緋色の傘をさした迷子のこども
アーモンド型の瞳を輝かせて、純真無垢そのものだった少女が、ホグワーツに入学してきた時、陰湿の塊だった男は少なからず衝撃を受けた。自身が受け持つスリザリン寮以外の殆どから、忌み嫌われていたスネイプは、さして他人が自身に向ける評価など、取るに足らないものだと思っていたため、特に気にとめるようなことはなかった。それが、の入校と共に、スネイプの頑なだった壁を、呆気なく、打ち崩してしまう。行儀よく入室してきた、新入生の群れに、少女は居た。色に染まる前の、彼らは可愛らしく、スネイプでさえも、些か気を緩めてしまいそうになる。毎年恒例のことで、何度も繰り返された行事に、今更感慨深さも何もなく、ひとりひとり選ばれていく子供達を見ながら、今後の行く末を見通しながら、男は辟易しそうだった。
慢性化した頭痛が、脳内を刺激し、疲労を色濃くしたスネイプは、睫毛を落とし、光を避けようとする。それを、幼目が曇りのない眼差しで、男の瞳と混じり合わせ、逸らされることはない。男の本性をまだ知り得ていない少女は、畏怖の概念もなく、まっすぐに教員席の、スネイプに焦点を合わせた。スネイプも、此処でしがらみを断ち切れば、事は済んだものを、少女の白さに当てられた、と云えば聞こえは良かったが、そうではない邪さが心中を刺激して、取り払うことが出来なかった。何故このタイミングで、とスネイプは驚きから、慢性的な痛みを一時、忘れる。
「、前へ」
混じり合いを壊したのは、少女の方で、何故かと、落とし気味の目蓋で追いかければ、組み分けに呼ばれたからだった。全生徒から職員からの、視線を一手に浴びた少女は、先ほどの何色にも染まりそうにない瞳を、困惑でいっぱいにする。子供は、容易く、何かに染まりやすい、とスネイプは嘲笑気味に、そして気にかけている自身の心情に向けて笑う。少女にはだいぶ広々した、帽子の入り口に頭を埋めて、数秒間の沈黙。そしてボロ切れの継ぎ接ぎで、形成された帽子の切れ間から、大広間に叫ばれる言葉。
「グリフィンドール!」
よりによって、虚栄の塊であるあの寮へと配属されてしまうとは、グリフィンドールに組み分けされた少女の背中を、追いかけながら、スネイプは久しく感じていなかった戸惑いを身に宿した。もうそこには、当初のぎこちなさも、スネイプに向けた白さも取り払われた後だった。最も偉大とされるアルバス・ダンブルドアの祝辞を、ご馳走に囲まれながら、姿勢よく聞くのは拷問と同じらしく、低学年の子供達からは、そわそわと落ち着きのなさが教員席からうかがえる。スネイプは、空中を漂うゴーストを追うフリをして、グリフィンドール寮席に腰掛ける、を見た。
は、ホグワーツ内で最も厄介とされている、双子の間に挟まれて、洗礼を受けているようだった。
少女が、魔法薬学に関心を寄せるようになったのは、一学年の半分を過ごした頃からで、噂に違わず、冷淡で名を馳せた男は、名誉回復にも取り組まず、今更ながらに何をしたとしても、好転はしないだろうし、そもそもするつもりがなかった。一年生の魔法薬への取り組み初日、変えられようのない歪んだ唇で、吐き出した言葉を、小さな身体たちが戦々恐々として、スネイプを見ていた。
その中で、あのアーモンド型の無垢な瞳をした少女は、スネイプを見上げて、淡々と述べる知識を自らの手探りで、吸収していこうという意欲を見せていた。それに満足感を与えられた、などとは断固として認めようとは思わないが、微かに上がる口角の感覚は確かに、男を喜ばせていた。それを見る、低学年生は益々、肩身を狭くさせた。
「此処まで、各々予習をしておくよう。次回までに、返答出来なかった者がいた場合、厳しい処罰が下るであろう。心してかかれ」
培ってきた手法を、崩すような器用さを持ち合わせていなかったため、が忙しなく、ペンを走らせる中でも、厳格さを緩める事はなく、的確に指事する。それが何度続いたのだろうか、半年ですっかりホグワーツに打ち解けた少女は、即座に地下牢と揶揄される教室から、飛び出していく生徒たちの中で、余裕を身に纏いながら、片付けをしている男へと歩みを進めた。
誰かが残っていることくらい、視覚に頼らなくとも、既知していたスネイプは、相手に知らしめるために視線を寄越した。まさか、それが少女だとは思わず、面食らった男は手にしていた薬瓶を滑らしてしまう寸前だった。
「…すみません…驚かせてしまって」
常に気を尖らせているスネイプにしては、盛大な失態を犯して、自身の半分にも満たない年月を生きている少女が、悟りを浮かばせる。謝りを入れることで、スネイプの機微に気づきを持ったのだと、知り、少女が持つ観察眼の鋭さは、舌を巻くものがある。スネイプは常々感じていたことを、改めて提示されて、眉を寄せた。グリフィンドール生に選ばれたにしては、周りから一歩下がり、見通して物事を進めるという、冷静さと落ち着きを持っていた。その上、スネイプが嫌う、喧しさも、少女からは派生することはない。だからか、入学の頃よりも、一層、少女に気を取られてしまうのは。女性というには幼子である、に、良からぬ思いであることは、スネイプ自身も薄々は気がついていたが、理性を暴走させるような年ではなかった為か、野放しにしていた。
「用件があるのならば、聞こう」
まっすぐ見つめる、少女の瞳に、スネイプは居た堪れず、逸らし気味になりながら、先を促した。自身にしては、珍しいことだ。火を見るより明らかな、贔屓目を、他所に、それもグリフィンドール生に向けて見せるような失態を犯したことはなかった。それを聞いたは、落ち着きはらった態度からは、思いがけない笑みを咲かせて、「ありがとうございます」と喜びを浮かべた。あまりの、純真な態度に、スネイプはまた、眩暈を覚える。敵意を浴びさせられることはあっても、好意を向けられることはなく、少女が、幼いならば、尚更のことで、年齢が稚拙であればあるほど、男の脅威に当てられるからだ。
「ここなんですけれど…」
はスネイプの威圧感をも物とはしないで、教科書を捲り、疑問点を小さな指がなぞる。
「この薬品に対して、鍋に三滴、教科書に記載されていても…入れすぎではないかと…思ったのですが…」
スネイプは眼を剥いて、自信の無さが言葉に伝染する少女を見た。
魔法薬をかじってから、半年くらいでは、いくら自分の知識から疑問が出たところで、全くの否定をするに値する、論を構築する能力はついていかない。教科書から、違いは多々あれど、魔法薬に関心を持たせるところからの一年間では、それに対し、厳しく追言するようなことはしない。あと二、三年ほどしたら、今までの間違いを、指摘し、優越感に浸ろうと、スネイプの狡猾さが思考を撫でていた。だというのに、少女はたった半年ほどで、見抜いた。
「あ、あの……スネイプ教授…?」
の不安定さを、男が沈黙を守ることで、益々危うくさせる。まっすぐ向かう、矢のような無垢さが、幾ら無防備であろうが、半年間で培ってきたスネイプに対する畏怖の念は、多少からず植え付けられたらしく、目尻に微かな自然現象を残した。漂わせていた視線から、少女の感情を受け取り、珍しくも取り繕うように、呟く。
「……その通りだ。これを三滴、入れた処で差異は極僅かだ。違いに気付く者はそう、いないだろう」
グリフィンドール生にしては、と余分に言葉を吐き出してしまいそうになり、スネイプは唇を噛んで、やり過ごす。はその言葉で、自信なさげな表情から一変して、顔を綻ばせた。褒められたことで、自身の疑問が正解であることへの喜びであるのに、こちらに向けて好意を注がれているような、心持ちになる。風通しの悪い地下室では、空気が振動することなどないが、少女の嬉々とした気持ちが、持ち前の赤毛を宙に遊ばせて、風が吹いたように感じた。癖のない髪の毛は、絡まるでもなく、綺麗に元の形へと戻り、日本特有の礼を目の当たりにした男は、眼を奪われる。
「実は、ずっと気になっていたんです…いつも教授は、忙しそうだから、勇気を出して良かった」
「………その勇敢さが、今後もうまく使えるよう」
「はい!……また、尋ねても…いいですか…?」
断れば、これ以上の発展も、複数あるであろう予知できぬ先を、閉ざすことは、今のスネイプには容易なことだ。それでも、何故か、少女に向かって告げることは出来ず、一度与えられた自信を再度、失う前に男は「ああ、」と短く呟く。美しい赤毛が重力に逆らって、舞うのを目の当たりにして、教室から去っていく後ろ姿を追う余裕を無くしたスネイプは、沈黙が心地いい普段通りの地下室に残される。初めて、少女を見たときからスネイプが感じた、焦燥感は、杞憂ではなかったことを知る。