しみついた愛で濁った躯

変に気負っていても仕方ないのに、かの人を目の前にすると全てが変化してしまって、いつもの自身らしさが穴の中へ逃げていってしまう。想いのたけの分、笑顔でいようと視線を合わせた。それだけでもう私は、消えてしまいたい衝動と、このまま時間を止めてほしい気持ちと混ざり合い、笑顔というよりは、忌み嫌う相手に対して向ける、複雑さが多くなってしまう。それに慣れているかの人はさして私の変化に気がつく程関心はない。淋しさが積まれて、底なし沼に沈んでいくように、重たくなる身を精一杯足掻かせてみても、かの人は眉ひとつ、私に対して気を揺らすことはない。

「あー…Mr.スネイプ」

期末時には誰しもが気を張らせ、近づこうものなら焼き払われそうな雰囲気を辺りに撒き散らしている。生徒はもちろん、教師も例外ではなく、殺伐とした空気の中、普段以上に言葉に気を張らなくてはいけなかった。職員室では教師勢が机にかじりつき、テスト問題と、出来の悪い生徒の追試に対しての対策を練っている最中で、私はその中で最も近寄りがたい男、セブルス・スネイプに声をかけた。

日常は地下室に入り浸って、出てくることは稀であるのに、このところは職員室に張り付き、部屋の湿度を些かあげていた。彼の助手という立場でありながら、役立たず、の烙印を押されて以来、彼は私を見えないふり、無き存在として扱った。授業中の最後尾で立ち、生徒に助言をするも、それが彼のお気に入り以外であると、あからさまに不快感を露わにしつつ、無きものの私を通り越して、生徒をなじるのが常だ。それは、すっかり全学校中周知の事実になってしまっていて、この場の誰しもが無知ではなかった為、微かに「ひっ」と声をあげる声がした。私の呼びかけに、重々しい頭は机の上で動きを止め、暫し何かを考察するように僅かに髪の毛が揺れると、消え入りそうな声で「ああ…」と呟かれた。

「…虫の類かと思えば、Ms.…我輩に何か」

少し離れた席で、フリットウィック先生の肩が縮こまるのを見て、悲鳴の主を知る。小柄とは裏腹に、決闘に優れた人だと聞いていたのに、小心者の一面も持ち合わせている、何面にも捲れる人だと思った。彼は心底煩わしそうに、首を傾けて、私を射抜いた。それだけで、心臓は握りつぶされてしまいそうなくらいに、痛むのに彼は、素知らぬ顔だ。椅子のおかげで、私に幾分が軍配が上がったようにも感じるが、それは杞憂であることは、彼の瞳を見返す私の内情を知れば詳らかだった。

「ダンブルドア校長先生が呼んでほしい、と」

彼は偉大な校長の名を聞くや否や、一層不の色を濃くし、今にも舌を噛み切らんばかりに、眉間を寄せた。大方、彼が思う気持ちはこうだろう。私を使って呼び出しをかけたこと、黙殺期でもあるこの季節に良からぬ頼みごとをされるだろうこと、私の、助手としての任期を伸ばしていること。全てが相まって彼の機嫌を損ねているのは明白で、それをどうにかしようにも、提示する提案をダンブルドア先生がことごとく打ち砕いてしまうものだから、未だに私は彼の助手を続けている。幾分、上位に立ったように錯覚しかけた私を、嘲笑うかのように、すくりと立ち上がる黒ずくめの彼は、あっという間に蹴落として、ローブを翻し、職員室を出て行ってしまった。

「彼はいつもああなのですから、気にすることはありませんよ」
「ありがとうございます。ロックハート先生」

傍で沈黙を守っていた、新任のロックハート先生が頃合いを図ったかのように、立ち上がり、賞を貰ったと豪語する笑顔で慰めの言葉を云った。ライラック色のローブや、それらに合わせたように、明るい髪色や瞳は、立ち去った彼とは正反対で労わりよりもそっちの方がおかしい。胃薬を常備している先生方とは裏腹に、ロックハート先生はいつものお調子者らしく、気がついた時には肩に手がかかり、腕を回されている状態を維持されていた。

「それより、Ms.、私と食事でも……」
「す、すみません…今は忙しい時期ですし、それはまた」
「大丈夫ですよ。彼一人でもこなせるでしょう、ね?」

そういう問題では、と意外にも力強い腕から抜け出そうと、抵抗を示すも、彼がその機微に気づけるほど、他人に注意深い人間ではないということは、短期間であっても充分に知れていた。周囲に救難信号を向けようと、視線を彷徨わせても、面倒な事には首を突っ込みたくはない、という本音が見えるくらいに、誰一人として机から視線を外す者はいない。こんなことならば、彼についていった方が僅かながらマシだった、とげんなりする心を蹴飛ばして、ライラック色の持ち主は「では、今夜迎えに行きます」と有無を聞かないまま、お決まりの笑顔を振りまいてから、やっと解放された。


ただでさえ嫌悪感をむき出しにされているというのに、ライラック色を隣に置いた日には、一層惨憺たる結果になることは、火を見るよりも明らかだ。それに、何より、今夜はもの珍しく彼から薬品整理を命じられていた為、抜け出すこともできないというのに、ライラック色の彼ときたら御構い無しだった。この多忙期に、彼にとって価値ある物の管理を怠ることは、忌み嫌う相手を上回るものだったから、仕方なし、と云った表情から読み取る。けれど、それでも何かしら、助手として言葉をかけられるのは、悪い気持ちではなく、寧ろ、幸福な心持を胸に抱いたくらいだった。

「…どうやって断れば…」

彼の研究室に隣接した自室の中で、忙しなく歩き回り、狭い部屋では眩暈を引き出されるほど、何周もしたのに、物事を打破する手立ては思いつかず、黒衣と薄紫が渦を巻いていた。優先させるべきは、是非を問わずとも決まっていて、もとより、助手としての職務をまっとうするつもりであるのに、融通の聞かない教師を押しとどめるには、自身の意思が押し負ける。こういう処も彼が嫌う、理由のひとつでもあるのだろう、と胸が詰まりかけたけれど、そうした処で胸に留めるような良心を彼が見せてくれるとは思えなかった。

「諸君の出来栄えは次回の試験で明白にされるであろう。実に愉しみである」

普段通り、教室の片隅から慄く生徒の背中を眺めつつ、教壇前で雄弁に語る彼は、午前の不快さを露わにはせずに、しつこさを残す話し方で、一層魔法薬学への関心を削いだ。ある意味では、快事ではあると云う、実に彼らしい皮肉は、すっかり生徒たちに染み付いていて、一層震え上がる小さい背中。何年も助手として近場に居ても、指折りだけで事足りる年齢差も、意味を成さない彼の、威厳や人を寄りつかせない畏怖は、不変だった。

、今夜のことは覚えているであろうな」

彼にしては珍しく、念を押すかのように、問い詰められる。地下室から離れていく小さい背中達とは、真逆に、追いかけてくる大きな影は、近づかずとも分かる、眉間の刻まれた縦筋の深さから、午前の出来事を引っ張っていると分かった。些か、それに対して悲しさが湧き上がるも、表面には出さず、彼を見上げる。

「分かっています。薬品庫の整理ですよね」
「心得ているならいい。余所見はするな、貴重なものも多い」
「はい」

用件だけを告げると、彼は重たげなローブを軽々と翻し、生徒達の後を辿るかのように去って行った。有無を聞くまでもなく、消えて行ってしまった大きな背中は、悩み事のひとつになったあのライラック色を彷彿とさせる。水と油のようなふたりが、唯一重なり合ったが、直ぐに切り離しにかかる姿を思い浮かべて、少しだけ緩む唇を叱咤するかのように、彼の歪められた唇が思い出された。

日が落ちるまでの間、何度か校内を走り回ったのに、鬱陶しいくらいの愛想を振りまく、ロックハート先生を見つけることも出来ず、だからといって彼の云い付けをほったらかしにすることも出来ないまま、薬品庫までの道を渡る。どちらをとるかと問われたら、悩むまでもなく、大惨事になるのは薬品庫の方で、今度こそ彼から引導を渡されるのは必至。自室隣からは、忙しなく羽ペンが動かされる音が微かにしていたし、神経質そのものを擬音にしたかのような、それを、止める勇気はなかった。迎えにくる、と一方的に約束を取り付けたロックハート先生は今頃、研究室隣の私の自室へ飛び込んでいる最中に違いない、と思いながら、せめて隣の彼がそれに気付かず仕事に熱をあげてくれていますように、と願った。最も、台風一過のような人物だから、神経過敏な彼が気付かないわけはないのだけれど。

「………」

薬品庫の中には、彼の云う通り、貴重な材料が所狭しと並んでいて、再三注意を受けなくても理解を得ているのに、と遅れて憤慨の意がこみ上げる。輪をかけて目まぐるしくなった彼の日常の中から、泣く泣く排除せざるお得なかっただろう、薬品庫は、少しの間管理を怠っただけで、カビ臭い独特な臭いを放った。彼は時々、こういう意地の悪さを発揮して、困らせるのが得手しているかのようで、思わず逃げ出したくなるほどの異臭に、朝から続く眩暈が再発しそうだった。

先生」

一時休戦と、ふらつく足元で小さな部屋から飛び出すと、可愛い声が私を呼び止める。薬品庫がある場所は、普段誰も好き好んで通るような処ではなかったから、思い切り驚くと、相手もそれに呼応して素っ頓狂な声が響いた。振り向くと、そこには稲妻の傷を持つ、ハリー・ポッターが大きな眼を瞬かせて、私を見上げていた。

「ハリー、どうしたのこんな処で」
「ロックハート……先生の罰則からの帰りです」

ハリーは一間を開けて、思い出したかのように敬称をつけた。日常生活での素を出してしまい、しまったという顔を見つめながら、微笑ましい気持ちが、一時のカビ臭さを追い払った。ハリーは彼にとって、嫌悪の対象であることは、周知の事実で、薬品庫近くをうろついていては、彼に罰則や減点をしてくれと云っているようなもの。幸い、この場に出くわしたのは彼ではなかったものの、ロックハート先生、という名前を聞き、うんざりするハリーに対して、血の気が些か引く思いだった。

「罰則、って期末前には行わない筈じゃないの?」

ふと気づいたことを、口に出すと、ハリーは可愛らしい顔を一層歪めて、まるで百味ビーンズの最低な味に当たってしまった、と云わんばかりの表情になる。ロックハート先生の罰則以上のことなのか、それとも罰則が予想以上だったのか、計り兼ねて、先を促すように視線を向けると、ハリーは今度は失態を犯さないと云うように、たどたどしく言葉を選んで紡いだ。

「あー…スネイプ、先生が…前倒しに、ロックハート…先生に、僕の、罰則の面倒をみてやれって…」
「…スネイプ先生、が?」
「はい。なんでも…前回受けた、魔法薬学の成績が惨憺たる結果だったから、と」

ハリーは、心底憎らしげに呟くと、幾分か前の出来事を思い出したようで、苦虫を潰したような顔をする。
彼が、そう、と憮然として、様々なことを拾い集めて、事実を探り入れようとしてみると、実に自分に都合のいいことが思い浮かぶ。まさか、そんな、と打ち消して、他の眩暈がするほどに冷ややかな結果を、真っ向から受け入れてみても、ちぐはぐで、うまく型にはまろうとはしない。彼から与えられる出来事のほとんどは、私への嫌いであり、助手の身でありながら、教授を差し置いて食事に出るなど、という憤慨を込めたついでに、ハリーを巻き込んだに違いない。と、いい解釈ばかりを拾う自分に、突きつけ、腑に落ちないハリーの背中をさすって、「私からなんとか云ってみるね」と励ましながら、本心は別の場所に置いてきていた。