押そうか押さまいか迷いに迷った挙句それはソファーに落ち、結局の処止めた。
莫迦莫迦しいと何処からか聞えてきた彼の声に落ち込む自身はどうかしているのだろうか、と自嘲気味に笑えばパズルのピースさながらに彼に当てはまり脳裏には彼一色となるのだから世話が無い。ソファーに沈み込み落とした子機を拾おうと迷う、そうする事で彼が此方の考えを知る訳などないと理解しつつも取るという行為は彼へ白旗を振る行いのような気がして取れないで居た。だけれどいつまで経っても彼の方から此方へと何かしらのアクションを起こす筈がないと分かっているので結局は負けている、最初から分かっている事だった。仕方ないと自身に云い訳をしながら子機を手に取り機械音が一々鳴るボタンを一つ一つ噛み締めるように押していく。全て押し終わると少しの間、相手方へと繋がっている証拠の音が聞え始める。何だ、簡単な事じゃあないかと高鳴った胸を撫で下ろしかけたそれを知っているかのようにぷつりと音がし、受話器の向こう側でも変わらない暗くありそれでいて息を吸うのを忘れてしまいそうな程低い声が響いた。その為撫で下ろしかけた胸は喜ぶかのように跳ね上がった、本心はそうではなかったのだけれども。

「も、もしもし」
『何だ』
「なんだって、電話かけてきた相手に開口一番それはないでしょ」
『電話をかけろと強要した覚えはない』
「冷たい人ね」

電話の向こうで彼の鉤鼻が笑う音がし、莫迦にされたのだと分かる。嗚呼何て人だ、こんな事ならばかけるんじゃあなかったと眉間に皺を寄せている間の沈黙を先に破ったのはあろう事か彼の方だった。いつもならば用が無いなら切ると云って返事も待たずに切る癖に。用は、と丁寧に聞いてくるなんて彼らしくなく、セブルススネイプの偽者だろうかと考えてしまうがそれを悟っているらしい電話の向こう側の彼はまた一度鼻で笑う。

「別に、用なんてないけれど…珍しいね」
『そんな事だろうとは思っていたが、尋ねてやった感謝しろ』
「非道い」
『忙しい中、時間を割いて貴様の暇潰しに付き合ってやっているんだ。当たり前だ』

暇つぶしじゃあないわ、と反論しようと口を開きかけるも実際音になって向こうへと聞えたのは息遣いだけだった。彼の眉間に皺が寄るのが分かる、これも長年一緒に居た所為かもしれない。彼からしてみれば腐り落ちてそのまま無くなってしまえば善いと思っているであろう長い縁。けれど私からしてみればとても大切な彼と繋ぐ唯一の縁である、彼がそれに気が付いているかは定かではないけれども。(彼は自身の事になると酷く疎くなるのだから)

『…今は家か』
「そうだよ。せ…スネイプはホグワーツ、?」

セブルスと云いかけて電話の向こうの彼が反応した気がした。随分昔の事だけれども身体に染み付いているのかつい彼の事をファーストネームで呼びそうになる。慌てて云い替える事が出来て善かった。彼が呆れたような息を吐き出すのが回線を通して此方に響く。

『、校内ではマグル機器は使えぬだろう。呆れてものが云えん』
「そうだっけ。それじゃあ家?」
『ああ』

スピナーズエンドは日本よりも寒いの、と聞こうと思ったのだけれどさっきから唇からは息だけが洩れて相手へと飛んでいくだけだ。いつもならば無遠慮に何でも聞いたりする事が出来るのに今日は彼と同じで何処か可笑しい日。そして少し肌恋しい。

「独り淋しくない?」
『何故独りだと思う』
「だって友達居なさそうだもの、私以外」
『…切るぞ』
「あー!待って、ごめんってば!」

本気で切られそうになり慌てて謝るが暫しは物音を立てるだけで向こう側からは何も声がしなかった。何処かでぷつりと、電話が繋がった時のように切られるのではないかと冷や冷やしながら沈黙から抜け出すのを待っていると諦めたかのように息遣いが響いていた。それが独りだと肯定したということに彼は気付いていないのだろうかと、些か安心してしまった胸を不思議な面持ちで感じていた。否、本当は知っているのだけれどそれを認めてしまったら日本から彼の元へと姿現しして行ってしまいそうだからいつまでも認める事を赦していないだけだった。部屋に誰も居ないだろうけれども誰かと、そう例えば愛情も何もない異性と共にしていたって可笑しくない、今日はそれが赦される日だと思っていた私にしてみれば彼の反応はとてつもなく嬉しい事だった。

『…そっちはどうだ』
「別に何もないよ、毎日が平凡過ぎて自分が魔女だって忘れる時があるくらい」
『そうか』
「、うん」

本当に毎日が平凡で何も無くてふとした時にホグワーツでの出来事が嘘のように感じてしまう時があり、それを思う度に彼の顔が浮かんで嘘ではないのだと確信できる。本来ならばイギリスで、ホグワーツで彼と共にありたいと思っていた私にしてみれば彼の所為でこういう風になってしまったと責めたいような、感謝したいような複雑な心持だった。

「本当に、平凡過ぎて、淋しいくらい」
『非凡であればある程危険が増すという事を考えぬのか』
「…私は、」

それでも貴方の傍に居たかったと云えば彼はどう返答するのだろうと少し考えて結局の処云えなかった。突き放されたあの時は彼が私の事を忌むべき存在となったのかと哀しみと怒りが込み上げ彼を好き勝手に罵ったものだが、離れて年月が流れるにつれて分かり難い彼なりの守りなのだと知った時の後悔と云ったら無かった。長く共にしてきた癖にそれに気付かずに居たなんてと自身の考えの浅はかさを何度呪った事か、そう後悔してももう彼の元へは行けないのだと知っているから今も日本で平凡な日々を過ごし偶に思い出したかのように彼へと電話をかけるのだった。

壁に掛かった時計がかちりと短針と長針が合わさる音を鳴らし、電話を耳に当てながら見上げた私は静かに唇を開く。云いたい言葉は空気だけではなく言葉にして相手に伝える。

「お誕生日おめでとう、セブルス」
『……、ああ』
「今日はありがとう。暇潰しに付き合ってくれて」
『今後からは、』
「次はもう無いよ」

この機会を逃したらきっと彼の元へと行ってしまう。
それが厭だから、と云うのは恰好付け過ぎだと自分で笑う。また静かになる受話器の向こう側からは酷く落ち着いた声が響く。もう少し動揺しても善いのにと泣きそうになるがそれは通話終了ボタンを押すまで我慢する事にした。

『…そうか』
「うん」
『……』
「さようなら」

何か云いかけた彼の低くて胸を焦がす声は途切れて残ったのはぴっと云った機械音。痛みが一気に押し寄せその波は身体を飲み込む程の大きさ。世界に独り残されたような気持ちで溢れかえった涙はそのままソファーに染み込み、何事も無かったかのようにそこにある。姿が見られなくなってから五年はとても長い。好きで仕方なかった彼はこの先見る事が出来ない、否出来るだろうけれども自分がそうしないだけだ。それならば切ってしまえばいい、大切な糸をと切り捨てた途端これだから女と云うのは理解出来ない。ぼろぼろと零れる涙の数だけ不細工になっていく顔と分かっていても止められず何度も彼の名前を呼んだ、そうしなければいけないような気がして。がたん、と背後で椅子が倒れた音が耳に届く。家に居る猫の仕業だと思い込んで振り向きもしなかったがそれは猫ではなく、猫にしてはとても大きなものだった。

「勝手に切るな、といつも云っていたのは何処の誰だったか」
「…っせ、」
「弱者の癖に強がるとは、自身を過信し過ぎではないかね」
「何で此処…っ!」

唇が唇で塞がれ、言葉を紡ごうにも悉く彼の舌で掬い取られ言葉は発せられないまま熱さだけが身体を高揚させていく。どんなに胸板を叩こうがいつの間にか背後から正面に回った彼を退ける事は出来ずそのまま唇を受け入れる事しか出来なかった。視界一杯に広がる数年ぶりに見た彼の顔は涙で歪んで何処が老けたかなんて分からない、が昔には無かった独特の薬品の香りに鼻がつんとした。セブルス、と口内で呟けば口付けが些か乱暴なものになりこのままだと窒息死も過言ではないと思いながら彼の背中に腕を回した。久しぶりに感じた彼の身体は痩躯な癖に私の両腕では背後まで廻りきらない、嗚呼私も彼も成長しているのだと感じた瞬間。

プッシュボタンの溝

2011/01/09|Happy Birthday!