ふかづめばかりがくせになる

あら、先生。から始まった言葉は、男の耳にはとても目障りだった。
廊下の真ん中で、生徒と教師がすれ違いになる午後の言葉としては、当たり障りのないものだ。胃の底から込み上げてくる、強烈な感情を闊歩して発散させていたというのに。この一言で男の足はすっかり歩みを止めて、生徒を見下ろした。苛立ちが一気に溢れてくるのは、足を止めたからだけではない。二の次に何がくるのか、分かっていたからだ。

「先ほどの、」

彼女は、見下ろされている恐ろしさを、ものとはせずに、男の思い通り言葉を並べようとした。しかし教師は、言葉を聞く前に真っ黒なローブを靡かせて、通り過ぎて行ってしまう。彼女が振り向いてまで、心のままに発言しようとしても、痩身の男の足の速さは尋常ではなかった。

その様子には面白くなり、口元を吊り上げると、誰かによく似た表情になった。先ほどの、と遮らされた言葉の続きはこうだ。

「あのピンク色ガマ蛙が貴方の自尊心を折ったって」

暗所に黒衣、空気に溶け込める優越感と、自身のテリトリー内で起こりうるはずがないと思っていた、混乱。スネイプは横やりの入れようがない地下に、居場所を作った。それを、三日月眼鏡をかけた翁の気まぐれのようにも感じる提案によって、安息を感じる事なく、破壊されてしまう。飲み込めずに苦戦しているスネイプの、予測通りに被害を真っ向から被った。

自室兼研究室へと足を向けながら、収まり損ねた怒りを靴底にためた。革靴が悲鳴を上げ、スネイプに赦しを乞うが、それさえも耳障りである。真っ向から男に向かってこようとする変わり者は・ポッターくらいだと、スリザリン内のみならず、全生徒の好奇の的だった。そうだ、少女がスリザリンである事が問題だった。贅沢は云わない(願わくばグリフィンドールなら何かにつけ点数を奪えた)他二寮のどちらかなら、減点を口走り、この無謀な追いかけごっこから逃げ出せた。それもがスリザリンなばかりに、減点も出来ず、ましてや寮長であるため一定線までは面倒を見なければならない。

「あの狸爺め…」

細心の注意を払い、普段は口にしないような言葉が、男の口から漏れる。それもこれも、狸爺と揶揄された、このホグワーツ校の校長アルバス・ダンブルドアの所為だ。ただでさえ一人目のポッターに手を焼いているというのに、狸爺が「うっかり」入学案内を送り損ねたもう一人のポッターの存在が、スネイプを掻き乱していた。男の授業を取っていない彼女が、何故それを知っているのか、剥きかけた唇の裏を必死で吸い込んだ。意識が行かず、砕いてしまった教鞭とニンマリとした寛容な口元に、男は背を向け、憎悪の根源である少年へすぐさま足を運んだ。それが八つ当たりなどとは微塵にも認めようとは思わずに、スネイプはフリルを優雅にはためかせる女の真似をした。

「Mr.ポッター……」

から始まる警告音に呼ばれたハリー・ポッターは、この頃にはスネイプ対策法を心得ていた。表面上は「すみません」と云ったが、眼は何処までも反抗的だった。煮立ちすぎた薬を一瞥すると、それまでの不快な感情は払拭され、心からの賛辞をハリー・ポッターに送る。たまに見せる気まぐれさに、少年は身震いをする。けれども、それを非難する訳にもいかず、口先だけは男に従った。

ピンクのガマ蛙は、そこばかりは同感だと云わんばかりに、元々広い唇を更に伸ばす。
思い出しただけでも吐き気がする。スネイプは、追いかけていた足音が消えた事への、安堵から漏れた悪態に口を噤む。同じポッター家から生まれたというのに、面白い程二人は、性格の食い違いを見せていた。ハリー・ポッターの方は情熱的で、勇敢と無謀を美徳として、時々(ほとんど)スネイプの癪を、容赦なく突いてくる。対して双子の妹である・ポッターの方は、冷静な上、読心術を心得ている手練の魔法使いのような鋭い眼光を向け、時に欺きを罪悪としない狡猾さも、兼ねそろえていた。二人の欠点が上手い事分かれた結果なのだろうが、それにしても容赦のない。

「眼だけならまだしも……」

ハリー・ポッターは姿ほとんどが、スネイプの惨憺たる過去を蘇らせてくれる、男のものであるにも関わらず、もう片方の方は、真逆だった。どの立場になろうとも、男の大半をしめている女性の姿をほとんど借りた容姿で、スネイプに対し、笑いかける。あの女性にはなかった、スリザリンの冷酷さを些か足した笑みで、「先生」と口にするのを、見聞きする度に、何とも云い難い感情が胸を燻らせた。

「眼は、父親似ですからね」

耳をくすぐる音色は、懐かしさを思わせるもので、スネイプは刹那、緊張を胸に感じたが、直ぐに勘違いだと気づく。男の背に居るであろう、少女を、スネイプは複雑な面持ちで感じ取る。

「………Ms.ポッター…何故ここにいる」
「扉が開いていたものですから、入室を許可されたのだと思いました」
「君は、開いている部屋があったのなら何処へでも入るのかね」

いいえ、と確かな否定を聞き入れながら、彼女は開いていたのなら、また同じことを繰り返すのだろう。
が云う通り、姿はあの女性そのものであるのに、瞳だけは、父親のものだった。眼鏡越しに見えていた、好機や嫌悪が、素通しになるとより強固なものになり、スネイプは厄介なものだと奥歯を噛みしめる。直視できない少女のなりに、スネイプは調子を崩されていることの苛立ちから、癖になっている罰則やら、減点やらが口をついて出てきそうになった。

「罰則でも減点でも構いません。罰則なら少しでも先生と一緒にいられますし、減点なら困るのは先生でしょう」

先手を打たれたことで、スネイプは口惜しくてたまらなくなった。耳障りである言葉の羅列をなぞるのは、離すまいと、不恰好にもしがみついてしまいそうになる、声。その対比に、一層男の苛立ちは増していくのを、知りつつ、は冷静な瞳で微笑む。告解をしたわけでもないのに、少女は悟ったようないでたちで、スネイプの前に現れては「母は、」と持ち出す。そして、男がその声や姿で渇望した言葉を、少女は何事なしに、云う。それが、男の癪に触れる最上級のことだった。

「先生、私と付き合ってくださいませんか」

日常会話と何ら変動のない調子で、はスネイプに、告げる。何度跳ね除けたか、数知れずのそれはスネイプにしてみると、等閑事のように響くというのに、胸にしこりとして残されてしまうのは、あの女性の声色だからであるのは明白だった。どんなに見た目が酷似していようとも、別人であることは覆りようのない事実で、スネイプは不快感を露わにしながら、少女を見下ろした。

「何度告げたら、理解を得るのかね。生徒に対し、そういった感情は抱かん。残念ながら」
「普段の先生が持つ、頑迷さは評価致しますが、何度断られても理解出来ません」

一歩も引かないところは、果敢と呼ばれる寮生のもので、スネイプはピンクのガマガエル以上に、表せられようのない憤怒の想いが彷彿とさせられていくのを感じる。少女は相も変わらずに、冷静な瞳で男を見上げ、見据えているように、「先生としては」と零す。老獪さが垣間見えるそれは、あの食えない翁のようで、スネイプは弱みを握られたような、居た堪れなさをも沸かされた。

「生徒という境界線を設けることで、見てみぬ振りをしているのでしょう?」

何が、と問わずとも少女の問いへの答えに、行き着くには数秒もかからない。搦手を取られた気がして、スネイプは不快感を眉間に溜め、境界線を超えることへの警告を提示するも、少女がやすやすとその誘いに乗るような素直さを、持ち合わせているとは思えなかった。含むところがある男に対して、はいかにも、スリザリンらしい笑みで答えた。

「私は、先生の唯一であるものの、変わりでも構わないと、云っているんです」

たっぷりの赤毛は、まばゆいばかりの空気を纏い、スネイプの胸を焦がすのに充分で、緩む唇はあの麗しき女性のもの。おのずと逸らし気味になる視線を、向ければ、そこにあるのはアーモンド型の緑色ではなく、榛色の瞳だった。活気さにやや欠けるのは、彼女が狡猾さを胸に秘めているからで、幾分マシに思える。あのガラス越しに見えた、男の片鱗は残していても、上手く・ポッターとしての存在を作り上げていた。

「気でも狂れたのか」
「まさか」

自身で設けた線のふちで、かの人によく似た少女が、くすくすと喜びを零した。例のあの人の影響を強く受けたのだと、思わずにはいられないほどに、少女の持つ性質は冷たく、飄々としている。見た目がどうであれ、スネイプが一時、惹きつけられても、それは別人であることを、ひときわ目立たせる。靴底にためた含みを、感じ取るかのように摩擦音が響いた。

「随分と利他的な提案だな。我が寮生には無い思考だ」
「だって、私は、あの二人の子供ですから」
「…いかにも。だが、君は、スリザリン生であろう」

スネイプは、釘を再度打つように、ゆっくりと言葉をほぐした。かの人との違いを浮き彫りにさせるために、呟けば、一時少女から愉しげな心持ちが去ったかのような、そぶりをするも「ええ」という肯定をすることで、誤魔化された。返答に優越感を覚える筈が、釈然としない自身の様を感じて、訝しげに眉間を寄せる。ふちで笑う少女は、午後の授業が、という免罪符を手に入れて、先ほどとは違いスネイプから遠ざかっていった。外界から差し込む光が、赤毛を煌めかせて、耽美であるという象徴を見せつけようとしているかのようで、益々苛立った。