三番目の瞳

※しみついた愛で濁った躯.彼女

今にも泣きそうな顔で、誰かを見る、彼女の姿をよく眼にしていたから、もしかして、と云う滅多に働くことのない察し能力が訴えかけてきた。自分から見たら、彼女は充分なほど、大人という分類に属しているのに、時々密かに伏せられた瞳からは、ありありと感情が今にも落ちてきそうで、驚いた。大人という生き物は、そういう感情からは一線を退いたものだと思っていたから、それが勝手な価値観の元に成り立っていたことを知り、恥ずかしくなる。そこから視線を逸らし、別のことを考えようとすると、育ちすぎた蝙蝠のような風貌の、じめりと湿り気のある瞳とぶつかった。彼女は一生懸命瞳を床に向けて、ばれないようにと、ひっそりと自我を押し殺している最中だったから、男の投げかけには気付かない。最も、ぶち当たってしまった自分からは、男の意味する処は皆目、予想つかないから彼女の助けにもならなかった。

「…Mr.ポッター…この後に及んで、まだ何かあるのかね」

皮肉気な唇が、持ち上がりいかにも莫迦にしている、と分かり易く表す為のように、男は暗い笑みを浮かべた。咄嗟に「お前には用はない」と普段使っている、男に対する悪態を、うっかり口走りそうになり、母音を吐き出しかけた口を睨みつけられる。幾度となく向けられてきたそれからは、畏怖の念よりも、憤然とした心持が湧き上がり、口答えしない変わりに睨み返すと、男は憎々しげに眉を顰めた。

「いえ、何も。スネイプ先生」

彼女の手前、男は滅多なことでは意味のないなじりをしないということを、最近知ったからか、少しの棘を残して、言葉を返した。男は今にも舌を噛み切らんばかりの、苦々しい顔つきを向け、沈黙を手にさっさと出て行けと云わんばかりに、苦しげなローブを翻した。ほら、と確信を得た、なじりのない男の様子に、彼女が気づく由もなく、首をもたげた後こちらをゆるりとした動作で見つめた、憂いを隠しきれない瞳と重なり合う。

「ハリー、お疲れ様。あとは私がやっておくから、昼食にいってらっしゃい」

瞳と同じく、柔らかな唇は健在で、弧を描きながら心中を穏やかにさせようと、勤めているようにも思えた。
先生の云う通りに後は任せて、罰則を終え、昼時既にくたびれた身体を引きずりながら、大広間に出ると、友人甲斐のないふたりが腰掛けていた。全く、こっちは八つ当たりもいいところな罰則を受けていたというのに、と憤慨半分で近寄ると、ふたりのうちのひとりである、ロンは欲求に忠実になっている最中だった。もうひとりのハーマイオニーは、そんなロンを見ながら、今にも呆れを吐き出すような顔をしている。

「ハリーを待って、っていったのに、ロンときたらお腹が空いた、我慢できないっていうのよ」
「ふぁって、ふぁふぁんふぇき…」
「ロンったら…」

予想通り、ハーマイオニーの呆れがだらだら流されている間、競争相手はいないのに、ロンは御構い無しに、大量にある食べ物を必死でかき込んでいた。ふたりの向かえに腰掛けながら、このふたりがくっついたら、ロンは尻に敷かれるのだろうな、とどうでもいいことを考える。彼女がこうして、男に口出しをして、ぶつかり合いを繰り返していたのなら、あの揺れる感情の波を、僅かでも穏やかにすることができるのだろうか。優しさの欠片も見出せそうにない、男の歪みきった想いを、彼女が気づくには、彼女自身が顔をあげて、ロンのように必死に食らいつくような力を出さなければ、実現しないだろうと、容易に想像できた。

「お腹壊しても知らないわよ…」
「ふぁいふょーふ!」
「…ああそう」
「よくわかるね、ハーマイオニー」

自然な流れで、他意もなく告げた言葉に、ハーマイオニーは頬を僅かに赤らめて、「ロンが単純だからよ!」と取り繕う姿に、既視感を感じて、思わぬ事実を発掘してしまった、と思った。単純なロンは、言葉通りの受け取り方をして、反論をするも、パンをかき込んでいたため、何を云っているのかさっぱりだった。


彼女は授業中、部屋の角から身じろぎをしないで、眺めていることが多い。
教壇の上で最低限の身動きで、生徒たちに恐怖心を植えつけながら、知識を与える男は、そんな彼女の姿は見えない、ないもののような扱いをしていて、一度たりとて何かを振ることはしなかった。助手という立場にある彼女が、調合中も机付近をうろつくことを良しとしないのか、少しでも動くそぶりを見せようとすると、こちらを睨んでいた男の眼光が、遠くへ伸びるのを何度か感じ取る。物言わぬ牽制ほど、彼女を一層がんじがらめにしているようで、その日も終業の合図が響くまで、片隅から出てくることはなかった。

先生」

レイブンクロー生に呼ばれた彼女は、落としていた肩を、些か強張らせて、それが男のものではないと分かると、明らさまに安堵した様子で、「どうかしたの?」と声を落とした。授業終わりに、彼女に声をかける強者は滅多に居なくて、理由は詳らかではあるのに、呼びかけた見知らぬレイブンクロー生は、純粋な瞳で近寄った。反射的に教壇近くで仁王立ちしているであろう男に、視線が向くと、思い通り、不快感を露わにさせた姿を見つける。生徒たちの提出物を、役に立たないと眉間に表して、収集している中で彼女のこととなると、男は過敏に受け取った。もちろん、グリフィンドール生に対しても、だけれど、それとは違った種類の拾い方だと思う。

「……は…今度、……」
「…それは……」

出入り口から一番遠のいた場所にいるふたりの会話は、微かにしか聞き取れず、気になるところも、確実に部屋の空気をより重たくさせている元凶を頭に入れていたためか、気はそっちに持って行かれた。自分へ眼中が向かないのは幸いだと喜ぶべきだけれど、それよりもレイブンクロー生へ飛んでいく鋭さに、身が凍りそうになる。彼女は生徒との会話に気を取られて、男の意味を含んだ妬みに似た殺気に鈍感で、生徒から受ける言葉に朗らかさを見せていた。いつもならばさっさと立ち去っている地下室に身を置いているというのに、そこから出て行こうか、どうしようかと、気持ちを揺らがせていると、先に男の方が行動に移した。

自分を通り越して、誰かを優先するのは珍しく、好奇心のままに追うと、男はひょろりとした足を闊歩させて、ふたりの前に立つ。地鳴りのように、胸を重たくさせる響きを持つ男の声が、彼女の名前を呼ぶと、勘違いからきた強張りと比べるにはおこがましいほど、身じろぎひとつしなくなる。生徒に向けた柔らかさが、一瞬にして凝り固まり、瞳だけが不安定に男を見上げていた。

「生徒からの誘いに乗るほど、欲求が満たされておられないのかね」

男の背筋を這う声色が、彼女の檻を一層狭めて、青ざめていた肌が瞬時に赤みを帯びる。置いてきぼりを食らったレイブンクロー生は、どうしたらいいのか分からずに、ふたりの間で逃げ出そうか、と思案する力も男に吸い取られているようだった。自分よりも遠のいた場所に居たにも関わらず、会話の片鱗さえ逃さない男は、底意地悪く、何かしらの手を使い、彼女を監視していたようだ。視点が男の瞳から逸らされることがなくなり、ただふたりの独断場になる。

「Mr.マーモット、次からはもっとマシな人間を誘いたまえ」
「…………」
、余所見している暇があるほど、出来た助手ではないであろう」
「……はい」

絡みつくような男の瞳が、彼女の奥底に隠した本心を、引き出そうとしているようにも見えるというのに、ある一定線から踏み出すような無謀さはなく、彼女だけを知らしめようとしている。石のように固まってしまった彼女の頬は、赤さが抜けきれずに男を見上げているため、傍からみると、恋仲のようにも思えた。脱兎の如く逃げ出す青色のネクタイが、冷静さを置き去りにしてくれているよう祈ったが、残された蛇と蛙のようなふたりには、残像も残さなかった。冷静さを欠いているのは男の方だったが、それを知るのは多分、この場で自分ひとりだけだろう。

「…後片付けを、します」

男の底知れぬ感情の重さに耐えきれなくなった彼女は、頭を下げて、消え入りそうに呟かれた言葉に、男は些か憤慨の意を抱いたような表情をするも、殺伐とした顔の下に隠した。すれ違い、交わることのないふたつの意思に、もどかしいような心持を抱くと共に、こんな男に、という嫉妬とは違うけれど、似たような感情がとぐろを巻く。男は何故、彼女に執着する癖に、突き放すようなことをするのだろう。彼女はそれだというのに、何故助手という立場から離れることなく、傍にいるのだろう。俯いて、男の返答を待つかのような彼女に、男はやっとのこと、歪んだ薄い唇を微かに振動させた。彼女に負けずも劣らず、そよ風のような音を拾えずに、何を告げたのかは検討がつかなかった。気がつくと、部屋には三人しか残っておらず、しまった、という後悔と我に返った時には、彼女へ向いていた男の意識は、憎々しげにこちらに向かってきた。