あなたが嫌いな偶然を装って

内側に向けた私だけの想いに、応えてくれるはずもなく、こじんまりとまとまってしまった感情は、鍋で煮詰め、すっかり影も形もない薬草のようだ。あの人は、よく嘲笑を唇に表して、細くも男性らしさを残した咽喉元から、優しさの欠片もない単語をぶつけてくる。グリフィンドール生ならば、尚のことで、横目で彼らが嘲りをうけているのをみつつ、少し羨ましい、なんてそれこそ思いやりのない思いを抱いたりしていた。

はいいよなあ、好きなんだから」
「…は…っ」

ロンは、私を横目でじとり、と睨みながら、自分の目の前に広がる羊皮紙の文字が、一向に増えていかないことを嘆いた。彼の首を彩る、雄々しき寮の勲章である、深紅と金の組み合わせは、密かに羨むもの。ロンに相手の気持ちを読む、能力に長けていただろうかと、訝しみながら、なるべく冷静に「何が?」と聞き返した。

「魔法薬だよ。ったくあのやろう、多忙期になんでこんな長い課題を出すんだよ」

くりんとした赤毛を持つ彼は、おとぼけ顔と相まって、とても親しみやすい人だった。他寮と交流する機会がないのに、彼とこうして図書館で、魔法薬学教授に対して、悪態を黙々と聞き入れるくらいの仲になったのは、偶然だった。あのやろう、と口にするロンに、内心は「そんなことない」と反論の意が湧き上がるけれど、魔法薬嫌いは、獅子寮の宿命のようなものだったから、彼の課題状況を覗き込むついでに、そこから逸らそうと試みた。

「どこで止まってるの?」
「ここだよ、ニガヨモギを粉末にしたときと、そうでないときとの違い」
「粉末にすると即効性が期待できるし、そうでない場合でも乾燥させたのと、摘みたて、しばらく置いたのと、また違ってくるよ」

それだけでも、手の止まった魔法薬課題の内容が増えるし、ニガヨモギならば、教科書内で事足りることだ。
ロンはそれでも複数答えを書き出すのが、面倒らしく、あからさまに、舌を突き出して勘弁してくれ、と云わんばかりの顔をした。おかげで、あの人の悪口から頭を切り替えることには成功したのに、ロンの険しさは変わらなかった。提出期限は明日の午前に行われる、魔法薬学の授業後に回収される。それだというのに、ヒントを与えた私の言葉も蔑ろにして、羽ペンを飛ばした。こうなってしまってからの、ロンの集中力を取り戻すのには昼食か、夕食が必要になる。

「よくやるよ。こんなの友達のいないヤツが好き好んでやることだぜ」
「それって、暗に私が友達のいないヤツだって云ってるようなものだよ」

失礼なことを云っている自覚はない処が、彼らしく、赤毛と同化するくらいに、頬を染めて否定した。わかっているよ、となだめて、投げ出された羽ペンを渡すと、しぶしぶと云った顔をしながらも、長い羊皮紙と向き合う。罪悪感からか、真面目に取り組もうという、彼なりの謝罪表明に小さく笑いながら、ふたりで続きを考えた。

レイブンクロー生でありながら、友人はロンとハリー、ハーマイオニーの三人くらいだったから、ロンのいうことは大抵正しい。天才のハーマイオニーと名声を馳せているハリーとの間に挟まれているものだから、彼の云うことが霞んでいるけれど、冗句もそれなりの笑いどころがあって好きだ。友人がいないからと云って、魔法薬学への関心や、それの教鞭を振るうあの人に恋情を抱いたわけでもない。佇まいが、眼を引いて、逸らすことができなくなるくらいに、とても好きなのだ。誰にも云わない、思いの断片はそぼふるように、胸に溜まっていった。


校内ですれ違うことは滅多になくて、遠目からでもわかる、季節感を問わない黒衣に、あの人だ、と思った。やや、浮き足立ち、近づいてくる痩躯な黒は、影になると一層線のように細くなる。他の生徒はその姿に、身体を強張らせて、昼休み時間だと云うのに、授業前の遅刻をしそうな足取りで、通り過ぎていった。なんてもったいないことをするのだろう、と思うと同時に、あの人の良さを知るのは、自分だけだ、という優越感が足取りを軽くさせた。あまりの軽さに調子に乗ると、足が牽制のようにもつれ、床に膝をぶつけた。慌てて身体を起こして、何事もなかったように振る舞い、遠くの先生を見ると、変動のないものだった。

見られていない、良かった、と胸を撫で下ろして、慎重さを足したつま先は、少し余裕を持って歩み始める。偶然である出会いから、何度も練習をした教師に、生徒が声をかける「こんにちは、先生」と云う言葉を、胸の中で何度も反芻させた。そう、ただの生徒からの礼儀で、他意はないのだ、決して。嬉しさから、足はどんどん身軽になって、小走りで、闇色を背負う教師に近づいていった。

「こんに……」
「こんにちは、スネイプ教授」

自然に、を意識した不自然さを、日常である蛇寮の生徒が覆い隠して、私の声は尻すぼみに、かき消される。あの人の視線は緑色のネクタイの縛りに囚われて、私は無き者とされてしまう。小走りに向かっていた、軽さは一気に重たくなった。先生は、無愛想ではあるのに、深さを与える声色で、相手が受け持つ寮生だからか、心なしか優しげに返答をする。

「…Ms.メイヒュー、体調はもういいのかね」
「はい。先生がくださった薬で、もう」
「そうかね」

メイヒューと、呼ばれた生徒は、誰もが眼を引くような美貌で、先生に微笑んでいる。
苗字でも、先生の口から呼び返してもらえるなんて、羨ましい。寮生は苦手だけれど、すこしだけ寮替えできたのなら、と頭を過ぎった。彼女はゆっくりと吟味するように、「先生のお陰で」と強調させて、紡ぐ。ただの教師を相手取ったときの、顔、というよりは女として、印象付けようとしているように思えて、私の胸は情けないことに、ぎくり、と厭な音をさせた。

まさか、先生の良さを既知していた人が、私の他にいるなんて、思いも寄らなかったから、なんて先生に失礼極まりない話である。あまりの浅はかさに、頭の中でロンが「余裕を持たないとあとで苦労する」と、自嘲気味に呟いた。ふたりと同じく、足を止めてしまいそうになって、なんとか、小歩きで時間を稼ぎ、なるべく長く、先生との時間を共有したいという足掻きが働いた。先生は、返答を聞いて、安堵したのか、重たい前髪の間から覗く瞳が、やんわりと細められたようで、思わず駄目、と叫びそうになる。

「完治した、という勘違いはよくある。暫くは安静にしたまえ」
「心得ています。もし、具合が悪くなったら、」

彼女は先生に向かって、妖艶さを孕んだ笑みを向けて、他意を含みながら、言葉を区切る。
女の勘が当たってしまって、彼女は私と同じく、先生を特別視している。蛇寮で、贔屓目で見てもらえるから、私よりもずっと望みはあるし、今だって、先生はまんざらでもないような顔を見せていた。希薄そのものの、無関心同然のレイブンクロー生に、先生が関心を寄せることなんて、天と地がひっくり返らない限り無理な話だ。絶望的な心持ちが、苦しさと、切なさを混ぜて、ぐるぐる、眩暈を引き起こそうとやけくそになる。ああ、なんだか泣きそう。

「…何をしている…」

先生の鋭い、いつもの声色が、耳に突き刺さる。ああ、しまった、と考えた時には、既に遅くて、視線を上げるとそこには、亡霊のような表情で私を睨んでいる、先生と眼が合う。足取りは床に張り付いていて、私の意識はすっかり、ふたりに行っていたようだ。立聞きなんて、矜持のある先生からしたら、最も嫌う行為だろう。隣で優雅な佇まいのメイヒューは、私の成りが見るに堪えないようで、唇をゆるりと嘲笑の形をとる。

「何を、していると聞いているのだが、君には耳がないのかね。ああ…それとも英知に富んだレイブンクロー生には、我輩の言葉など聞くに堪えないとでも?」

叱咤する声色にも、恋心というものは、都合よくて、耳にはとても甘美な音に変換され、響き渡る。それをふまえても、皮肉の込められた言葉は、よく胸に刺さった。好意を向けている相手からの、一々は、特に嫌味には敏感に、反応するようだ。先生から、視線は逸らせなくて、深海の底のような瞳は、一時とも他所へは映らないのが、救いだった。こんなに長い時間、先生と視線を混ぜたことはなかったから。

「……いえ」
「ならば、その足をさっさと動かし寮へ戻ることだな」

ふっと、切られた視線に、身体の緊張もほどけて、頭を落とす。嫌われてしまった、という感情が先生のローブ色と、混じって黒々と染まっていく。もともと名前も、顔も、覚えてもらっているなんて思っていないから、先生にしてみればどちらに傾いても、然程重要視する問題でもないのだろうけれど。一方的でありながら、密かに抱いていた恋心が、ぽろぽろと崩れていく感覚が、痛い、と実感する。けれど、そうしても、以前よりも好きだなんて、莫迦げているだろうか。歪んだ唇が、どうしたら甘く、緩むのだろうと、そればかりが頭を支配した。

先生の向こう側で、私を見る蛇寮の彼女は、優越感たっぷりな表情で、唇は「さようなら」と動かされる。なんて、最低な人だ、先生がどうか、彼女だけには惑わされないように、と願わずにはいられない。聡明な先生ならば、一介の人のように、容易く手に落ちたりはしないだろうけれど、相手はなんていったって、女の私でさえゾッとするくらい、美しい容姿をしていたから、不安はすこしは感じても、バチはあたらない。

「…Ms.

浮き足立った午前模様から、払拭できないくらいに、重たくなった足がふたりを越していく、通り過ぎさまに、低い独特な発音で私を呼び止める。甘美だ、と胸を震わせたそれは、名前を呼ばれたことで、強力な磁石のように、私を寄せようとしているように錯覚する。知っていたことが、意外で、憮然として振り向くと、先生は相も変わらない闇色を、飼いならした瞳で、私を見下ろしていた。そこには彼女に向けたような、ものとはまた違った、柔さが垣間見えた気がした。恋する女の都合のいい、勘違いだと笑われても、良かった。

「、また、転ばぬよう気をつけなさい」

些か口角が上がって、嫌味めいた笑いは、生憎私には怯むものではなく、胸の鐘を打ち鳴らす、興奮剤だった。先生の隣にいる彼女に、対しての不安も、さっきまでの悲しさも飛ばされて、なんて単純な感情回路だろうと思うけれど、悪い気持ちではなかった。ああ、前言撤回。今日はいい日だ。