海の底みたいなあなたの部屋で

投げ入れられた薬瓶が、化学反応を起こして、炎上する。それをすれば、大惨事になることは必至であるのに、投げ入れた本人は、平然とその場面を瞳に映していた。炭になる研究成果になんの情も湧かない。あれほど、血眼になりながら取り組んだ事柄は、自身にとって、ある一定のもの以上になりえないのだと知った時には、もう遅かった。黙々と、それだけに打ち込んできたというのに、無駄として終止符を打つことは、過ぎ去った年月の分、余計に重たくなる。炭に成る前に、ごうごうと火柱をあげる月日を、スネイプは見守る。早く、消えてしまえば、楽になれると云いたげに、憎々しげに見つめては、ふと、我に返る瞬間が、痛々しい。繊細さをうたう指先は、微かに震えを覚えたが、自身でさえも気付くような、大まかなものではなかったためか、置かれている環状線が、どの辺であるのか、スネイプは分からなかった。分からない、という未知数を経験するのは、酷く、懐かしいもので、一時のゆらめきに身を任せた愚かな自分が、引き出されて、益々気分は害される。

「セブルス」

自身をそう呼ぶのは、昔から片手で事足りほどで、成人後の今でも、その数は輪をかけて少ない。
思い出す数々の中で、一際、自身を眩しくさせたのは、少女の云う、自身の名だった。忌み嫌っていた存在や、翳りをさした自身の生い立ちでさえ、吹き飛ばしてくれる、彼女の音色はどの「セブルス」よりも格上で、特別だった。燃ゆる薬瓶の片隅で、それを証明する羊皮紙の山々が眼に映り、それらも今では、煩わしいものの、ひとつでしか無くなっていた。力の入らない身体を、持ち上げて、操り人形のごとく、ままならない身の不自由さもどうでもよく、腕いっぱいになる羊皮紙をかき抱いた。

今更、悟りを得たところで、空気のような、無色透明の存在となってしまったものを、腕に抱きとめることもできない。そもそもが、自身にはできもしないことではあるが、それでも、両手に閉じ込めておけたのならば、と思わずにはいられなかった。冷えた骸が、贖罪を責めるように、赤子の鳴き声が、それらを増長させる。記憶から、一回り美しさに磨きをかけた女性は、スネイプの腕から動き出すようなことはなく、特別な音色で男を呼ぶこともなかった。

「過去を悔やんだところで、お前に何が出来るというのだ」

彼女の身体と同じように、冷たさを刺す翁は、普段の温厚さからは到底想定しえないであろう顔をして、スネイプを見た。容赦のない、針を、スネイプはただ享受することでしか、自身を癒す手立てはなかった。そもそも、治癒を本人が望んでいたとも、考えられず、痛めつけるように自らの身を、差し出したと考えた方が適していた。懇願する男の苦痛を、半月眼鏡越しに見下ろし、優雅な佇まいとは別に、冷酷さを持ち合わせたダンブルドアは淡々と、諭すように、告げる。偉大と謳われる魔法使いでさえも、生と死を思うがままに出来ないように、ダンブルドアに寄ったところで、起きてしまったことは、変えられようがなかった。

沈みゆく理性の箍を外したスネイプは、神経質なペン先で書き入れた資料をも、容易に手放した。
薬品のおかげで、勢いを増した炎は、羊皮紙を喜んで受け入れて、塵芥にしようと蝕んで、名残が睫毛を揺らめかせる。荒れ果てた男の背後で、物云わぬ静物と化した女は、着々と片されていく年月を見ていた。こうなることを、初めから予感をしていたように、唇の出入り口は隙間なく閉じられたままだ。

「……お前は、知っていたのだろう………」
「………」

冷笑を含めた声色は、そこで初めて、女に問いかけた。無我夢中で、全てを葬り去っていたことから、勘ぐりをも遮断していたと思っていたのに、そこは男らしさを失くしておらず、呟く。有機物を燃やす、けたたましさに紛れて、男の憎悪が足されていくのが分かったは、何も紡がない。

「知っていて、何故我輩に云わなかった!」

普段、礼節さと矜持を掲げたスネイプに、怒気というものは滅多なことでは引き出されず、もし、あるとしても余程のことだった。は予想していたとしても、いざ、問い詰められるとはまた違い、空論が現実のものとなると、その迫力に胸が詰まる。燃やされた、男の全てが、喪失したものへの大きさを物語り、脆弱さを浮き彫りにさせた本心を、受け止められずにいた。

もし、それを告げたところで、闇の呪術にのめり込んでいた男の耳には、あの赤毛の女性以外の言葉など、止まることを知らない烈火に食われた有機物と、同等だっただろう。次々と底のない、憎しみが吐き出される様を、反論するでもなく、受け入れた。腕に刻まされた痛みを、共有できて、傷を舐め合うだけの存在で、それ以上になりうることはないと理解を得ていても、荒ぶる男から離れたくはなかった。それで、男が、スネイプが、生を手放さないでいてくれるのなら、なんでも良かった。彼が、生きていてくれるのならば。