わたしはつばめ

何度か、見かけたのは覚えている。いつも隅の方で、目立たずにひっそりと、息をしているような人だったと記憶していた。眼力を恐れてか、長く伸ばした前髪が後ろ髪と、区別つかなくなって、隠伏しようとして失敗したいい例だった。彼の名前は生憎の処、覚えていなくて、きっと生と魂を断ち切った時に、置いてきてしまったのだろう。他の様々な思い出は覚えているのに、彼の名前だけははっきりしなかった。気がついた時には、私という個体は人と呼べる代物ではなくなっていて、魔法界では珍しくもない、ゴーストという中途半端な存在になっていた。ホグワーツで眼が覚めた私は、ここに十年以上ゴーストとして存在していることになる。

具現化してくれるのならば、もっといい女になった姿で現れたかったけれど、人生そう、上手くは出来ていないようだ。この学び舎で青春時代を過ごした私は、自宅よりも濃密な感情を抱いていたからか、ここから離れることは不可能で、そんな中で校内をうろついている間に、東洋人の変わり者として、呼称がついてしまった。東洋人は合っていても、変わり者というのは、どの辺が、と反論しようにもゴーストの言葉なんて、まともに受け取るような奇特な生徒は少ない。見栄を張ってみたけれど、実の処、ゼロに近かった。

「私が死んだのだって、不慮の事故だし」

ホグワーツを七年間過ごした後、輝かしい未来に向かって走り出す手前で、私の姿を見落とした運転手のハンドルミスによって、呆気なく死んでしまった。それだけのことだった。魔法のいろはから、応用を覚えた処で、咄嗟の機転を利かすような腕はなかったことが、死んでから悔やまれる。幸いなことは、痛みはほぼなく、この身体になったということくらいで、新米ゴーストはこのホグワーツでは肩身が狭く、これはこれで辛いものがあるのだ。いつものように、天井に近い空間を浮いていると、悪戯好きのピーブズが、私を見て叫んだ。

「東洋人のゴースト!不細工な面を引っ提げて、何をしてるのかな?」
「いい加減名前くらい覚えたら?私はっていう名前があるの」

聞き慣れた暴言に、辟易しつつ、丁寧に名乗っても、ピーブズは答えるつもりは毛頭ないらしく、ケラケラと笑いながら周りを浮遊する。邪魔だ、と思っていても、彼のように何かを動かせる力はなく、ただ口頭で相手にぶつけるしか手立てはない。彼のようにポルターガイストを起こせたなら、退屈だと、消えたり現れたりして暇を潰さなくて済むのに、と思う。「お前の名前はブスだ!」と、幼児レベルの弄りで笑いをとるピーブズに、いい加減鬱陶しくなって、姿を消した。

この何年かの、暇潰しの成果で、姿を消して、想像すればその場に現れることができる、という青い猫型ロボットも真っ青な芸当を覚えた私は、時々こうしてアイツから逃げる手段として使っている。それ以外では使うような、出来事がないからか、専らピーブズ逃亡用になってしまって、もったいない気がするけれども。

「あ、東洋人のゴースト。こんな処でどうしたんだい」
「フレッドこそ」

私の数少ない、奇特な人間である、フレッドはだいぶ下の方で、叫んで意思表示をした。
彼に合わせて、降りて行くと、フレッドは新しい道具を手に、悪ガキそのものの顔で笑った。彼と仲良くなったのも、私がまだ自在に消失できない頃、散々追い回されて、くじけそうだった時に、手を差し伸べてくれた親切な人。まあ、それもその場限りの親切だったわけだけれども。もうひとりの相方、ジョージと組んで悪さを働く姿は、ポルターガイストを起こすアイツよりも、生きている分、たちが悪かった。

「というか、今は授業中じゃないの?こんなところで油売っていていいの?」

体内時計から計算すれば、学び舎らしく、生徒が勉学に励んでいる時間だろう。それなのに、私の目の前には、目下、悪戯を目論んでいる少年が、巻き起すであろう騒動を思い浮かべながら、頬を緩めている。その生徒のひとりである筈の、フレッドは、ニタニタと怪しげなものを持ち、自慢げに私を見た。

「心配りをしてくれるなんて、君らしくないね」
「まあ、正直なところ、心配なのはそれを仕掛けられる相手なんだけれど…」
「ハハハッ…やっぱりね」

フレッドはそれに対して、気に留めるような小さい男ではなく、笑いひとつでほとんどの事を吹き飛ばしてしまう、陽気な生者だった。私も生前はそうだったような、気もしないでもないけれど、十年以上ゴーストをしていると、その頃の感覚を呼び戻すには難しい。だって、もう私の両手は何も、掴めやしないのだから、儚さで出来た過去を彩る事でしか、五感を感じられないのだ。それは少しだけ、淋しい気もするけれど、ゴーストになった以上は、その淋しさも曖昧で、不確かなものでしかない。

「まあまあ。それよりも、これから披露するは、校内で最も恐れられている男、セブルス・スネイプ教授を驚かせる仕掛け!」

私の内情を、励まそうとしてか、身振りを大きくして、誰も通らない廊下でフレッドは叫んだ。いつも彼らの犠牲になる人は、生徒が多く、その殆どが油と水の関係性である、スリザリン生へ、向けられていた。毎度の事、静止の言葉をかけたとしても、散々やりきっている少年には、ゴーストである私の声なんて、風音と同じようなものだった。

「セブ……?…そのスネイプ教授とやらに、何かして、あなた大丈夫なの?」
「その点、抜かりはないよ」
「…その先生もかわいそうに」

私にもし、物をどうにか出来る力が、あったのなら、件のスネイプ教授へ被られるであろう、被害を妨げる事が出来るのに。聞き覚えのない彼の、名前を、頭の中で何度も反芻して、記憶を手繰りよせようと、記憶の裏まで巡った思考は無駄に終わった。新任の先生だろうか、それにしてはフレッドのいう、恐怖を感じさせるには、就任直後では考えにくい話だ。ゴーストになってから、二桁になった私のゴースト年齢から、教師の顔と名前は、大概一致していて、その中でセブルス・スネイプという男は存在しない。たまに姿がない教授もいるけれど、そういった類なのだろうか。

「違うよ。生粋の生者」
「でも、私、見た事ないわ」

それを聞いた、フレッドは「ああ」と云って、ひとり納得づくな様子に、些か不満を覚える。感情がすぐに顔に出てしまう、私を可笑しがりながら、それもそうだよ、と続けた。

「だって、君は夜は出てこないじゃないか」
「出てこない、のじゃなくて出てこられないのよ…何故かは分からないけれど」
「なるほど」
「で、なんで夜と、そのセブルス・スネイプ教授が関係しているのよ」

私は何故か、夜には出てこられない。理由は分からないけれども、憶測を立てると、死んでしまったのが夕方から夜にかけて、だったからではないかと思う。推量するまでもなく、単純な考え以外に、夜を遠ざける答えが見当たらないのだから、多分、そうだ。フレッドのいうように、スネイプ教授が、生者であるならば、夜限定で姿を表す、というのは可笑しい気がする。夜だけに現れる、なんて吸血鬼や人狼のようだ。

「校内誇るスネイプ教授は、日中は殆どを、あの薄暗い地下牢で薬品遊びをしているからさ」

フレッドは、仕掛け道具を取り付け終えて、敬愛しているようでもないのに、彼の長所をあげているようで、落とす言葉を放った。彼の云う、地下牢とは、薬品庫近くにある、地下教室の事だろう。確かに私は、あの独特の雰囲気を持った場所へは、足を踏み入れた試しがなくて、彼を見た事がないのもうなづけた。ましてや、夜以外は天上に出てこないのなら、尚更の事で、生者、というのは些か信じがたい。

「…大広間にも姿を出さないの?」
「そうだよ」

生前、食への執着があった私には、夜以外、大広間にも上ってこないなんて、信じられない話だった。日の光を遮断して、生きていける程、人は丈夫ではないだろうし、この十年以上、昼間に姿を見ていない、という事は信じられない話だけれど、彼は生きている。まるで、生ける屍のような生活状態に、ゴーストである私と、五感と、肉体の有無を除けば、似通っていた。退屈していた、私の日常に初めて、誘惑というものが出てきて、薄暗いスネイプ教授、とやらに会いたくなった。