「おはようございます、太公望さん」

にこりと完璧な笑みを顔に張り付けて鏡の前に立った。それが鏡だと解っているのに太公望と口に紡いだだけで鏡の向こうの自分の顔は酷く歪んだ。

ただでさえ酷いのに、と頬を叩いてもその歪みは消えなくていたたまれない気持ちになり、鏡から視線を逸らす。余程のことがなければ仕事は休まないと自分で昔から決めていたことなので幾ら酷いと云っても休むという選択肢は彼女の中には存在しない。大丈夫、いつも通りにしていたら彼に会うことなんて一日の中で滅多にない。は鏡の前でしたことを自室の扉の前でもう一度した。


「うん、大丈夫」

もう一度歪んだ頬を思いきり両手で叩いて気合いをいれ、扉を盛大に開いたがそれは適わなかった。扉を襲ったのは硬いものがぶつかる音と苦痛による悲鳴だった。の顔が瞬時に蒼く染まる。

恐る恐る扉の外側を覗き見ると予想通り人が一人痛みに身体を丸めている姿が目に入り、蒼い顔は更に強まった。

「よ、楊ゼンさん…!」

楊ゼンは顔面と左足を庇うように丸まっていたが、の声が頭上からすると彼は取り繕うように痛い筈の身体を起こし立たせ、巷で噂されているという王子様スマイルを見せた。少々頬が引き攣っているのが残念である。一瞬その微笑みに思考を奪われそうになったは自分のしたことを思い出し我に返る。

「ご、ごめんなさい…!まさか人が表にいるなんて思っていなくて…」
「、別にたいしたことないですから謝らないで、下さい」

そうは云いつつも笑顔は引き攣ったまま、顔も朱いと自分がしてしまったことだからとは云えずにいた。痣が出来てしまっていたらいけないので手当てでもと自室への扉を今度は楊ゼンにぶつけないように開き、誘ったが右手で大丈夫と制され、少しのふらつきを纏いながら去っていった。思ってもいなかった出来事に彼には失礼だが少しだけ彼女は笑ってしまった。




いつものように洗濯物を干し終わった時間帯と同時にきゅう、と鳴るお腹にそういえば昨日は何も口にしていないことを思い出し調理場へと足を向けた。調理場へ向かうのならのような侍女や調理師だけだからと安心して向かったのもつかの間、ああなんて運が悪いのだろう、と彼女は思った。そこには太公望と天化が座ってお茶を口にしていた。

は胸がじんじんするのを堪えニ、三度息を吸う。(大丈夫、いつも通り)と、自分の云い聞かせ、そして朝練習した笑顔を貼り付けて何気なくを装い扉を開けた。最初にに気が付いた太公望はお茶を啜りながら上目で彼女を見やり、視線が合うそれにはにこりと笑ったのに太公望の表情は異様なものを見た、という驚きに変化していくのだがそれを彼女の瞳は捉えることはなく、その前に視線を逸らしていた。の視線はそのまま太公望から天化に向かい、頬の筋肉を緩め笑いかけた。

「おはようございます、太公望さん、天化さん」
「おはよ、さん」
「……おはよう」

は二人に挨拶を交わした後、厨房の中に逃げ込んだ。その彼女の背中を太公望が訝しげに見ている事など、太公望が彼女に云わない限り知ることは一生ないだろう。の背中を凝視していた太公望に天化はふざけた唇を少しだけ引き締めた。

「なんか、今日のさんおかしいさ、」
「そうだのう…」

いつもならもう少し他愛のない話をしてから去っていくものを、と天化は考えているのだが、太公望だけは気が付いていた、自分と天化に向けられた笑いの違いに。澄んだ青い瞳をすうと細めた。天化に向けていたものも妙な笑い方ではあったけれども己に向けられているものよりは幾分よい、と感じてしまう程彼女の笑い方は不自然だった。

「…んー…」
思い当たる節でもあるんさ、と天化が聞いてくるが首を振って否定する。厨房からちらりと見えるの姿を見て太公望はお茶を啜った。なんとも味気ない。

買出しの時、サボりの時、落ち込んでいた時、彼女に関連した記憶を呼び覚ましてみても彼女について何かあった事などなかった筈だ。記憶力が人一倍優れている彼にしてみたら頭を捻るばかりだ。確かに多少サボりを働いてはいるがそれが彼女の不自然な笑顔の理由には繋がるとは思えない。首を傾げると向かいに座っている天化に師叔がやっても可愛くないさ、と突っ込まれた。真剣に悩んでいる太公望は心外だと天化を批判した。

「何か心当たりがあるんなら早めに謝った方がいいさ?」
「わしが何かしたのは決定事項なのかい!」
「そうとしか思えないさ」
「、酷いのう」

真顔で首を縦に振る天化にため息が更に深くなったのは云うまでもなかった。