呪文のような手紙の最期
永遠を誓い合ったわけでも、ましてや近い未来共に手を繋いで歩んでいる保障なんて無かった。そんなこと、とっくに知っていた筈だと云うのに女も男もすっかり頭から抜け落ちていた。互いに寄せた信頼、不確定な線それだけだった。女は歩めていた足を止めた。そこで何があったわけでも何かを感じたわけでもなく、ただ歩みを止めた。不思議に思いながら足元を見るとそこには自身の影が意思を継いで真っ直ぐ道を示していた。進まなければ、と誰に指図される恐れなど無かったのに脅迫概念のような気持ちを抱きつつ足を前に出した。
「」
ただの名前、誰の名前だろうと背中に掛かった言葉に振り向く。とくに眼を引くような顔立ちではない男が立っていた。けれどもと呼ばれた女は酷く関心を寄せた。少しはねた前髪の間から此方に視線を向ける、痩躯な男に誂えたような尖った瞳は、見方によれば畏怖を抱くであろう。だと云うのに、は無意識のうち、安堵感を持った。自身でも小首を傾げる。男はもう一度名を呼んだのち一歩、一歩とゆるりとした動作で近づいてきた。何故そんなに緩やかなのか、もしかしたら駆け出して逃げ出すかもしれないのに男は此方の心を読んでいるのかのような安定感で距離を縮めてくる。足元に伸びている影は相も変わらず男と正反対の方へ伸びている。そちらに行けばいいのか、男の方へ足を向ければいいのか分からなくなる。影はを誘うように揺れて、それが、ゆりかごの上に寝る子供が抱く安心感がこれだと、勝手に決め付けた。けれど気持ちはすこしずつ、着々と此方へ近づく男へと向かう。影の揺らめき、男の声、どちらに意識を向ければよいか地に足がべったりと張り付いて浮かない中必死で考えた。が、いくら必死になったとして靄が掛かったような頭の中でのそれは限度があった。
「あなたは、誰なの」
おそるおそると云った心持でいたのに、言葉にすればそれは呆気なく味気ないものになった。
男はまさかが口を聞くとは思っていなかったようで、歩みを止めこちらに傷を見せた。そして対比する影と同じように揺らめき哀愁を誘う。その姿が胸の痛みを呼び起こしたが、それが何故この感情なのか理解に及ばない。心内が分からない、少しでも見えたらどんなにいいのだろうと詰まった綿の片隅で火が燻った。
「先生?」
意図せずに、口から零れ落ちた、先生という音色は男を一層動揺させて、左右に波打ち不安定さを増幅させてしまう。先生、とは誰に対しての敬称であるのか、白紙の頭の中では何も思い浮かばずに、不気味にふた文字だけが踊る。ゲシュタルト崩壊寸前まで、くるくる回る言葉に、折角動き出したのに男は観念したように、それ以上動こうとはしなくなった。そこには理由も他意も感じられないというのに、湧き上がるのは苦しさと痛みと淋しさ、そればかりだった。足を止めた時に覗いた、自分の足から伸びる影は勢力を増して、男から遠ざけようと、ぐんぐん、奥へ向かっていく。はじめから答えを決められていたような、決められない淋しさが胸を膨らませた。
「…せんせい」
男はそれ以上近づこうとはしないのに、影は男から逃れようとして道連れのように私を引っ張ろうとする。私は、先生と呼ぶ男から眼が離せなくて、どれだけ影が誘ってきてもここから一歩たりとも動きたくはなかった。何度も口を滑る言葉は云い慣れているのかするすると、落ちていきそれを聞く度に先生は不安定になってそれがまたとてつもなく淋しかった。何故淋しいと感じるのだろうと、映像の欠片さえ見つけられない中で地に這いつくばって必死に探してみる。淋しい、先生、私は、私を強引に連れて行こうとする影が、邪魔だと感じたのはそれが初めてだった。私は先生について考えたくて、他のどんなことにも邪魔をされたくない心を抱いて、先生を見上げた。あれほど遠かった先生と呼んだ男は眼と鼻の先で、ゆらゆらと漂っていた。
「……!」
「………せんせ、……」
白かった記憶は、ただただ黒に埋め尽くされていた。重たい目蓋を力の限り持ち上げていれば、先生、と呼んだものの正体が分かった。何故、この人のことを忘れてしまっていたのか不思議なほどに、私の全ては先生で出来ていた。怒声と混じり痛みが肩口を巣食い、一己の思考を奪ってしまおうとしているのだと知る。あれは、死神だったのかと、やけに透明感を持った頭が、導き出した答えを黙って認めた。現実の先生は、鋭さをもった瞳で私を見下ろして、心底憎らしげに口を動かしている。そう、怒らなくてもいいのに、と唇を緩めると、ただでさえ沸点が低い定評のある先生のそれをぶっちぎってしまう。
「…このようなことをして何になると…!」
じくじくと痛むそこに、冷ややかな何かが当てられて、何かは落とされた舌打ちからして、先生の手のひらだと知る。「莫迦者が!」と、怒鳴りつけられているにも関わらず、私は初めて見る一面に驚いていた。こんなに慌てた先生は見たことがなかったから。私がいくら想いを伝えたって飄々として、切り捨てたし、もう会うこともないだろうと、普段調子で云いホグワーツから居なくなってしまった時も、あんなに落ち着いていたのに。心なしか唇が青白くみえて、笑ってしまいそうになる。ああ、駄目だまた怒られてしまうと真一文字に閉めるとそれも気にくわないようで、「息をしろ!」と叱られた。
「、いたい、です」
「蛇に、噛まれたのだから、当たり前だ。あの方の、蛇に。今生きているだけでも奇跡と思え」
道理で先生に怒られているのに、嬉しくてたまらないのはこの所為なのだと気づくと、あれほど淋しかった気持ちは、身体からふっと離れていった。苦しさも、痛みよりも、淋しいのが一番耐えがたいものだったから、肩口の怪我なんてどうでもよくなるくらいに、幸福だった。思わず、ふふふ、と笑うと呪文で傷口をなんとかしている先生が、またキレだす言葉を聞きながら、満たされるのを感じていた。