名残もしない晴れ間のような温度

ダイアゴン横丁を歩いていると、様々な人に出会えるのが唯一の愉しみであると同時に、時々淋しさが荒波のように、押し寄せてくることがある。原因を追求したとしても、払拭する手立てはそびえ立つ壁の向こう側で、どうしようか、と立ち往生している間にそれは、随分高く、成長してしまい、もう手の施しようがなかった。

「こんにちは、お嬢さん」

不穏を形にするとしたら、ノクターン横丁が当てはまるだろう、とうわの空になっていると、噂をすれば、という言葉通りに、いかにも怪しげなおばあさんが、こちらに向かって手招きをしていた。交流のない相手取って、話を聞くような親切を向ける余裕はなく、そのまま横道にそれると、もとのダイアゴン横丁の大通りへ出る。振り向くことのない背中に、悪意の篭った唾吐きが行われたのを耳にした。安心感もどこか他人事で、大勢の善人に流されながら、はた迷惑ながらにぼんやりとしていると、見知った背格好が思い通りの速さを守りながら、飛び込んできた。

「こんにちは」

じっと、言葉もかけずに、一定の距離感から逸れることもなかったのに、すらりとしたその背中は唐突に波に逆らい、人々のいかにも迷惑そうな、横顔が見える。ぼんやりと、見ていたつもりが、うっかり念を込めていたらしく、気づかれてしまい、睫毛のカーテンを引く前に、微動だにしない黒々とした瞳に視線は絡め取られてしまう。苦し紛れに、耳に残った言葉の名残が口をついて、相手は憮然としたように見えたが、思い過ごしのようで、整頓された唇は震えを覚えようとはしない。

「Ms…」
です。レイブンクローの五年生です」

待ちの姿勢が嫌いな性分が、矜持の高い相手に堂々と発言をしてしまうあたり、寮の性分からかけ離れた無謀さが垣間見せてしまい、二度目の失態に慌てる。それすらも、無駄だといわんばかりの重々しさを全身に乗せた人は、相変わらず人波を逆らい、じっとこちらを観察する。心内を探ろうにも、様々なことにおいて、位の違いがある相手である時点で、理解出来ないのは、火を見るよりも明らかだった。レイブンクロー生にそのような名前があったのかと、彼の書類を探っているようにも、または認知していることをおせっかいにも口を挟んでしまい、気分を害してしまったようにも見えた。

「…Ms.、夏季休暇とは云え、思いに耽る場として、適しているとは到底思えないが」

夏を差した日照りが激しい中で、黒衣は優雅に立ちはだかり、額に汗腺による一線が流れ落ちることすらない。
血の通いが見受けにくい肌に、一瞥をくれると、男はクロークの内に隠した両手を組んだようで、やっとのこと微かに布地が揺れた。ひと月前までは、うんざりするほど見かけた仕草が、酷く懐かしいようで、は胸の片隅が不意をつかれたようにぐらつく。一目捕らえられただけで、深い処まで露見されたような気恥ずかしさが湧き、沈黙を守るべきであったと、後悔する。

「ここで柱となっているのも適していませんね」

自ら、墓穴を堀りに行くような言動に、あっ、とほぞを噛むと同時に、男の額からは汗の変わりと無数のしわが、眉間にたっぷりと寄せられた。人混みは益々雑多とし、ふたりを引きはがそうとしているようにも思えて、このまま逃げ出すことも容易であるような感覚が、足元を誘うけれども、粘着質な相手取って、それが叶うとも思えずに、横道に逸れる黒衣の誘導を素直に受け入れることしか、拠ん所無かった。

校外であっても変化の乏しい相手は、ダイアゴン横丁最大の本屋の扉を通り過ぎて、先ほどの喧騒とは打って変わり、静けさが身を包むものだから、温度差についていけないの身体は痒さを訴える。

「すみません。決して先生を虚仮にした訳ではなくて、」
「君は、沈黙を美徳とする国の生まれではなかったのかね」

痩躯でありながらも、強固な背は静寂に馴染む声色で、諭すように落とす。教師癖のついた言葉と、寮属性らしくない生徒の生意気さが相まって、側からみれば、なんと噛み合わないふたりだろうかと、眉を顰めるところだ。現に、通り過ぎざま、ただならぬ気配に押されて、顔をあげた夫人の奇妙な表情は、魔法薬学を受講している時の生徒によく似ていた。

ぼんやりとしていた薄い記憶は、突如として鮮明になり、記録されていくのを感じる。鮮やかとは到底云い難く、嬉々とした心持でもないのに、脈は勝手に上下に跳ねていた。本なんて、滅多なことでは読まないし、指先がそれらに触れるのも、授業の他では皆目ない。暇を持て余していた自身には、恰好の場ではある、と思い直して、黒衣を追うけれども、相手はにわかでは到底解読できそうにもない分厚い書物の羅列へ向かっていった為、は足を止めた。

目印が棚の影に消えると、どこからかともなく、俯瞰した、自らを見ている気持ちに引っ張られて、また男の云う思いに耽る自身が頭を出しそうになった。本の背表紙に眼を向けて、そこから脱出を試みようとしても、魔法界におけるマグルの危うさ、などと云う内容を知りたいとも思わず、眼を伏せる。日頃から身を持って、経験している身としてはうんざりするような、事ばかりがさも珍しいものので、異端であるか、を語られているに過ぎず、鬱々とした気持ちに拍車をかけるだけだった。

「謹厳な君から想定しえない顔だ」

どこからともなく、棚の隙間から飛び出た黒々とした影は、人である証明に声を出した。自分には厳粛な場に思える処で、あられもない声が喉から出かかり、気の赴くままに開いた唇は、歪であるが、向ける相手を念頭に入れていたおかげで、囁かに声をあげるだけに終える。頭を持ち上げると、うっとおしいほどに伸ばされた前髪の間から、些か憂いを帯びた瞳が、驚く姿を面白そうに見下ろしていた。相手の喜怒哀楽の起伏は、もともと少ない接点の中で最も顕著に、喜が見えたに過ぎず、当たらずとも雖も遠からず、と云ったところだ。

散々、それらから遠ざかるような、浅はかさを露呈してしまったにも関わらず、男は評価を下げるようなことはしなかったようだった。「校外でこそ、防備を強める必要があるだろう」思いの外、ねっとりとした陰湿さを見せなかった相手に、眼を丸くしてしまったが、それ以外にも距離の近さに対して、胸はゴムボールのように軽快な様子を見せた。

「先生が、私を知っているとは思いませんでした」

相手が散りばめる断片を、丁寧に拾っていくと、自ら暴露したレイブンクロー生、から逸脱する情報の数々が、その証拠だった。ひょろりとした男は、起伏の少ない感情下で、吟味するようにこちら側の言葉を嚙み砕いているのか、それにたる言葉はないと云う意思表示なのか、交わる視線の中で思う。

「君はよく、裏庭を憩いの場としていただろう」

頬に朱みがさすのが、体温の上昇具合で分かった。
無気力状態から逸脱するべく、裏庭に逃げ込んで、木の葉の間から差す光と、そこから見られる空の明るさとの対比を愉しんでいた。そんななんてことのない、一部分に、全てをさらけ出してしまったような、気持ちにさせられて、思わず羞恥に身を捩らせてしまうと、黒衣はやはりおかしそうに、揺れる。見当違いではない、男の情緒面に微かであっても、触れられた喜びと、恥ずかしさに睫毛を伏せた。

身の危うさを顧みず、悪態をついて逃げ出すことも出来たが、鮮明にされた気持ちに眼を逸らしてしまうのは、勿体ないとも思える。「お気に入りの場所なんです」と視線の交差に畏れを抱きながら、口を滑らせた。

「木々は悪罵も否定もないですから」

思い切って頭を持ち上げて、なんてことない程を装うと、相手はそれすら容易く見抜いていたようで、孤独を唄う瞳は底まで暗く、何を思うのか瞳は弓なりに反る。「あ…」と、飲み込んだ空気が苦々しく吐き出され、二の句を紡ぐこともままならず、相手の思うがままの道を歩かされた。じりじりと痛むのは太陽光の熱か、戸惑いを隠せずに駆け回っている思考の所為なのか、見覚えのない相手の筋肉筋の動きに、すっかりは囚われてしまった。

「我輩が、気に留めていた、としたら…君はどんな言葉を舌に包むのかね」

人気のない種類の本棚とは対照的に、裏側では忙しなく行き来される人々の足音がする。こちら側では静寂を味方につけた男が、唇を皮肉げに歪ませつつも、出方を伺いながら、相手を尊重するような趣を醸し出していた。

「私を…」
「左様」

益々広がる頬の熱から、問題の解は既に出ているにも関わらず、あくまでも自らの唇から返答を差し出そうと、男の瞳が好奇の色に染まっているのが、辛うじて分かった。他寮のように憎しみを強く抱いているようでも、己の力に陶酔しているようでもない生徒の心は、影で呼ばれている蝙蝠のような男からは、ただ、異性からの一途な心内を差し出されたに過ぎない。滅多につくことのない情緒の火は、壮年の男によって、容赦なく沸点を迎える。逆手からは急速に落ちていく気持ちが、戸惑いをぶつけながら、相手の胸元に視線を落とした。

細長い黒々とした靴先もまた、の面持ちを鮮明にしようとして、鏡の役割を担う。行き場のなくなった視線はついに、蓋をすることでその場をやり過ごそうと、強く頑固に押し付けた。黒衣の男ースネイプが何を思って、言葉を発信させたのかには分かりかねたが、あからさまな嬉々とした男の雰囲気に押されて、腕を持ち上げた。あまりにも簡単に、握り締められる黒衣の生地の柔らかさと、自身の不可解さに心臓は高鳴る。

「ぼんやりと何かを憂いる君も悪くはないが」

勝手に手中に収めたローブの端に、咎めるでもなく、スネイプはやんわりと、優しげに、静けさを尊重させながら云った。の許容量の超えた、この状況では精一杯のことで、それを理解しているのかスネイプは、黒衣を握りしめる小ぶりの拳を、一回り大きい自らの手のひらに収めた。