誰かのための愛でもいい

※ふかづめばかりがくせになる.彼女

あれほど、愚かしいと説いたというのに、片隅でなりを潜めていた果敢さを、少女は男に向けて発揮した。
怒鳴り散らす男、スネイプに対して、叱咤を受けている筈である少女、は凄まじい剣幕にも動じずに、怒りが治るのを待つかのような面持ちだった。彼女の杖腕は手首から、肘まで爛れ、醜悪を見慣れたスネイプでさえも、刹那眉を顰めてしまう。床に滴るのは、薬品かそれとも、彼女の線に流れる血液か、見分けがつかないほどに、どちらも赤々としていた。

「あれくらいのことを、我輩が気づいていないとでも思ったのか?」

いくら憤怒を込めてを詰ったところで、嬉々とした感情を差し出してくるような奇特な少女には効かず、スネイプは散々怒鳴り散らした後で、些か冷静さを取り戻した口調で、呟いた。杖を握りしめたまま、赤く染まってしまった腕を、乱暴に持ち上げると、流石の少女も痛覚には押し負けて、苦痛に顔を歪ませる。

「愚かだと云った筈だが」
「そうでしたっけ」

直ぐに普段通りを装うと、可愛げのない言葉の下に隠そうとするが、掴まれた腕の痛みは見た目通りのものらしく、奥歯を噛みしめるように、唇がきゅっと締まる。スネイプはその姿に、苛立ちを覚えながら、憤然とした心持が指先に伝染するのを止められず、強く握ってしまう。男の癪を撫でる瞳が、自由に歪めることが出来ると、一時恍惚としてしまうが、赤毛のかかった額から大粒の汗が浮かぶのを見せつけられて、我に返る。

(ーー彼女はーー)

彼女は、かの人ではないのに、よく似た容姿からスネイプは、詰りを入れる相手が過去の眩さに手を入れているような心持になった。は、一時緩んだ指先の力から、男が何に躊躇したのか、二人の才能を心ゆくまで受け継いだ頭で、察しを入れ、痛みと葛藤しながら男を見る。案の定、スネイプは昔の思い出に気を取られていて、眼は他所へ行ってしまっていたのを、はしかと眼に写してしまう。

(私ではない、人を見るこの人の沈んだ瞳は…)

かの人に似た自身に、男が戸惑いを隠せないのを逆手にとり、様々な減点対象になりうる、ふちに立つことを働いてはいても、こうして目の前で堂々と、幻に想いを寄せる瞬間を目の当たりにしてしまうのとはまた違っていた。その機微は数少ない者でしか、測れることはないもので、は理解をしてしまう自身と、出来ないでいる双子の片割れを想い、ぐらぐらと気持ちが揺さぶられる。何度も、何度も、数え切れない程に揺さぶられた事実に、どう感じていたのかさえ分からなくなってしまった。

男が怪我をしてしまう、そう思考が働く前に、本能が彼と危機との間に立たなければいけない、そう思ったから、は閃光の前に飛び出した。狡猾さを利点とする寮生にあるまじき行動に、スネイプは気をとられて、自身の身代わりとなった少女の惨状を見るや否や、有無を云わせずに地下室へと引っ張った。本来ならば医務室へ向かうのが道理である筈なのに、自負がある男は薬品の整った自室へ、少女を押し込めた方が手っ取り早く、口の煩さでは負けずも劣らずのマダムポンフリーから、咎めを受けることもない、というのもスネイプの無意識下に置かれた理由の一つでもあった。

「傷は残らないであろうが、暫くは愚鈍さと痛みに悶えることになるだろう」

スネイプは手慣れた動作で、醜く染まった白く細い腕に治療を施した。男が自身の為であっても、そうでなくても、処置を行うことに意味があり、それが酷く嬉しく、感情で溢れながら、同時に痛みにも耐えなければならず、は貧血気味の頭を些か揺らす。スネイプという男がその差異を逃すような、盲目の持ち主ではなく、眉を顰めた姿を、間近で見せつけられながら、その意味を汲み取れない程、痛覚に気を許していなかったもまた気づく。

「ありがとうございます。先生」
「何に対してかは知らんが、礼を云うとは随分殊勝なことを」

は誤魔化しを混じえつつ、スネイプの気をそこから遠ざけようとして、なるべく普段通りの自分を演じる。この場合、何にしても男の神経に触れない方法などない為、無駄な努力ではあったのに、そうしていなければ今にも叫び出しそうな程、スネイプの塗りつけた薬は強烈だった。

「これで懲りたのなら、次からはスリザリンらしからぬ行動は慎め」

日中であっても薄暗い部屋は、陽が落ちてしまえば尚のこと、階段上からの暖かみが消えたことによって、一層暗さと重さを増やしていた。フン、と大きな鷲鼻を鳴らしながら、嘲笑気味に、包帯を巻きつけた腕を一瞥する。そこに、先ほどまでの意味を含んだものは消え去り、開心術を多少身につけた少女など、男にしてみたら造作もないことで、唐突に、雲隠れした感情に戸惑いを隠せず、年相応の不安定さを落としてしまう。

心持の行方を探れない男の瞳が、闇から浮かび上がり、少女を見下ろした。白い額に降り注ぐ赤毛の間に、男が嫌悪する瞳が揺らいでいるのを眺めていると、もっと傷を負えばいい、と吐露してしまいそうになる。包帯から滲み出る、赤みが範囲を増やして、全身にまわってしまえば、と自らの指先で行動を起こしかけたスネイプは、とりいそぎ、自身を閉ざした。

「先生は、」

傷を負った所為で、普段の鋭利さが些か緩和してしまった少女は、意味を取り違えて、揺らぎを大きくさせる。滅多なことでは動揺も、弱音も吐かない子供らしからぬ少女は、年相応に育つ双子のハリー・ポッターのように、今にも地下室から逃げ出さんばかりの雰囲気を纏う。際限のない男の瞳の深さが、畏怖を感じさせるという周りに反していた少女の意志が、自身の手で折られる姿を目の当たりにして、スネイプ自身も多少とも、心を揺らしかけた。

「先生は、いつまで母を想うおつもりですか」
「………それを聞いてどうする」

憎しみを感じざるおえない瞳が、スネイプの追求を逃れて伏せられたまま、的確に、矢を放つ。
暗黙の了解としていた、かの人の生霊のような少女からもたらされる言葉は、傷を受けていない男をおおいに痛めつけた。愚かしい言葉であって、それを告げたとしても、十字架に立てた誓いが破られることも、ましてや、少女に対して何かを想うこともないという、なんとも無意味な問いであろう。何をしてもある程度は眼をつむってきたのは、少なからず少女を買っていたからだ。買いかぶりだったのだと、スネイプは、愚の骨頂である羅列に、詳らかな態度を示した。

「何故、でしょう…ずっとそれでもいいと思ってきたのに」

気の沈みが見られたとして、それをがやすやすと飲み込むような、繊細さはなく、痛手を見せながらも、スネイプに対してはどこまでも凛々しさを見せる姿は一層、男の不快感を顕著にさせた。

(それは、まるで、)
スネイプは無意識に過去の憧憬へと引っ張られかけて、思わず眼を伏せた。幸いなことに、も視線を他所へ向けていた為か、気付かれずに済んだ。伏せた先に、耽美である赤毛と、という一己の存在である少女が、珍しい状態をスネイプに提示していが、それを男に向けるような、甘さを見せてはくれずに、多少なりとも苛立った。少女に搦め手を取られて、身動きが取れないように、自身の領分である地下室から、居心地悪さを感じて、今度は思い切り赤毛から眼を逸らしたが、それも取りこぼすほど、もまた余裕が見られなかった。

「私だけを見て欲しい、なんて強欲ですね」

沈黙を美徳としてきた男に理解を示していたは、それが答えだと知り、荒れる心情を表立たせないように努めながら、伏せていた睫毛を持ち上げた。眼と鼻の先で、スネイプは佇み、存在している喜びは今は到底感じられそうにないのに、絡み合った心情はそう容易いものではなく、見つめていたい恋心が勝利を手にする。スネイプは、平常心に探りを入れられる感覚が、少女に対して顕著であることに薄々気付いていたが、それを表してやる程、良心を育んではいなかった。

「…いかにも。だが、それが本来君が持ち合わせている素質であろう」

じくり、とした痛みと共に、心臓に打撃を与えるスネイプの言葉に、憮然として闇深い瞳を凝視すれば、しがらみを絶っていたそれが、ゆるりとした動作で絡みついた。厚みのある眼鏡の奥で光っていた、生命の輝きが眼下に晒されているのに、男はそれが不愉快ではなくなっていくのを感じていた。今まで眼を向けずにいた、到底理解しがたい自身の変化は、敏い少女に知られるのに時間はかからないだろうが、深手を負っている今ならば、些か、感情を混じえても気付かれることはない。

「私はしつこいですよ」
「今更何を云う」

無垢でありながらも、狡猾さを孕んだ瞳を絡め取る喜びを、確実に胸へと蓄積させながら、滅多にお目にかかれないの弱さを見つめた。スネイプの心持を探る余裕を欠いてしまったは、普段以上にねっとりと交わる視線の意味と、痛覚のほとんどを腕へと向かわせる傷と、渦を巻かせながら、思考を巡らせてみても、答えを導き出せずに困惑した。