カナリアの最期

※誰かのための愛でもいい.彼女

忘れ去られたように、静寂を纏い佇む建物の入り口で、負けじと淋しさを背負った影が片隅で身じろぎひとつせずにいた。年中湿度の高く、不快感が身に襲い続ける地域であるスピナーズ・エンドに、誰も好き好んで近づこうとはしないが、その影はそれらに折れない不屈さで、何時間も待ち望んでいる。求めているものが、何であるのか、数少なくとも通り過ぎる人々は訝しげに、影を無遠慮な視線を向けた。多少なりとも居心地の悪さを感じているのか、何度か耐えきれず身じろぎはしたが、それもすぐに慣れてしまい、すっかりそこらへんに立つ街灯と変わらなくなった。

いつまでそうしていたのだろうか、街灯から光が降り出し、窓という窓からも些か温かみのある色が溢れても、黒い影はそのままだった。水気を帯びた空気をたっぷり吸い込んだ外套は、重量感を増し、心理的な痛手を被る中であっても、誰かを待ち望む影は強固だ。

「…そこで何をしている…」

些か呆れたような声色が頭上から降ってきたことで、影は憮然としたが、待ち望んでいたものだと気づき、肩は元の位置に戻る。大柄な影は周囲に負けじと暗く、重たい音色は場によく似合い、身を包む黒衣は闇に馴染んでいたが、小柄な影は一筋の光を見出したような喜びで溢れていた。

「先生を待っていたんです」

何時間も佇んでいた影は次第に表情を成して、不明瞭だったそれが少女のものだと分かると、大柄な影はあからさまにも息を吐き出した。ひくり、とすくめた肩は闇のおかげで相手に悟られることはなく、助かった、と少女は心中で呟くと「待つ相手が違うのではないのかね」と不遜であると云わんばかりの批難が飛んで、少女に届いた。大柄な影は、ある建物の入り口から一歩たりとも動こうとはせず、どうやら少女を中へ招き入れるような思いやりは持ち合わせていないようだった。

「いいえ、あなた以外を待つつもりは毛頭ありません」

少女、はさして気にも留めていない様子で、大柄な影であるスネイプを見上げて、にこりとした。そのあまりにも場に似つかわしくない、晴れやかさを含んだ笑いは随分見てはいなかった、とぼんやりと思うと同時に、身をつままれたように、眉間に皺を増やしたスネイプが、どう行動したとして、は臆することもなく、一歩たりとも引けを取らない雰囲気を漂わせている。

「…どうやってここまで嗅ぎつけた」

暗闇のおかげで細かい機微までは見えなかったのが幸いして、声色がいくら恨みつらみを唱えたとしても痛みはそこまでこなかった。唸るような台詞には、ゆっくりと、確実な言葉を伝えようと喉を何度か鳴らした。暫く会うことはおろか、声すらも聞くことができなかった為、幾分か緊張をしている、と気がついた時にははスネイプの黒衣を掴んでいた。

「…答えが欲しいのなら、いれてくれませんか…?」

ただでさえ不穏が渦巻く地域に、ひとりの影からふたつに増え、それらが押し押されぬ雰囲気から、対峙していれば益々奇妙さが浮き彫りにされる。「此処は寒いですし、」と、咄嗟に出た嘯きを咎めるでもなく、スネイプは底知れぬ闇を孕んだ双眸でを見つめる。不意をついて掴まれた黒衣の先に、細くたよりのない線が続いて、どうしようか、と柄にもなく迷いを含んだ視線は動揺を見せた。深手を負った動物のような唸りを耳にしながらも、意固地だった影から隙間を与えられる。普段の反骨精神から考え難いほど素直に、そこへ滑り込まれる姿を見下ろし、スネイプの痛みは益々酷くなった。

外気よりも幾分かマシである部屋は、突き刺すような痛々しさがなければ居心地がいいのだと思わせるのに、それが家主から与えられているうちは感じられないのだろう、とはぼんやり思った。

「綺麗にしていらっしゃるのですね」
「…見世物小屋ではない。無駄な言葉は欲してはおらん」

思わず溢れた言葉に、鋭い釘を刺され、ぐっと押し黙りながら、握りしめた黒衣を手放すのは酷く悔やまれたが、スネイプの厳しい双眸がそこから逸らされないことから、しぶしぶは手放す。そうすると、あっという間に奥へと滑り込んでしまう背中を、追いかけることもしないで、やや呆気にとられる。置き去りにされるとは思わずに、落ち着きのない身がゆらりゆらりと揺れる。通された部屋はリビングにしては、殺風景で壁伝いに所狭しと広がる本棚と、必要最低限のソファーとテーブルがあるだけだ。

「先生らしい」

無駄口を叩くな、と叱咤されたばかりだと云うのに、早速掟を破った唇は率直な意見を形にする。片隅でも彼の思うところが見られたら、覚悟ができるのに、と少しばかり悔やんだ。思い出すだけでも背筋の凍る夜、彼は、セブルス・スネイプという男は最も偉大な魔法使いを自らの手で屠り、権力を掲げて、鎮座する椅子は血の色に染まってしまった。酷く恐ろしいほどに言葉少なな、彼の行動や今は亡き翁の知るところは、には聞き及ぶことはない。

母の亡霊を背負う男の背中を、見つめてきたというのに肝心な部分は掴めずにいるのは、とてももどかしい。どんなに表面上をとり繕い、余裕綽々の笑みで立ち向かおうとも、所詮は付け焼き刃でしかないのは向けている方も、向けられている方も理解の範囲だった。

「愚者もここまでくると、救いようがないな」

一点に気を取られていたは、二度目の不意をつかれて、あられもない声を発した。「みっともない」と批難が飛んでくるのが目に見えていて、謝罪の言葉が口をついて出てくると、何に対してなのか、と飛び火を食らうことになる。いつぞやか自分はこんなにも、弱々しい立場で彼を想うようになったのだろう。今やスネイプの知るの片鱗はなりを潜めており、二重人格者のようなか弱さを見せられて、詰る唇は戸惑いを表していた。彼もまた少女同様に、酷く疲れているようだった。

「先ほどの答えを聞こう」

椅子を進めるでもなく、荒々しくクッションに沈んだスネイプの余裕のなさを感じながら、手近にあった簡素なソファーに腰を下ろす。毒牙を抜かれた蛇さながらの姿は、云い難い苦痛を孕んでいた。相も変わらなない指先まで伸びた裾から、青白い指先が鮮やかな舞を披露したのを見守ると、は観念したように言葉を落とした。

「…もしものことがあった場合あなたを支えることができるのは私、だと」
「それで、その言葉に騙され、のこのことこんな辺鄙な処までやってきた、と」

痛快極まりない、と感情を露わにしたスネイプは薄く、笑いかける。
その姿でさえ胸を焦がすのに十分だというのを、知る由もないのだと、は些か沈痛な心を抱くが、そう易々と表にしてあげるほど親切心は彼女にもない。生来の負けず嫌いが、双子のハリー同様、少女にも受け継がれており、べたつく気温をものとはしないで、ふふ、と微笑むと、黒いカーテンの間から覗く瞳が一層強烈な光を宿す。

「騙されたつもりもありません。あくまでも私の意志のもと、です」

スネイプが興味深げに両手を絡めて、前のめりになると手入れの行き届いていないソファーが耳障りな軋み方をさせる。はじめから今まで全て、あなたの為に、という想いを込めて呟いた言葉は、スネイプにとって情緒を沸かせる要素を全く含まないものだったようだ。続きを促すように、鋭い眼光が、父方の瞳を持つを捉える。

「利用してくださって構いません。…傍にいさせてくれませんか」
「…ーー聡明であるとあの方は云ったが、少々…いや、だいぶ過剰評価だったようだ」

呆れかえられるのが眼に見えていたが、まさにスネイプはその通りに、背もたれへ身を投げ打って、莫迦莫迦しい、と口にした。あの方、を葬った男は、平然として「貴様にはあの狼人間がいるであろう」と告げた。その瞬間、余裕を持っているように見せかけていた少女は、明らかに動揺を見せ、眼を見開く。その姿に、引き出した本人でさえ、些か驚きを隠せずに、嘲笑じみていた唇は、真一文字に結ばれる。

スネイプが指揮をとることになった学舎で、飛び交う恐怖の間に噂は絶滅することなく、生き生きと耳に届くのだ。自身のことであれ、他者のことであれ、いかにして愉しめるものであろうか、競争するようだった。特に、ポッター性を受け継ぎながら、蛇寮に属する少女のものは、一段と書き立てられていた。過去、教鞭をとっていた男とただならぬ雰囲気をものとした少女が、ホグズミードを密会の場として、度々逢瀬を重ねている、というもの。は肯定はしないも、否定もしなかった。

スネイプの誹りは波及を呼び、互いの思惑を確実に、渾然とさせた。どうしてしまおう、と彼女らしくなく逡巡すると、もともと薄暗い窓枠から一段と湿気に拍車をかける雨音が曇る硝子を叩く。こつん、こつん、と不定期な律動が、次第に纏められていく様子に気を取られている間、スネイプは沈黙を守った。

「この執着は先生にしか向きません、残念ながら」

気骨稜々としたの言葉は白実のもと、与えられて、スネイプは含むところがあるのだが、それを易々教えてしまえば搦め手になりうるものだ。窓硝子からこちらへ視線を戻された少女のものは、まるで科を作られているようで、より癪を撫でられる。かの人の清廉された情熱と、確固たる意志はもうひとりのポッターにも通じ、色香を滲ませる唇は過去のどちらにも当てはまらない。その曖昧さはだけのものであり、胸を掻き毟りたいほどの痛みは、今この時だけだった。

「我が身以外に、貴様にまで心配りをする余裕があるとでも云うのか」
「私もいい歳です。自分の身くらいは管理します」
「よく口が回る。啞であれば幾分か救いがあろうに」

滔々と告げられる言葉にほとほと愛想のつきかけて、スネイプは半ば真実を混ぜつつ、糊塗した言葉を反芻させる。狼男との関係性が事実であればよい、と希求すると同時に、否定的な少女の視線に酷く安堵するのはどうしてだろうか。深く追求する気持ちはなかった。

「救いは言葉があってこそです。先生」

は唐突に立ち上がり、スネイプのもとへ緩やかに近づき、動向を見守る漆黒の瞳は、ギラギラとして強烈だ。物怖じすることのない赤毛の少女は、スネイプをがんじがらめにさせることを厭わず、次第に蓄積される欲望に忠実に従う。かの人に似た少女が、柔らかく胸に絡まり背中へ回される両腕を感じ取る。何の真似事を、狼男にも同様のことをしたのか、と執着心とも嫉妬心とも呼べない不完全さが、スネイプにとぐろを巻かせるようだった。