則を受けている最中ということも忘れていると生暖かい、実に不愉快極まりない風が首筋をかすめた。それが何を意味するのか、伊達に長年薬学教授の人非人ぷりを体験している人間としては、察しがつく。またやってしまった、と口元の笑いが固まるのを皮切りに、地鳴りのような低音が耳道を駆け抜けた。

「随分愉しげでありますな。Ms.は罰という意味すら理解していないように窺えるが」
「あ、あははは…いえ、これは…」

首をぎこちなく傾けて、背中に刺さる視線の先を見るとそこに立つのは思った通りの人間だった。手にしている小瓶を見下ろしながら、陰湿な男は唇を捲れあげる。既視感とも云える表情に、重くなっていくであろう罰という名の下働きに、気が遠くなる思いを抱きながらいた所為で、引きずってた笑いが勝手に漏れる。

「余程余裕と見える。根と生姜の区別もつかぬ盲人とでも?」

どこから聞いていたのか、と眼を剥いて男を見上げれば、してやったりと云う勝ち誇った強さが闇の中で揺らいでいた。男の縄張り内では発言に気をつけよう、と云った傍からこれだ。ほぼ初めから監視されていたのでは、と思うくらいにねちっこい発音が耳にへばりついた。

「カノコソウの根はこれだ。根生姜はこれだ、全く別物だろう。この程度もわからんとは、嘆かわしい」

蛇のようなしなやかさで、男の腕がローブから飛び出してきて、憮然としている私の目の前を通った。甲まで黒で覆われた先の青白い指先が、薬品庫の中で余計に血色の悪さを引き立たせて、つられて背筋が凍る。手慣れた手つきで、相変わらず読めない文字が添えられた瓶を持ち寄り、目と鼻の先に出される。

そこまでされても、根は根で、興味のない人間からしたら違いが分からない、と云いたいところを濁飲を飲み込んだ。云わずとも、引っ込めた気持ちを汲み取るのが上手い薬学教授からしてみると、不満などお見通し。すっかり忘れていた私は折角飲み込んだのに、うっかり、頭で思い浮かべてしまう。

「堅物陰険男、とは随分な物云いですな。頭も口も悪いとは、救いようがない」
「態とでは、」
「故意なら赦されるとでも仰るのかね」

ただでさえ絶不調な機嫌を上乗せしてしまう、容量の悪さに悪態をつくと、目の前の揺らいでいる生姜だか、薬草の根だか未だに分からないものが入っている瓶が遠ざかる。視線を交わすのは、この狭い薬品庫の中では死と同等の恐怖感を味わうことは必須で、逞しい鷲鼻から上を見ることが出来ない。不健康そうな見た目から突出して目立つ、鼻が忌々しそうに鳴る。

「謂れ無い非難は戴けませんな。特に堅物、と云うのは」

男は唇を皮肉げに歪めて、何度か反芻させるたちの悪さを露呈させる。もっとも、隠していないだろうから、印象を悪化させることはない。ぐう、の音も出せない私に、追い打ちをかけるのが愉しくて仕方のないと云う、声色で呟かれた。堅物は、日中外にも出ずに気が滅入りそうなこの薬品が並んだ部屋と似たような状態の研究室で薬草弄りをしている男が、軟派さを持ち合わせているとは誰だって思わない。

(恋人も居ないと思うし…)
男を相手取る人間が居たら、見てみたい、とあれほど痛い眼を見たのに、思考は従順に回路を巡っていった。まずい、今日で一番まずい、と自分にしては巡りの良さを褒めながら、唇までしか視界に入らない薬学教授の雰囲気が、不穏なものになるのを感じた。

「…あー…えっと、スネイプ教授…根は見つけられたので、授業に戻っても…?」

健気さを演出させて、手近に戻されていた根っこを手に取り、視線を合わせないまま黙りを執行した男へ言葉をかける。普段、呼ぶとしても、陰湿男だとか、蝙蝠男とか、悪意にこもった喩えをしていたから、スネイプ教授、と云った口がむず痒くて、どうしようもなかった。元々重たい薬品庫が、明らかに湿度とは違う重さを含められて、勢いに任せて出て行こうにも、赦されもしていない上に出入り口は、漆黒を纏う男ががっちりと抑えていた。今後の自分の処遇を思い浮かべては、青くなり、思考の軽薄さに反省をしてみても、目の前の男は微動だにしない。

(困った…)
視線を四方八方に散らして、どうしようかと考えている間もあれほど、饒舌だった男の言葉はひとつも落ちてこない。手の中にある瓶が、手汗で滑り落としそうで、もし床に四散させてしまったのなら、と悪行の一途を辿るだけで、考えるのは止めた。「ス…スネイプ教授…?」

一瞬の間が命取りになった。緊張感と、苦手な薬草の匂い、手中にある瓶が温まって気持ちが悪い。黒衣がゆらりと微かに動いたのが合図で、瞬きひとつする時間もないまま、ぬるりとした何かが味覚を刺激した。二度目からは始動するのが遅くなった思考は、なんだろう、とぐるぐる回る。甘い、とは少し違う、苦味も含まれたものは今まで口にしたものの中には、当てはまらない。変わった味のするそれは、生き物のように動き出して、口にしていることで苦しさを訴えているようで、吐き出そうと思い、頭を逸らそうとすれば力強い何かに、動きを封じられる。何か、という得体の知れないものばかりが、増えていき、混乱する中で、理解できたのは薬品の匂いだった。

どれくらいか、動きと頭を抑えられる力から解放された時には、床に崩れ落ちていて、生理的な涙がぽろぽろと溢れていた。何が起きたのか、困惑した思考はその間の記憶を上手く処理出来なかったようで、あやふやだった。手にしていた筈の何かの入っていた瓶は細長い靴に寄り添われていた。共に転がる私の前で、革靴とはためいている黒が、この結果の発端だと云うことは、察しが悪くてもわかった。眼どころか、口元さえも見られないくらいに羞恥心がふつふつと身を燃やそうと湧き上がってきても、口にする体力は残っていない。

「これで、堅物ではないことが空の頭でも理解できたかね」

ええ、ともそうです、とも云えず、真っ白な思考の中でも同じ状態だった。この男、初めてを、と気づいた時にはあれほど全身を襲っていた羞恥心は、消えそれよりも怒りがこみ上げてきたまでは順調だったのに、腰はすっかり砕け散り、立ち上がることもままならないでいると、頭上で笑う音がした。感じた時には、立ち上がっていて、この陰湿な男の手を借りてしまったことが、屈辱だった。次々と出てくる感情の波を、男は皮肉ることもなく、満足げな出で立ちでいるのが何となく感じ取れた。

「貴様が持っているそれはヒルの死骸だ。文字も読めんのかね」
「………あ…」

転がっていた瓶も丁寧に拾ってくれたのかと思えば、零された言葉を聞き、頬が赤くなる。鷲鼻が勢いづいて鳴らせる音は、嘲笑に満ちていて、明らかに莫迦にしているのに、途端、怒りは消えてしまい理解の出来ない心持ちが、胸の中心を支配した。「カノコソウの根を手にしたら戻ってきなさい」と、云い残して去っていく黒衣をそこで初めてきちんと見やれば、脈拍が尋常ではなくなるわ、悔しいやらでぐちゃぐちゃだった。