花泥棒と恋のオペラ

彼女を眼にした時の、自身の動揺加減に驚いた。多少のこと、やや過剰なことも、心揺さぶられるほど柔でないという自負心が、大半を占めていたのに、差し出された彼女の姿を脳内に入れ込んだだけで、こうも自我を失いかけるとは、思ってもみなかったことだった。平衡を保とうとする表面上を、容易く掴む翁は、彼女の背を支えながら、微笑む。ああ、なんて面倒な男に搦め手を取られてしまったのだろう、と後悔するも、時既に遅し。たっぷり蓄えられた白髭の間からは雄弁な言葉たちが流された。

「常々助手が欲しいと云っておったじゃろう。旧友と再開出来て、懐かしかろうて」

化けの皮を、すっかりかぶった台詞の裏側を感じ取りながら、黙認していると、懐かしさで免疫力が退行した彼女は、戸惑いを素直に表した。記憶補正をかけられた、セブルス・スネイプという男の、感情表現の少なさに驚愕を隠せないばかりか、早速畏怖の念までが、滲み出る。起伏を掴むのが実に上手い翁は、彼女の気後れをやんわりと掌で受け止め、強張っているであろう両肩に手をやった。

「これこれ、女性を怖がらせるものではない」
「私が愛嬌を振りまいている方が、末恐ろしいことではないでしょうかね」

男は悪びれもせず、翁に臆することもなく、平然と云いのけていても、礼節を軽んじるような態度は示さなかった。彼女は、慣れ親しんだ二人の掛け合いを見ながら、随分大人びてしまった男を見上げながらも、恐る恐るという、胸の正直な方向性を、曲げることはできずに、一瞥するだけに留まる。スネイプもまた、感情の起伏が少ないとはいえ、戸惑いを隠せないばかりか、普段からたらふく飲み込んでいる他者からの畏れを、彼女から感じ取り、ひくり、と眉を痙攣させた。翁は彼女の終始が、微笑ましいようで、孫を見るように、もともと深く刻み込んだ年齢線を、一層濃くさせた。

「さて、顔合わせもすんだことじゃ。セブルス、彼女に部屋を案内しておやり」

翁のいう、彼女の部屋というものが存在し、それを把握しているのならば、不覚ながらも相手をしてやらないこともなかったが、生憎の処、男もつてはなかった。怪訝さを全面に押し出し、未だに細身の肩に絡みつくように見える、細長い指先を見つめた。そして、伏せ目がちで、視線の交わりさえも難しい、面影のほとんどを過去に置いてきた女性へ、視線を向ける。

(畏れを向けられる日が来るとは、な)

遠い日に置き去りにした、彼女の対応としては適切な反応ではあるし、全身を闇へと漬け込んだ男へ、あの屈託のない柔らかさを向けられるとは、微塵にも期待していない。それでも眼下で、間近で、見せつけられては、逃げを何処かで作っていた男としては、心臓を掴まれる思いだった。それが、ただの過去の憧憬であることは、重々承知の上であっても、苦痛が和らげられることはないし、ましてや、相手が彼女であることによって、悪態をつくことすら、難しかった。割り切っていた筈の心持ちは、片隅で虫の息であっても、生存していたことを知る。

「なあに、心配するではない。セブルスの私室隣にもうひとつ、部屋を設けた。そこで生活するがよい」
「…校長、それは同意しかねますが…」

縦横無尽に揺れる瞳を捉えながら、スネイプは狸の皮を被った翁の言葉を、静かに諭し、回避する方向へと持って行こうと画策するも、蓄えられた白い髭の奥で潜む、狡猾さは見逃さなかった。

「まさか、一時の過ちを危惧して、校内一堅実な男が自ら申し出るなどと、誰が思うまいて」

今まさに現実にしている翁が、白々しくも驚嘆したかのように見せ、男を誘導させていることに気がいかない彼女は、純真さを盾にして、おろおろと肩が揺れる。スネイプは先手を打たれたことで、二の句が告げられなくなった唇を、いかにも悔しげに内側で噛み締めていると、にじみ出る血液独特な味わいが口内で広がるのがわかった。翁は双方納得ずくだと、そこでやっとのこと彼女の繊細な肩から指先をほどいて、スネイプへの歩みを勧めた。

「あの、ダンブルドア校長…」

間に挟まれて身動きのしようがなかった彼女は、手綱を外された心細さから、弱々しくも背後の翁に言葉を向けた。そこから湧き上がる嫉妬心とも付かぬ、苛立ちを享受しながら、スネイプは彼女と狸翁のやりとりを見守るのを、ガラス窓ごときでは、憚かることは困難だったらしく、呆気なく、考えを読み取られてしまったのだと、いたずら小僧さながら輝かしさを放つ瞳と交差させてしまいながら、思う。翁は見据え、既に歩まれつつある先々のことを考慮しているにも関わらず、そ知らぬ顔で彼女の声を拾いあげた。

「セブルスかて、女性ひとりを迷わせるような非道さまでは持ち合わせておらぬ」
「ですが、ダンブルドア校長…Mr.スネイプのご迷惑になるようでしたら、私は」
「のう、セブルス」

優雅な白ひげが静かに波打ちながらも、確固たる意志を唇に乗せ、拒否権という、元々あってないような権利が破り捨てられていくのを感じる。翁の隠伏させている真髄の片鱗を、些か見せられていた男にとって道ずれとなるであろう、小ぶりな身を一瞥しながら、しぶしぶ承諾の言葉を吐く。

「我輩はこの隣だ。余程の事がなければ来訪者を歓迎することはない。覚えておきたまえ」

彼女は知らない、偉大なる魔法使いが、ただの好々爺の塊だけで与えられる程、高潔さを掲げた人々の瞳はまだ曇ってはいない。スネイプの後ろで恐々と、足跡を辿る女性の気配を黙認しながら、労いの言葉をそこへ落としてやる思いぶかさは、生憎の処、手中に収めることや、拾うつもりもなかった。地下室までの道のりの間、どちらかの早い息遣いだけが、緊張感を持って、場の雰囲気をより緊迫させていた。それはどちらか、とスネイプ自身に問いかけても、融通の利かない心中では、自己であっても朗らかにはさせてはくれないようだった。

「…はい。ご迷惑をおかけしないよう、努めます」

彼女は強張る頬を、懸命に柔らかくしようと、唇を広げてみせる。
少女時代には見られなかった、美を追求された姿に、スネイプは一時息を飲ませられ、返答を困難にした。彼女は知る由もない男の情緒に、胸の内に不信感を抱くことはなく、郷里の風習らしく腰を曲げながらも、優雅にして、意志を貫いてみせた。

「改めまして、宜しくお願い致します。Mr.スネイプ」
「期待は抱かん、」
「…はい」

持ち上がった上半身が、スネイプの苦言に揺さぶられて、弱々しげな身は今にも崩れ落ちてしまうのではないか、とさえ思う。男と同じ瞳を持ちながらも、随分澄んだ瞳は、大きく、強固に思え、噛み合わない身と心に些か可笑しさが湧き上がった。

「…あ」
「……なんだ」

さっさと自身に与えられた職務を全うすべく、無情にも彼女を置き去りにしようとする身を止め、一瞥すると、彼女はやや強張る身体を隠すことはしないで、しまった、という表情を向けていた。しかしながら、一度飛び出した不意をついたものを引っ込めるには、双方の意思を尊重させる必要があり、スネイプがそれを汲んでやれるほどに出来た人間性ではない。彼女は、少しの間をつくり、優柔不断を発揮していたが、意を決したようにまっすぐ、スネイプを見つめる。

「その、面影が酷く懐かしいようで、少しだけ…思い出したんです」

何を、と問わずとも彼女に聞くだけ無駄だというものだ。
意図してか、否か、彼女は記憶を隠伏されてしまったのだから、過去のスネイプとの一々の何処に面影を感じたのか、正確には伝えられないからだった。しがらみだらけの壁を打破させるには、手管のある翁でさえ戸惑われるほどのものだったと云う。スネイプは彼女の言葉に胸を詰まらせられて、皮肉屋の唇は言葉を発することも出来ず、微かに震えただけだった。

「引き止めてしまってすみません。…とても心地がいい感覚がしたものだから、つい」

彼女と共にした学舎の生活では、ほとんどが憎まれ口を叩いて、叩かれての間柄だけで、それ以上でもそれ以下でもないし、道を違えた後に私信を飛ばす仲でもなかった筈。それを心地がよかった、と表現した、スネイプに畏怖だけを残した彼女は告げる。道化師さながらの心持ちを抱かされ、散々だ、と悪態をつきながらも、垣間見える過去の少女だった頃の彼女の柔らかを見つつ、何事もなかったかのように自室へ引っ込んだ。