太公望さん、と己の名を呼ばれた気がして振り返って見ればそこには侍女であるが雑巾と水を入れる入れ物を手に笑って見せた。彼女の顔を見るようになってから暦が一月過ぎていた。当初の時のような頬を赤らめる事が少なくなってしまった侍女に少し残念だと洩らす度彼女は一月前の自分の失態を思い出し朱くする。それが太公望の作戦とも知らずにいつも引っかかってしまう彼女はいつまで経っても太公望を飽きさせなかった。入れ物の中の水がぴちぴちという可愛いらしい音を立てながらは太公望の前までやってくる。その動作の早さに太公望はうっかり巻物を落としそうになった。

「忙しそうですね」
「うむ、未処理の書類が溜まっておったからのう」

太公望は笑って云うがその量は半端なものではないだろう、とは積まれている巻物の量を見やる。その巻物は全て太公望の腕の中に収まっており、とても笑って云えるものではない。確かに彼がサボらずにやっていれば多少なりその量は少なかったであろうがそれでもいずれ処理するのは彼なのだからあまり変りはないとそれを想像しては顔をしかめた。それの意味を取り違えた太公望は瞼を半分下ろす。

「おぬし、わしがまたサボりを働いておると思ったであろう」

太公望は冗談交じりな声でに云うと彼女は慌てて否定しようとしてバケツを勢い良く揺らした所為で少しだけ床に水が落ちたことにも気付かない。

「そ、そそんなこと!」
「……嘘が下手なようだの」
「違います!」

少しばかり大きく響いたの声に太公望は目を丸くした。それに気がついたは近くに寄らないとわからない程だが薄く頬を朱に染めた。

「あ、いえ…ただ、大変そうだと思っただけ、なので」

本当なんです、と語尾になるにつれて小さくなっていく声に太公望は頭を傾げる。少しだけからかってやろうという気持ちで云った言葉をこうも本気で返されては反応に困る。太公望の周りに居る者達は皆、太公望の揶揄等に慣れている為ああいう問いは大概無視されるか呆れられるかのどちらかなのだ。隠しているつもりだろうが、彼は全て解っていた。目の前で恥ずかしそうに頬を染める侍女に太公望は気まずさよりも別な感情を持て余している事を悟られないように侍女から逸らした。

「……」
「……」

きゅうと胸は縮み、どうしたらこの恥ずかしい状況を打破できるのか、彼女は考えたがあまり普段使わない脳を活用する事は彼女にとって一人で一日城を掃除して回るよりも困難な事だった。太公望は逸らした顔をにやりと笑い顔変えの方を向く。対象的には頬の朱みを残したまま、太公望と視線を交わした途端、彼女の表情は硬くなった。そう、こんな表情をしている時の彼は何か企んでいる時だとは知っていた。それを知ることが出来たのは幸か不幸か太公望が何かしらやらかした時に彼女がいた、と云うことを例に上げられる。先程までの気持ちは何処へやら、の胸の締め付けは綺麗さっぱりなくなっていた。

「のう、」
「厭、です」
「まだ何も云っておらん」

口を尖らせながらも顔の筋肉がかたどっているものは相変わらず緩い。は先程とは打って変わってにこりと太公望に向けて笑った。太公望はその笑顔に笑顔で返す。

「巻物を武王様に持って行くんですよね、私が」
「大正解ぴんぽんぽん、御礼にこれをやる」

と、云いが拒否する前に太公望は瞬時にして彼女から掃除道具を奪い取りその代わりに今の今まで彼の手中にあった巻物が彼女の手の中に全て移った。驚いて、反応出来ずに居る侍女に太公望は高らかに笑い声をあげながら掃除道具を持って疾風の如く消えたのに気がついたのはそんな太公望の背中が消えた後だった。侍女の怒気の篭った声で太公望の名を呼ぶ声が静かな廊下に響くだけで意味は成さなかった。


「ということで武王様、太公望様からです」

武王の机にその大量の巻物を置くと彼の笑顔は彼女が入室して数秒で凍りついた。この量の巻物は、と頬が痙攣しながら聞く武王に対しは全てお読みになるようにと、と云う言葉を聞いたところで彼は逃亡を計ろうと勢い良く椅子を蹴ったが直ぐに周公旦が扉を開け武王を取り押さえた。

「俺はもう死ぬ、天使になってやる!」
「小兄さま、落ち着いて下さい…、もう下がっても結構ですよ」
「あ、はい」

暴れる武王とそれを必死で取り押さえる周公旦が気になってはいたが、侍女であるには口出しする権利などはない。扉を閉めても尚その向こう側で飛び交っている言葉達の端々が聴こえてきて、そくささとその場を立ち去った。