はダイヤのトランプに手を伸ばした。捲るとそこには、ジョーカーが意味ありげな笑いをたたえつつ、紳士的な動作を形取っていた。そのあまりの不気味さに、数歩後ろへ下がるが、背中にはいつの間にか距離をつめた、このおかしな実験を企てた男が壁を成し、逃亡を阻まれた。ああ、観念するしかないのかと、力の限り眼を瞑った。


「………あれ…?」

背後に立ちはだかる男の、体温を身に感じつつ、目の前の何かしらの弊害が出るであろう場所からは、煙幕どころか、物音一つさえしない。覚悟を決めて、身体を差し出したのに、これでは拍子抜けもいいとこだ、と固くなに閉じた眼の力を、ゆっくりと抜いた。指の先には、捲ったトランプがあって、しかと私を嘲笑いしている姿は、さっきとの違いは見当たらない。調合をした張本人も、変調のない薬に疑問を持ったのか、壁を装っていた教授は首を前に突き出した。

「何も起こらないですね」
「………」
「もしかして、教授にしては珍しく…しっぱ……ごっ…!」

指摘しかけた口を、無遠慮に油気の全くない、指先が閉ざしにかかり、その拍子に口内の肉に噛み付いてしまい、二重被害を被る。鉄の味が広がり、じわりと地味な不快感が神経を撫でる。薬にかかるよりも、酷い目にあった、と上目で睨み付ければ、肩上でトランプを睨みつけている男は、涙に滲ませた視線など物とはしていなかった。この仕返しはいつかしてやろう、と心に固く誓いながら、大きな手が塞ぐ、自分の口を助けようと手をかけた。

「………(ちょ、教授…!)」
「………」

手の内のささくれだった皮膚の感覚は、どんなに好きな相手からのものであっても、愉快にはならず、不快がつきまとう。それを無頓着な男にいった処で、改善の余地はなく、何度となく喚起したというのに、と腕を遠ざけようとしても一向に教授の力が緩められることはない。首を突き出したまま、トランプを凝視している姿からも、変動はなく、少しおかしい。

「………(もしかして、教授……)」

厭な予感がしないでもない。どんな沈黙でさえも、眼光で口に縫い針を刺してしまえる男が、態々物理的行動に出ることからおかしかった。トランプが引かれてから、一度として口を開かないのも、いくら沈黙が最上級の感情を露呈させるに都合がよくても、この場でだんまりを決め込むのは、教授らしくない。棘のような皮膚と擦れるのも、厭わずに、もごもごと口を動かし、右斜め上の男に、意思表示してみるも依然その格好を崩すことはしない。読心術が使えるのだから、無駄な行為であるのに、そのことはすっかり頭から抜け落ちていた。

「………(調合した本人がかかるなんて洒落にもならない……!戻ってきてえー!)」
「………っ……」

痩躯で、嫉妬心が湧き上がりそうな腰の細さを持つ男でも、力はそれなりで、全身の力を持ってしてでも退かすことは容易ではなくて、石のように固まってしまった教授は、少しの息を吐き出した。「(教授、生きてる!良かった!)」まさか銅像の呪いにでもかかったのかと、冷や汗ものだったけれども、見当違いで良かったと胸をなでおろした。込められている、力加減は、変わらず石のようではあるけれど。

「………
「………(良かった…教授、手を退けてください。余分な事は云いませんから!)」

言葉を発した教授は、背後霊のように、相変わらず右肩上で頭を固定させて、ジョーカーに対し睨みを利かせていた闇色の瞳が、緩やかに移動する。本能的に、これは、何かおかしい、絶対に。と再度警報機を鳴らすも、顔半分は男の手のひらの中だし、今気がついたけれど、腰には厭らしく、蛇のようなしなやかさを纏った腕が絡みついていた。

「………(教授!ちょ、なっ……何してるんですかっ!)」

まるでホラー映画のように、鋭い眼光が、恐怖心を煽り立てるために、速度を落としてやってくる。考えないようにしていたけれど、ジョーカーの効果は私にではなくて、教授へと行ったようだ。作り手が自らの力に溺れてしまうほど、愚かしい事はない。と普段なら莫迦にするところだけれど、命を差し出しているような、この状況下では、笑いのひとつも零れ落ちない。どんな効果をもたらしているのか、分かりかねてはいるものの、回された腕や、向きかけている眼の棘は、決して、いい結果を自分に及ぼしてはくれないことは分かる。

「…………見慣れ過ぎていて、気がつかなかったが」

ブラックホールのような、底知れない深さと眼が合い、捕らえられた、と抵抗力が自然と弱まっていく。経験の乏しくても分かる、教授がかかってしまった、魔法薬の効果は、多分、いかがわしいものだ。視線の絡みつき方が日常の、それとは少しも一致しないし、認知すると急速に進められる、教授の両腕の動きに身体が強張った。

「…(確かにこういう展開は望んでいなかったと云えば嘘になるけれど、でも、教授!ここじゃ厭ですー!薬物に染まった教授は教授じゃないいい!」

口元を覆っていた手のひらは、するりと慣れた手つきで、顎へと滑り落ち、思い通りに操作しようと、そこへ指を固定した。腰に回していた腕は、不実さを身につけて、欲のままに服へと侵入しようと、最近肉つきが気になって仕方ない、私のお腹を無遠慮に撫でている。蛇に睨まれた蛙状態の、この雰囲気に飲まれまいと睨み上げるけれど、教授の瞳は、普段の規律正しさを破壊した、男の欲に染まりかかっていた。

、我輩は……」

もしかして、告白されるんですか、きゃあ、と女らしさ全開の思考が、恐怖心よりも先んじて出てきたら、このどうしようもない状況が、情熱的な演出に思えて、既成事実を作ってしまうのも悪くはないのではないかと、引っ込んでいた悪知恵が頭を出す。そうすれば、この五年間にわたる恋慕を成就することができる。些か、罪悪感が湧かないわけでもないけれど、そもそもが身から出た錆なのだから、私が感じるものでもない。そうだ、さあ、教授、いつでも私は準備万端です!と否定的だった態度を改めて、上げられた顎を滑る、指先の居心地の悪さに眼を瞑って、解放された唇を進んで突き出して、教授を待った。

教授は、積極的になった私を見て、一瞬我に返ったようで、伸ばされた眉間のシワがキツく寄る。けれども、流石は魔法薬学界のプリンスと呼ばれた男。すっかり薬の力に落ちてしまい、色欲を呼び覚ました。「、」滅多に呼ばれない名前で呼ばれて、胸がきゅんと、する。近づいてくる油気のない、指先と似たような唇も気にならないくらいに、教授の眼は情緒的だった。

「……吐く」
「……は、い…?」

そこからの教授と私の惨状は、言葉にし難いものになり、ある意味では教授の罪悪感を煽る材料にはなったけれど、結果があれなだけに嬉しくない。その日の事を要約して説明すると、教授の吐瀉物は、前面の制服を見事なまでに汚染して、食の細さからは到底理解できない滝に、いくら恋慕を抱いている相手でも、限界があることを経験させてもらいました。ある意味では初体験である、忘れようがない、光景に、そのまま卒倒した教授の重みに耐えきれず、二人仲良く落ちたくない海へ沈み込んだのは、もう忘れます。

けれど、しばらくの間、教授は何でも云うことを聞いてくれたので、結果オーライということで。