喉奥に消え去った涙
彼は往々にして繰り出される、素顔とも云えない愛嬌が、強張った心を解すには十分なことだった。
知らず知らずのうちに飲み込まれてしまった、男の重たさに身を捩ることさえ赦されない程、身動きが取れなくなっていて、程度を見失っていると辛うじて認知する。気がつかれない意識を、態々露呈させてまで、成就させようとまでは欲が回らず、ただ遠目から男の威厳のある背中を眺めるだけで満ち満ちた気持ちにさせてくれていた。貪欲になりきらない思考は、恋とも憧憬ともつかず、中途半端なまま首を傾げていた。
「たまに顔を出したかと思えば、アイツのことか」
憎々しげに吐き出される台詞と、表情筋の動きを眺めながら、彼の人に対して「アイツ」呼ばわりするのはこの男くらいだった。その他は口にすることすら、厭うからだ。は困ったように眉尻を下げて、困惑を表したが、長年培っていた憎悪はそう容易く解されず、それを知らしめるかのように男は、たっぷりと伸びたヒゲの奥で悪態をついた。
「あなたにとってどうであれ、私には重要なの」
「はっ…アイツが落ちるような男かよ」
歪められる表情は、体毛で随分隠れてしまってはいるが、垣間見える造りは美男子のものだと容易に想像がついた。シリウス・ブラックは過去自宅だったであろう、我が家に身を潜めて、一人暮らしにしては余分の多い空間の中で暮らしていた。あの地獄から解放されたのにも関わらず、薄汚い身なりをなんとかすることはせずに、まるで「野良犬」のような風貌には、別に意味で顔を顰める。
「というか、その格好はどうにかならないの?」
は直球に言葉を落とし、シリウスへ自覚を持たせようとするも、当の本人は発信された言葉以前に、不機嫌は色濃い。ただでさえ「アイツ」のことで気分は最低なものであるというように、シリウスは椅子の背もたれに勢いづいて、もたれこむ。
「それは、俺よりも先にアイツにかけるべき言葉じゃないのか」
シリウスは持ち合わせている育ちの良質さに、我が身を置いていた為か、自分を養う眼を曇らせているらしく、平然と云った。学舎時代からの不変さにはほとほと呆れ顔で、この調子だからか、彼もまた無条件に決めつける傾向にあるのだと、やや彼へと傾倒した思いを抱く。不潔そのものの男は渾然とした髭の奥から、赤々とした唇を大きく広げた。
「あの人は十分、魅力的だわ」
だらしのない表情さえも、飲み込んでしまう体毛の多さに辟易としながら、彼のことを思い出しつつ視線を逸らす。遠目から彼を見ていられるだけでも僥倖なのだから、それ以上望むことは何一つもない、という意味も含ませる。シリウスは魅力的と言葉をなぞるまでもなく、予想に沿われた言葉に眩暈を起こして、椅子を制御する力を失うと、呆気なく均衡は崩された。
「ばっ……あれがっ…」
ふたりのみの広間に、派手な音をたてて床に落ちた男は、様々な思いから処理ができなくなったらしく、たどたどしい批難を飛ばそうとするも、失敗する。こみ上げてくる嘔吐感をどうにかしようとして、硬く口を閉ざしてもみるが、それもどうやら無駄で終わるらしい。シリウスは今昔の彼を重ねては、魅力的な部分をなんとか見出そうとしているようで、「アイツ」によく似て眉間に難問の意を示すが、最終的には困難を極めたような顔で天井を仰いだ。
「趣味悪ィ…」
口悪く罵ったとしても、一応は検討する進歩を見せた男に、咎めかけた口は空気を含むだけに止まる。あばたもえくぼ、という言葉を思い出したのかもしれない、とは、くしゃくしゃにした髪の毛と丸眼鏡を微笑ましく見つめる友人を懐かしんだ。それを考慮しても、最近巷での通り名である育ちすぎた蝙蝠のような男の魅力は、理解に苦しむらしく、難しい顔をしたまま、机から顔を出そうとはしない。
「俺は信用しているわけじゃない」
暗に差し出された注告を受け止めながらも、それが正しい道だとは限らず、彼が心中に飼っている恋情が永久と説いているのならば、にとって確信を得たと同意義だった。思いのうちを説かれたわけでもないが、彼と同じくして追いかけていた瞳が、それを捉えるのに、そう時間はかからない。「彼は、」と思わず弁解をしかけて、唇は固まる。目の前の蛇蝎の如く忌み合っている相手に、探られたくないことを他者から告げてしまうのは、良識から反している、と思ったからだ。彼ならば、自身の信条が屈折しなければ、表立つ評価など気にも留めないのだろうし、ただ、真摯に、一辺倒であれどもそれは屈強なものだ。
「それでも、私は好きなんだわ」
「めでたいことで」
やっとの思いで顔を出した男は、想像上と重なり、渋い顔をしたまま椅子に座り直した。盲目になった人の眼を覚ますのは骨だ、と云わんばかりに皮肉じみた言葉を返す。目の前の男が思うところと、の心情が一致することはないが、往々にして交じり合う為か、つい甘えてしまう。シリウスは持ち直したというのに、早速顰め面をして視線を宙にやった。ふざけ半分の嫌みたらしさというよりは、心底忌むことに一途であるようだ。
「随分と優雅な時間をお過ごしのようで」
背筋を氷で撫でられたような、鋭く冷ややかであるのに、にしてみたらとてつもなく甘いもので、はっと振り返れば黒ずくめの痩躯な影が扉の前に立っていた。突然現れたかの人に、胸を高鳴らせている間にも、犬猿の間柄である男達は不服である様子が手に取るように分かった。皮肉を得手とした黒ずくめの男、スネイプは口角を上げて、二人を見つめる。他所でも男の威厳は少しも衰えを見せず、それが一層反感を買うようだった。混沌とした思考が、何故彼が、と訴えるが家主はそれすら笑止と云わんばかりで、恋情を抱く者よりは冷静さを欠いてはいなかった。
「態々こちらまで出向くほど、ホグワーツの教授という肩書きは大したことがないのでしょうかね」
シリウスの野生的な瞳がの背を通り越して、不遜な態度であるといわんばかりではあるが、莫迦丁寧に繰り出された言葉にスネイプは眉を持ち上げる。最後に顔を合わせたのは随分前のようで、この二人にはごく最近、大きな溝を一層深める出来事があった為、久しいという感覚は存在しない。
「我輩とて、多忙を極める中で重要性の感じられないものの為に足を運ぶのは気がひけるのだがね」
はすぐ傍に感じられる存在に、内心どぎまぎしながら、やりとりを静かに受け止めていた。スネイプの場を問わない唇は、滔々と紡がれると、年季の入った大屋敷の床が些か喧しい音を立てる。まるで吐かれた相手の心情を汲み取るかのような、忠実さだ。は振り向きたくて仕方ないというのに、それをぐっと堪えて、いつもの意志の強さは形を潜めた。視界に広がるのは木目と、今にも噛みつかんばかりである男のやや汚らしい顔だ。
「ダンブルドア校長から、例の件について」
一通り憎しみあった終わりに、スネイプは早々に立ち去りたくて仕方ないのか、本来の目的であろう目的を告げると、きぬ擦れがの耳に届いて、男が癖である腕組みをしたのだと感じとる。その頃には冷静さを取り戻したは、不死鳥の本拠地、ということを思い出していて、待機中の札を首からぶさらげたままの男は、少しばかり機嫌を回復させた。
「わ、私は外に出ているわね」
背に向けられる圧迫感に、極秘であることから、は腰を上げて部屋を出て行こうとする。スネイプの云う重要性の感じられないことの為に屋敷に足を運んだからか、羞恥心を胸に抱いて、まともに黒衣さえも見られなかった。シリウスと視線を交えて、退室を促され伏せ目がちなまま、出入り口をふさいでいるスネイプに近くと、独特な薬草の匂いが鼻を何度も刺激して、魅力の一部となりつつあるそれに眩暈がした。「」しゅるり、となぞられた自身の名前に憮然として、平常心を失いかける。男の登場から、平常心が無事に稼働していたのなら、の話だ。
「貴様にも用はある。外で待っておくよう」
「…分かったわ」
校外であまり出会うことのない女性の後ろ姿を一瞥したのち、スネイプは割り切れない部位を黒衣に隠して、薄汚い男を軽く笑った。シリウスはその様子に、感情の赴くまま飛びかかりたい気持ちで溢れたが、蝙蝠のような男の手中には「例の件」が握られていた為、指先を木目に食い込ませるだけに留めた。それを見ながら、スネイプは優越感から滅多に表現することのない喜びを含ませて、言付けを伝える間も、椅子を勧めることすらしないし、されようとも思っていないようだ。
「用件は以上だ。後の指示は追って連絡されるだろう」
「ああ。仕事が済んだのなら早々に立ち去ってくれるとこちらとしても非常に助かる」
体毛の多い男から喜怒哀楽を読み取るのは、困難ではあるが、両者の間柄からいって漂うのは怒気のみで、シリウスは目の前の男を真似るように薄く笑うと、立場は逆転される。スネイプは足元が危うくなることに、酷く不愉快な心持を抱いて、去りがたく思わせるが、小汚い男を延々と見続けるのにも限界があった。
「ひとつ、進言して差し上げよう」身体は外へ向きながら、意識ははっきりと男を認めていた。唐突にへりくだった男に、シリウスは訝しみと軽蔑の眼差しを飛ばすが、そういう類に慣れている男は痛くも痒くもない。スネイプは満足感を覚えたように唇が広がりをみせて、大ぶりな動作でローブを翻した。
「あやつは我輩のものだ。手出しは無用だと云うことを覚えておけ」
彼女は確かこう云った筈だ。「軽率で愚行をするくらいなら舌を噛み切る方を選ぶ人だ」と、シリウスの記憶違いでなければ、噯気にも出さない思慮深さが、酷く解りづらくもありながら、享受したときの喜びは一入だと。それが、太々しくも家主以上に傲慢な態度もさることながら、業の深さを宿敵である男に垣間見せた。ぐうの言葉も出ないシリウスに痺れを切らしたのか、そもそも返答を求めていないのか、育ちすぎた蝙蝠の姿は忽然と入り口から消えていた。今頃、扉の向こう側では、尊大そのものな男の言葉に翻弄されながら、は頬を染めているのだろう。魅力的が聞いて呆れる、とまた椅子から転がりかけて、シリウスは颯爽と消えていった黒衣を思い出した。