はハートのトランプに手を伸ばした。捲るとクイーンの女王様の絵がを出迎た。それと共に、赤い色の煙が立ち込め、危機察知能力が警報を鳴らし、それを吸わないようにと息を止めてみたものの、ご丁寧に手にした者の気管へと誘う、なんとも陰険な男が考えそうな仕組みが繰り出された。魔法をかけた男は涼しい顔をして、ソファーに腰掛けて、手にしているティーカップは優越感で輝きを放っている。獅子寮の双子達と共犯で考えた、悪戯の数々を覚えているだけ思い浮かべながらは遠ざかる意識を必至で掴もうとした。


「……ん…」
「目が覚めたか」
「…きょ、じゅ…?」

目が覚めると、至近距離で教授が、やや心配そうに見下ろしている様子が伺えた。どうやら、あのまま決して綺麗とは云えない地下室の床に倒れ込んだようで、教授の背景には天井が落ちてきそうな染みを、たっぷりと貼り付けて見下ろしていた。教授は眉間に日々とあまり変わり映えのしない眉間のシワを寄せ、「なんともないか」と云う。自らの実験で、気持ちに変調をきたすのであれば、最初からこんな怪し気な薬をかわいい生徒に対して使うものではない。とじょじょに沸き上がる恨みつらみを思いつつ、身体を起こそうとした。そう、起こそうと、何度か試みるけれど、一向に視界に変化はなく、私を見下ろしている教授の表情も変化は見られない。

「………教授」
「なんだ」

なんだ、ではない。どうして私の身体はこの汚い、床から剥がれないのでしょう。更に云うならば、首も動かないし、もっと云うならば、教授の顔が波打って見える。目覚めてからやっとのこと、自分の身に起こっていることの重大さを、認知し、冷や汗が背を伝う気持ちでいても、冷たさが背骨をなぞる感覚はない。五体全ての機能が働くことを放棄したように、私という人間の身体は指先ひとつも動こうとはしない。あの赤い薬の所為であることは間違いようがないのだから、と教授を睨みつけたところで、私に対して恐怖心や、自身を叱咤するような後悔の念を持つ男とは到底思えなかった。一度感じてしまえば、男の眉間の縦じわは杞憂だったのかと、がっかりする。

「……私は、どうなっているんでしょうか」
「………」

黙りを決め込んだようで、一度薄く開かれた唇は、貝のようにぴったりと合わさってしまう様子をみると、ただ事ではないということが分かる。教授はどんなに自身が不利な立場に立たされようが、その豊富な知識の泉から米粒を見つけ出して来るような男だから、口も利けないということは、私自身がとんでもない立場になってしまったのだと証明しているようなものだった。獅子寮の双子達と暇さえあれば悪戯に勤しんでいたものだから、曲がりが顕著になってしまった唇が悪態をついた。

「………けだ」
「…はい?」
「……ま…り……けだ」

一度頑なに閉ざした唇は、言葉を吐き出す行為を苦行と見なして、なかなか声として伝わってこない。何を云いたいのかさっぱりな私は、身体は動かないわ、一度意識しだすと視界の波が気になってしまって、いつもの攻撃的な自分は半分くらい引っ込んでしまっている。いつも何処からそんな皮肉や嫌みが出て来るのかと問いたいくらいの、薄い唇は、モゴモゴと言葉を口内でかき回して、口ごもっていた。

魔法薬の成果がよほど悪かったのか、それとも良すぎたのか、どちらにせよ、自分の身体が無傷ではないことは確かだ。これが終わったら絶対双子達と地下室へ奇襲作戦を企ててやろうと、心の隅で誓う。ぐにゃり、と大きく教授が歪み、元々の難しそうな表情が一層引き立てられた。教授は意を決したようで、私を起こすかのような動作をするけれど、感覚というものは面白いくらいに(状況はちっとも面白くない)全くなかった。益々大きくなる波間に教授を見つけ、悲鳴を上げると「煩い」と一喝される。教授は持ち上げた、私を傾ける動作をしてみせる、と私は自分では動けないため、素直に傾いていく。理解がついていかない頭を知っているからか、実践で状況を分からせようとする教授の難しそうな顔がいびつになるのを、笑おうとして、表情筋も機能していないことを知る。それなのに言葉はきちんと発せられるなんて、奇妙ではある。

「………ホルマリン漬けだ」
「…………は…い…?」

理解へと向かう思考を邪魔するのが、莫迦という壁であって、教授は頭痛がするほど莫迦に対する出来事を経験済みなので、やはり、と目を瞑った。いやいや、私だってホルマリン漬けくらいは知っていますよ。厭という程、罰則という名の掃除と、鍋洗いをしに、この薄暗い地下室へ足繁く通っていたわけですから。それらに見下ろされながら、自暴自棄になった調合をした生徒が焦がした鍋を、マグル式で延々と洗っていたのだから、厭というほど見ている。だからと云って今、この状況でホルマリン漬けに何の意味があるのでしょう、莫迦を直す特効薬にでもなるなら、早く下さい。

「…、お前は、今、ホルマリン漬けだ」

絶句という言葉が存在しているのは、知っていたけれど、本当にそんなことがあるのかと莫迦にしていた頃に戻れたのなら戻りたい。今まさに、その絶句というものが私に襲いかかり、口が武器だったというのに、呆気なく奪われてしまった。いくら、莫迦でも、ここまで云われたら、自分のおかれている状況くらい分かっています。というかホルマリン漬けってあれでしょう、鍋洗いを命じられた時に、視界の端っこでちらちらと私を睨みつけている、何かの臓物やら、目玉やら、変な生き物やらが緑色の液体に使っていて、気味が悪いと思っていたやつ。あれのどれかになっているから、自分の身体(最早身体とは云えない)は動かないのか、と目が回りそうな私に、まだ莫迦に理解させようとして、瓶を揺らしにかかる教授に殺意を微かに覚える。

「まさか、な。成功するとは思わなかった」
「そんな成功するかしないか、分からない危険物質を可愛い生徒に使用するなんて非道な」
「だから、まさか貴様が河童の目玉に魂が入るとは思わなかった」
「…かっ……かっぱ!」

生息が日本だから、同族同士気があったのだろう、などと悠長なことを吐き出す男に蹴りを一発お見舞いしたくて、仕方ないのに、今自分は河童の目玉になっているらしく、それは叶わない。花も恥じらう、15歳の乙女が、あろうことに河童の目玉になっているなんて、考えたくもないし、なりたくもないけれども、実験が成功したことで、やや嬉しそうに口を持ち上げている男が云うのだから間違いはないだろう。一度口を開いたら、心持ち軽くなったらしく、平然と状況や、症状を分析しようと目玉に訪ねて来る男をどうにかしてください。そしてさっきから微かに見える、汚い床に転がっている私の身体を、せめてそこのソファーに寝かすくらいの配慮はして下さい、教授。

この後、一時間程度で元に戻り、教授は無事彼女を先頭にした双子組に奇襲をかけられるのでした。