すこしだけ強いあなたに
足先は決まって、薄暗い方へと向かうのを、苦笑いを浮かべながら、素直に応じる。日常化していた、男への通い妻がすっかり、板についていて、長い廊下を渡っていく。初めの頃は、ねっとりと嫌味を云い、大人らしからぬ性質で、失敗を弄る男が嫌いで仕方なかった。魔法薬学への関心は、もとより、それを受け持つ陰険な男に対しても、苦手意識がすっかり植えられて、学生時代の五年間を過ごした。それがどういうわけか、進んで地下室へと向かおうなんて、思うのだから、友人達が口々に告げる。「スネイプの呪い」だと。真綿で首を柔らかく、ゆっくりと命を奪うように、薬でも盛られたのだと、熱り立つ友人達を尻目に、苦笑いをするしかない。自分が勝手に、あの陰湿な蝙蝠に惚れ込んでしまっただけなのだから。
「教授、また食事を抜きましたね」
は呆れ気味に、呟く。研究室兼、自室となっているスネイプの机の上には、明らかにこもって作業をしていた様が容易に伺え、の言葉を聞きつけた男は、不機嫌さを眉間に表した。いつの間にか、減らず口を利くようになった生徒に対して、幾度となく罰則を与えて、追い出そうと試みたものだが、彼女の精神は不屈のボクサーのようだった。スネイプの記憶からして、当初の彼女が起こす態度というものは、決して好意的ではなく、大半の学生が占めているであろう、嫌いであった筈だ。それがどこをおかしくしたのか、足繁く研究室へとやってくるようになった、レイブンクロー生であるは、平然として、スネイプの向かえに立っていた。
「だから血色悪いんですよ。まるで吸血鬼みたいじゃないですか」
「…食事はとっている」
次第に妥協するということを覚えたスネイプは、愚鈍であるのか、恐れ知らずのの様子を見る。机の端には、食事と称されたものの残骸が丸められていて、手に取らなくても分かる、その手軽さに、今度はが眉を寄せた。
「携帯非常食でしょう。もう、食事は健全な生活の基本ですよ」
壮年の男を目の前に、一回りほど離れた少女が叱りつける光景は、異様で、スネイプは客観的に、自身の置かれた状況を思った。手のひらの下敷きになった、羊皮紙が続きを求めて、インク代わりに皮脂を奪っていく感覚と、青銅色のネクタイの振り子に、眩暈がする。羽ペンをインク瓶に突っ込み、頭を抱えると、レイブンクロー生はそれみたことか、と云わんばかりに声をあげた。
「ほら、やっぱり体調崩しているじゃないですか」
少女の余分な一言で、益々痛みの種になっていることを知らない。学生時代からの偏頭痛は、普段通りなので、少女が思うような身体の不調は、生憎起こしていない。スネイプとて、自身が若くない事実は、しかと理解を得ていて、たとえ身体が悲鳴をあげていたとしても、薬学教授である。ひとりで処理することくらいは、造作もない。小姑のように甲斐甲斐しく、言葉を放つ少女の、頭の中にあるであろう英知を、発揮してもらえるのならば、察しはつくようなもの。しかし、今のスネイプとしては、少女にその欠片さえ見出せない。
「そんなことだろうと思って、昼食持ってきました!」
弁解を怠るのが、男の悪い癖で、そうして少女は気付かないうちに、嘘にまみれたスネイプ像を形成していく。
どこから出したのか、の掲げた両手の先には、小ぶりのバスケットがある。スネイプなりの食事を終えたばかりだったため、の手にしたそれを、見るや否や羊皮紙に埋もれて消えたい心持ちで、自身が書いたであろうミミズ文字を見た。この少女がくる前に書いたと思われる、自身の指先から生み出されたであろうそれは、生みの親であっても解読は難しかった。
「教授、普段そんなに食べないから軽いものにしました」
「………」
「パイ系は吐き捨てられるだろうと思って、サンドイッチとトマトを」
は、スネイプの鋭い視線を物とはせずに、隣にあるサイドテーブルに食事を出した。トマトは軽く焼かれていて、チーズのような溶け具合で、サンドイッチに添えられ、食への関心を増幅させようとしていた。スネイプはもともとの少食からくる満腹感を底まで味わっていたからか、全く魅力的に映らない昼食を、横目で睨みつける。「あ、紅茶もありますよ」とは持ち出してきた、ティーポットをバスケットから取り出して、カップへ注いだ。薬草とカビ臭さで充満している部屋には、場違いな香りが混じり、それによって一気に研究室らしさが取り払われたようだった。
「はい、教授。どうぞ、召し上がってください」
一気に生活感の溢れた地下室で、不快感を露わに、スネイプはどう切り出そうかと、らしくない悩みを持った。にこにこと、愛想のいい顔で、男の体調を気遣っての行動を無下にできるほど、良心は錆びてはおらず、相手がだから、という詳らかな結論には至りたくはなかった。香りのいい湯気がたゆたい、スネイプの鼻腔を刺激し、そこから視線を背ける。
「……マスタードは、」
「あ、意外と辛党ですか?ちゃんと用意してありますよ」
は、小ぶりな割にはよく入るバスケットから、刺激的な色をした瓶を取り出して、スネイプへと渡した。余計な世話であることは、間違えようがなく、捲し立てて追い出すことも可能であるのに、少しばかり改心したスネイプは、しぶしぶながらも少女の好意に従う。サイドテーブルに並べられた軽食は、意外にも美味しそうに見えた。