はクローバーのトランプに恐る恐る手を伸ばした。捲ると、ジャックの若者が顔を出し、聡明さをマークに向けていた。何も起きず、安心に身を任せたのを待ち望んでいたかのように、そこからは緑色の、怪しげな煙が吹き出した。油断した、と悔やんでも後の祭りで、たっぷりと吸い込んでしまった、いかにも警戒色を示す煙に誘われて、は目を閉じた。


全身の筋肉筋という筋を、網羅したかのように、軋む身体に違和感を感じながら、はそっと瞼を持ち上げる。今やすっかり見慣れた、天井には顔のような染みがあり、はじめのうちは恐怖心を駆り立てられたものだ。けれども、それもパレイドリアだと思えば、ただの染みだと安堵出来る(恨みのひとつやふたつ以上買っていそうな、薬学教授の部屋だから、錯覚ではなく、呪いの一種かもしれないが)身を捩ると、全身を預けていたベッドのスプリングが喧しい音を立てて、重さを批難しているようだった。あれほど、古びているから、変えてと懇願したにも関わらず、あの陰険教師は可愛い生徒の、可愛いお願いのひとつも聞く耳を持つつもりはないらしい。

(覚えていなさいよ、あの色欲魔!)

ベッドに叱られたこともあってか、相乗効果で、怒りは普段以上の実力を発揮する。それにしても、身体が重たい。人には云えないが、もともとから軽くはない自分の重量感を自負していても、この重みは異常だと思いながらは、軋む身体を無理やりに起こした。

(いくらなんでも、重たい……風邪ひいたっていう感じでもないし…)

拭いきれない違和感と格闘しながら、ベットを椅子代わりにして、考えにふけようとしたのに。普段からもっと注意力を持て、と云われていただけあって、何故気がつかなかったのか、自身でも驚いた。床へと伸ばした足は、短さを嘆いていた自分の物よりもずっと長くて、細かったからだ。伸びる肢体を覆う服は黒く、誰のもの、と頭を痛めずともこれは直ぐにわかった。

「……いっ……いぎゃあああ!」

上がった悲鳴が、想像通りの男のものであることは、混乱した頭には到底理解し難く、けれども事実であることは、身に降りかかっている不幸が物語っていた。陰険教師から発せられるものとは思えない、感嘆に自分で吐き出しておきながらも、後悔した。

「喧しい。いくら地下だからと云え、上に響かないわけではない」

混乱の中にいる、少女(見た目はいかつい男)に対して、遠慮なく寝室の扉を開けた、高圧的な言葉は聞き慣れた男のものなのに、違和感で溢れていた。理由は問わずとも、わかる。自分がこの状況であるならば、本体が、何処に行ってしまったのか選択肢はいくつかあるが、些か機嫌悪そうに部屋に飛び込んできた少女の姿を、みれば何が起こったのかは一目瞭然だった。

「き、き、きょ、教授……!これは一体……!」
「我輩の姿で、情けない言動は控えてもらいたいのだが」

男は平然とした顔で、腕を組み、壁に身体を預けて、普段通りを装うけれども、見た目がのものであるから、迫力にかける。それを言うならば、男も少女の姿で、我輩、などと云わないで欲しいと、顔を顰めると顔面の筋肉筋は素直で、おきまりのコースを辿るだけで容易に険しさを表した。

「まさか、貴様と入れ替わってしまうとは…想定外だった」
「それ以外は想定内だったんですか……!?」
「左様」
「………」

少女の姿をした男は、悪びれるそぶりも、反省の色も全く表さないままに、足まで組みだして、呟いた。「足が短い」と、この男の聴覚は元の身体よりも、聡いらしく、聴き漏らすことはなかった。元の身体ならば、都合の悪いところは聞落とす癖をつけているから、この悪態は取り零していた。人が気にしていることを平然と云ってのける男に対して、普段の恨みつらみがふつふつと湧き上がるのだけれど、相手は何せ、自分の身を纏っているのだから、下手なことは出来ない。逆に相手も、同じ状況下であるのに、偉そうなのはやはり、教授と云ったところか。は、殴りたい衝動を抑えると、唇の端が勝手に痙攣した。

「……で、どうやったら元に戻るんです」
「………」
「教授?」

ふてぶてしさで染まった、自分に対して怒りを向けるのも、変な感覚だが、中身は紛れもなく陰湿な男のもので、歪められる唇を見ると、実感する。短いと称した足は、組むと疲労を増進させるのか、標準的な立ち位置へ戻っていた。不便でならないのだろうなあ、と他人事のように思えてきて、そうすると引っ張られるようにこの身体でいることも悪くはなさそうだ、と思えてくる。けれども、普段酷使しているのか、全身を襲う軋みには、耐えられそうにもない。

「幸い、午後の授業もない。明日は日曜であろう」

珍しく放課後に呼び止めたかと、思えば、こういうことか。もし失敗しても、明日いっぱいまで猶予があるから、この薬学教授の手にかかれば、その時間内で解決策を講じることは容易いという。いつもならば、流石、教授、何処までもついていきます!精神で投げ飛ばされようが、罵声を浴びせられようが、へらへらと莫迦丸出しで引っ付いていたが、こればかりは笑えない。

「この短小な指では上手く調合は出来ん、、我輩に変わって薬を作れ」
「はいい?」
「中身が無能だと、」
「聞こえていますが!」

男は、幼い顔立ちに似合わない、癖である、眉間にシワを寄せる。「跡になるから止めてください!」と叫ぶ少女の野太い悲鳴を、男が甲高くも、冷静な声色で静止を掛ける。互いに当てはまらない、人格を持ってしまった為、奇妙な光景が広がり行くのに、第三者というものが居ないおかげで気付くことはない。の外見を持ったスネイプは、しぶしぶ云うことを聞いて、シワを伸ばそうと努力をしてみるけれど、慣れた感覚が先立ってしまい、自分の顔ながらに不細工だ、とは悲壮感を漂わせながら、見つめた。

翌日には無事に互いの身体に戻るも、それまでの一悶着が、地下室への道から遠ざかるのでした。