いとしい不純

苦手だった。寧ろ、嫌いなくらいで、あの人のことはただ、スリザリン贔屓の過ぎた、嫌味たらしい蝙蝠だと思っていた。その蝙蝠が、ある日罰則がある、と呼び止めて、逃げるように去っていく友人たちを、見送りながら、残されたは見覚えのない狼藉を思い浮かべようと必死になる。普段から、ハリー・ポッターに対する仕打ちを、見てきているから、悪い印象を与えず、目立たず、息を極力しないように、という苦痛の上で成り立たせていた、魔法薬学への取り組み。そこから、罰則というものがはじき出されるなんて、どう考えても、理不尽という言葉が頭をぐるぐると回った。

呼び止められて、終業の音から、一目散で静寂をものにした地下室は、苦手な蝙蝠とふたりきりとなって、どちらとも声を出さないものだから、たっぷり一分間は沈黙が続いたと思う。蝙蝠が言葉を失うのは、珍しいことで、緊張で両腕に抱えた教科書が、振り絞った腕力のせいで、シワになる音がする。蝙蝠は、沈黙からを見つめて、捕らえようとするかのように、鋭い瞳で射抜いた。ビリビリと、腕の中で鳴るものに、気を向ける余裕を持たせてはくれずに、強張っていると、蝙蝠は静かに、云う。

「ーーーー」

それが合図になり、ビリビリになった教科書を落として、緊迫した身体は生命の危機に晒されたから、と云うように、火事場の馬鹿力を発揮した。ほとんどの思考が、停止状態に追い込まれたにも関わらず、いつもは息が上がる階段を、二段飛ばしで駆け上がり、気の置けない雰囲気の漂う空間から、天国へと抜け出してもなお、足は止まることを知らない。太ったレディーの肖像が、眼に入るまで走り続けた足は、運動不足からくるものか、蝙蝠に対してか、区別がつかないほどに震えた。

「あら、そんなに息切らして大丈夫?」
「……な…ん、とか…」

喉の奥がヒリヒリと、焼けたような痛みに遊ばれながら、太ったレディーの思いやりに返事をした。
その所為で、呪文を唱えられず、切羽詰まると「今回だけよ」と大目に見てくれた、優しき貴婦人の親切を、甘んじてうけることにする。見慣れた寮へ戻ってくると、先ほどまでの緊迫感から解放されて、かわりに頭の中で眩暈を起こすような、言葉たちが渦を巻く。蝙蝠が放った、一言が針のように、胸を複数射止められたような、感覚だった。途端に、強張る頬を、偶然にも目撃したロンに「今にもナメクジを吐きそうな顔してるぜ」と揶揄される。

「…ナメクジまた吐きたいの?」

先日の出来事を思い出して、整った息から、手にした杖まで、準備万端と赤毛の同級生へ、やりようのない感情の矛先を向ける。シェーマス・フィネガンさながら、呪術にはやんちゃぶりを見せるの腕前を知っていたために、ロンの間の抜けた、揶揄いの笑いがさあっと引き、男子寮へと駈け出す後ろ姿を見送った。

「ーー必然である」

自室に戻ると、他の同級生たちは授業から帰ってきて居らず、独り占め状態の部屋に、予期しない声が反芻される。ふり払おうと、力の限りに頭を動かして、全てを払い落としてしまいたい、と思ったのに、衝撃を与える度に蝙蝠が放つ根深い声色と、それに繋がれた台詞が全身を支配した。

蝙蝠はねっとりとした、髪や、視線以上に、指先に込めた執拗さを薬草に絡めながら、を見下ろして云う。その的確さや、見てもいないのに、刻み具合や火のかけた頃合いを、薄い唇が一言を噛みしめるように紡ぐ。「はい、先生」と都合のいい返事をしながら、鍋に向かい合う姿を、しばらく蝙蝠が見ていたことが多々あった。鋭い視線に、「違う」と淡白に静止をかける声、不意にとられた腕に力が込められた指先。あれが全て、教師としての立場からではなく、男個人からのものだとは、思いもよらなかった。

「我輩が、この感情を抱くのはーーー」

一回り以上かけ離れた年の、それも教鞭をふるう立場の人間から、告解をするような言葉を聞かされて、生理的な嫌悪感が胸に満ち満ちてもいい筈。それなのに、思い出されることと云ったら、眉間に寄せられるシワの深さや、青白い唇がときおり、意地の悪さを発揮して上がる時の、数少ない笑みのことばかり。ベッドへ飛び込めば、また蝙蝠の一言が、ゆるりとした間を持たせる速さで、身体を流れてきて、身震いをした。威圧感のある、蝙蝠の雰囲気に飲まれそうになりながら、何度、萎縮しつつ、魔法薬を完成させたか、数え切れない。よく、振り返ってみれば、スリザリン贔屓のすぎた男が、宿敵であるグリフィンドール生のに、張り付いて助言を入れる、なんておかしいと気づくべきだった。黒衣から出された腕が、やや乱暴に教科書をなぞり「よく読みたまえ、Ms.」と告げられ、よくよく注視してみれば、蝙蝠の云う通り、催眠豆の刻み損ねていたことに気づかされて、居残りをしなくて済んだこと。

「ーーーこのような、感情を抱かせたMs.ーーー」

渦中で放たれる、蝙蝠の静かながらにも、権威を含ませた言葉が、眩暈を引き寄せた。一通りの言葉を、聞いた筈で、あまりの衝撃度に、頭が処理しきれずに、度々流れ込んできて、気持ちを一層高めさせられる。これも、男の策略のうちなのか、分からずに、枕に顔をぶつけても、波は何度も、緩やかでありながら、強烈だった。

落としてきてしまった教科書を、拾い上げる男の様子が脳裏に浮かんで、眉が寄せられるのがでも容易に想像できる。もとより、いい気持ちを抱いていない地下教室から、逃げ出してきてしまったのだから、益々引き返すこともできない。だからと云って、日々続けられる蝙蝠の受け持つ授業から、サボタージュしたとしたら、それよりも恐ろしいことが、身に振りかかるに決まっていた。

「あとで、こっそり行こう…」

夕方頃の、大広間へお腹を満たすために、ほとんどの人間が向かう波に逆らって、は地下室の道を歩いていた。いくらあの皮肉を食事代わりにしていそうな、蝙蝠でさえも、生理現象には敵わないと踏んで、のことだった。すれ違うスリザリン生に冷やかされると、癖で顰め面が出てくる。けれど、内心は、その寮監に愛の告白をされてしまったんだ、と惨めになって、気分は落ち込んだ。普段のじゃじゃ馬ぶりを知る生徒は、反撃のこないグリフィンドール生を訝しげに見て、去っていった。

数時間前に走り抜けた階段は、変わりようがないのに、全く別物に感じる。は、どうしようもない緊張感と、どちらとも付かない恋情の行方を、胸を縛り付けていた所為で、苦しくて仕方なかった。誰もいない、と分かっているのに、もしかして、という気持ちがそうさせているのか、経験値が積まれていない少女には分かりかねた。

「………誰もいない…?」

地下室は数分いただけでも、気分を害しそうなほどに、湿り気を帯びていて、無意識に唇を噛む。鍵をかけていないなんて、規律正しい、用心深い蝙蝠にはあってはならない失態ではないか、と思いながらも、は不用心さに軽く力を入れる。重たげな扉は、力足らずで数センチ開いたくらいで、身体を滑り込ませるには細い。

「………!」

無意識に息が飲まれる、それ以上腕は、扉を開こうとはしなかった。陽の入らない部屋では、蝋燭の灯りが頼りで、誰もいないと思っていたそこには、陰湿な場に似つかわしくない暖色が、ぼんやりと浮かんでいた。まさかの、管理主がいたことで、緊迫していた胸を更に、強く絞られる。ぎりり、と扉の微かな悲鳴は、幸運なことに中にいる人間には届かなかった。

陽炎からのぞく、蝙蝠の横顔、瞳からは内側は読めない。細長い指先が、背表紙をなぞりあげたあと、裏表紙に書いた少女特有の文字に、指が向かうのが見える。まるで、自分自身が愛撫されているような、触れ方に、頬が熱くなる感覚がして、思わず両手で顔を覆った。すっかり抵抗を無くした扉は、元の位置に戻ろうとして、開いた時以上の音を立てた上に、ふん!と云うかのように口を閉めた。しまった、と思う間もなく、察しのいい蝙蝠が、目の前に現れたかと思うと、が弁解を述べるまでもなく、中へ引きずりこまれていく。鼻をくすぐるのは、あれほど苦手だった薬草の匂い、あまり身だしなみの関心のなさが伺える、脂っぽい匂いとが混じあったもの。腰に回された、自分とは違う、たくましさを持つ何かが這い、自由を奪おうとしていた。それが蝙蝠の腕であることや、自分の頭が男の、肩口に埋もれていることに、状況の読めない頭が、気付くのにしばらくかかった。

「はっ……して…」
「無防備に舞い戻ってきたものを、やすやすと逃すと思うのかね…?」
「………!」

ぞくり、と背筋が凍りついたのか、男の妖艶さに当てられたからなのか、選択肢を強いられるのに、どちらも選べずに、投げ出してきたツケが回ってきたようだ。低音の、独特な声色は確実にの正常を奪い、身を任せたくなってしまう。なめらかに背中を這い回る指先は、教科書を撫でていた、あの感覚を再現しているようで、眩暈がした。本能が、蝙蝠から、この部屋から逃れられないと観念するかのように、視界を黒く塗りつぶしていく。自分の気持ちがどちらかも分からないうちに、無理やりに埋められてしまうのは、やぶさかで、は腕に力を込めたが、蝙蝠は宣言通り、逃すような失態は犯さない。

「じっくり、身にお教えしよう。さすれば、我輩から逃れようとは思うまい」

肩口から放される頭、息苦しさで上向きになれば、冷徹さを持つ男とは到底思えない、熱い唇が降ってきた。逃れられない、と思うと同時に、無理やり切り取られた一本道に、不服を感じる思考は既に熱で溶かされてしまった。