たまに、思う時があった。自分が仙人骨を持っていたら、若しくは彼が人だったらとほんのふとした時に感じた事があった。だけれどそれは己の欲を満たす為だけの考えであり、もし自分が彼と同じ道士であったとしても、彼が人だったとしてもこんな感情を抱いていたのかと問われたら答えることは出来なかった。は薄い布団の中で身を縮め、目を瞑った。
窓から差し込んだ眩い光によって目が覚める。もぞもぞと何度か身動きした後布団から出て身支度をした。侍女専用部屋は一人一人ちゃんと設けられてはいるがとても狭い部屋で布団とものを少し置いたら足場がなくなる程だった。それでもちゃんとした生活が保障されるのだから親がいない侍女にとって有難いものだ。細い廊下を抜け厨房へと入ると数人が既に忙しなく朝食の準備にとりかかっていた。はその人たちの間を抜け広い廊下に出た。その両手には昨日太公望によって奪われた掃除道具がしかと握られておりあの後彼はちゃんと元の場所へと戻しておいてくれていたらしい。しかも彼女がしなくてはいけない場所の掃除もきちんと終わらせていたこと、昨日武王の部屋に行った後にはもうそこは綺麗になっていた。
「太公望、さん」
不意にきゅうと胸が縮んで一人廊下で変な笑みを浮かべては頬が引きつりかけた。何をやっているんだいと声をかけられてはっとすれば指導係である女中に睨みつけられていた、慌てて謝り手に持っていた箒で床を撫で始めた。
ああまただ、と思いあぐねていた。昨夜も、今日も何か自分はおかしいのだと思って自分自身を笑ってしまいそうになるような考えばかりがぽんぽんと浮かんでくる、どうしたものかとはシワだらけの服を更に強く握り締めてしまっていた。雀が竿にとまり可愛らしい鳴き声を思いに耽っている彼女に向けて放っているかのようだ。
はそれに気がつき、目線を上げた瞬間雀は空に羽ばたいていった、まるで彼女にちゃんとしなさいと云われたような気がして微かに笑みを浮かべると自分の手中の洗濯物が見るも無残な姿となっていたことを知り慌てて左右いっぺんに伸ばした。
「あ、さん!」
武吉は干されている服の間からひょっこりと顔を出した。少し驚いたそぶりを見せたにおどかしてしまってすみませんと武吉は呟き、はにこりと笑った。
「どうかしましたか、武吉君?」
「それがですね、お師匠が忽然と姿を消してしまったんですが、さん知りませんか」
「今日はまだ見ていないわ」
「そうですか、お仕事頑張って下さいね!」
「はい」
武吉は天然道士らしくとても走るのが速い。現にが返事を返す頃にはもう彼は忽然と姿を消していた。一人で空気を揺らして笑うと少し元気が出たようでは先ほどよりも穏やかな表情を浮かべていた。彼女は再度洗濯物籠から服を引き上げ竿にかける。ゆらり、と服が風に乗っていきそうになるのを留め道具でそれを遮るその作業が終わった頃には太陽の光は斜め上にまで持ち上がっていた。
「…?」
籠を持ち上げようと腰を下ろした。服を籠に入れた時には気がつかなかったが、籠の底には紙切れが二つに折られていてそれを手に取ると洗濯物が吸っていた水分でふにゃりと湿っていた。ぺらりと捲れる紙の中は少し滲みがかかっていて読みにくく、けれど丁寧な字で一言だけ書かれていた。はそれを折りたたみ直し衣嚢(いのう)にしまいながら溜息を落とすのだった。
夜部屋に戻るとその紙の存在感が一層高まってついつい手を伸ばしそうになるが衣嚢を何度か掌で叩くだけにした。今日は太公望のたの字も云えずに一日が終わってしまい心がそれによって沈んでいくのを感じ、ああこれでは駄目だと思い直し頬で景気つけをする。軍師の身である太公望に毎日顔を会わせられるなんて期待は端からしていなかった筈だと云うのにどこかでそれを期待していた自分がいたことに気付かされ恥ずかしくなる。身体全体が覆うことが出来る程の大きさの布で身体を巻きつけて寝転がると手を少し伸ばせば届く距離にあるそれは少しでも触れれば中からかさりと音を立てて存在を主張する。その紙切れにどうしようもなく苦しくなった。
「太公望、さん」
私はどうしたらいいのですか、と頭まで布を潜り込ませて苦しさで泣きそうになる心をぐっと堪えた。腫れた目で仕事に出るわけにはいかないのだ。それにもし太公望に会った時にどうしたのかと問い詰められでもしたら、と云うところで考えるのを止めた。もしそうだったとしても彼が自分へと心配をするのは特別な感情から来るものではないことを知っているからだ。恋心と云うものはつくづく厄介なもので些細なことにでも敏感に反応してしまい悲しくなってしまうのだから、期待なんて端からしていない恋なのだ、それ以上考えに及ぶと太公望の優しさが恨めしく思いはじめてしまう自分が厭になる前には眠りについた。