小さな疑問は浮かんで浮かんで遂には大きな問題となる、それが自身の中で認められていなくても勝手に作り上げていくものもあるのだと彼女はぼんやり思いながら早朝からの掃除を終えた。早く、彼が何かしらの事を女中にしてくれたなら自身も吹っ切れると思い込んで今日も息を吸う。恋と云うものに操られ、思考を奪われるとは思ってもみなかった。

ましてや、仙人に対してこの感情を抱くとも、人間というものはつくづく想定外の事をする生き物だ。朝食の席で太公望はいつものように静寂を守り咀嚼する、その周りには正反対の賑やかさを纏って朝から元気の善い声が侍女がいる廊下にまで届いた。が、その中に聞きたいと思い焦がれた声は聞き取る事が彼女には出来なかった。

「早く、そんな処で突っ立ってないで掃除をおし」
「…すみません」

無意識に扉に身体が磁石のよいに引っ付きかけたその時女中頭の眼に入ってしまい朝は終わりを告げた。

いつもならば何か手に付けている時に限り彼はやってくると云うのに自身が避けるようになってからは顔を出す陽気な道士の姿はめっきりの眼に入る事はなかった。何を気落ちしているのだろう、会いたくないと感情を殺したのはこちらからではないか。自分が落ち込むのは道理に敵っていない。そう思い、頼まれた買い物をしに城外へ出てみればそこに立っていたのはあろうことか太公望と身を寄せ合って睦言を交わしていた侍女であった。思わず手にしていた籠を地面に落としかけ、慌てる。何も入っていない籠を岩にたたき付けた処で何も困る事はないのだが。

「貴女と行く事になっているの、さあ行きましょう」
「え、あ…はい」

にこりと笑う侍女は美しい、その一言に尽きる。彼女もまた姫唱様に拾われた子だと云うのに天と地程違う外見からでも溢れ出る雰囲気は自身と同じ境遇の末の姿とは思えない。は何故彼女が居るのだろう、女中頭は一人で行けと顔をしかめた筈だと云うのにささやかな疑問がの中で浮き沈みした。

ねえ、と前方を歩く彼女は声を出した。侍女間で話をしている彼女を見たことも耳に入れた事も皆目ないは身体を固めたがそれよりも先へと脚を進める事の方がよっぽど大事だった。

「…何でしょうか」
「あら厭だ、敬語何て要らないでしょう?」
「ですが、」

人込みに紛れて彼女を見失わぬよう、手にしている行李(籠)を離さぬようにするので精一杯だった。彼女は不意に振り向き嗚呼こっちよ、との手を引いた。その掌でさえ視界に入れる時と全く、否それ以上に華奢で思わず力を入れてしまい、折れてしまうと慌てれば彼女は何処から見ていたのか前を行きながら大丈夫よと笑い些か恥ずかしかった。

「彼と親しいのでしょう、?」

彼とは誰か問わずとも二人の間では伝わるのだ、は大袈裟に身体を跳ね上げ、それをまたくすくすと笑った。

「彼ね、貴女の事を善く話すの」
「…そう、ですか」
「それがとても愉しそうだから妬けちゃうわ」

静かな笑いが胸にしとしとと染み込んでいき、この人と彼は絶対的なものが繋いでいるのだと思った。悲しい筈だと云うのに行李を掴む腕は別のもののように緩やかに握られ、その中には材料が着々と積まれていた。

帰る間も彼女は彼の事について生返事のに対して気にするでもなく終始、愉しそうだった。それが唯一彼女を悲しみから引っ張りあげていた。

「うむ、どうかしたのか」

手にしていた箒を重力に従わせた彼女に対して言葉を発した彼はそれを拾いあげた。顔を上げたは彼が太公望である事に途中気が付き、自然に出来ていた笑顔が刹那強張ったが太公望と視線が合う時にはいつも通りの彼女だった。

「ありがとうござ…っ!」

彼の指先が私の頬を掠め拳となって壁にぶつかった。何が起きたのか瞬時には処理出来ない彼の行動、太公望はいつも冷静沈着で穏やか、それは何処までも続く空模様。その筈だ。耳元でからりと壁の破片が床に落ちる音がするのを耳にしながらは現実である事を知ると共にその場から退くことも出来ず、太公望も退く事もしなかった。別に退いたからと云って咎められるわけでもないのには石になったかのように動けなかった。

「おぬしはまたそんな顔をわしに見せるつもりか」
「な、にを…云っているんです、か」
「とぼけるでない」
「…だから、」

また一つ壁に衝撃が走る、身体も反射的に跳ねはそれでも太公望から目を離すことは出来なかった。彼の瞳は今まで見たどれよりも冷たく怖い程冷静だった。行動と思考は似て非なるものらしい。は無理に笑おうと口元を広げるとその鋭さは増してそれ以上何も紡ぐ事も、表情を作ることも許されない。

私が悪いのだろうか、途端に頭が痛み出し、呼吸がしずらくなる。太公望の顔が滲み出し上手く見えなくなり、自身が泣き出しそうになっているのだと気が付いた。彼が憤怒を撒き散らすのは理解出来ても自分が泣くのはお門違いというものではないか、は溢れ出しそうになっている感情を必死で堪え、相も変わらず滲み善く見えない太公望の顔を見ていた。

「…何故おぬしは、」
「……」
「、すまぬ。もう引き止めたりはせぬ、」

その方が善いと太公望は彼女に云うでもなく自身に云い聞かせるように呟き、太公望は踵を返しから遠ざかる。再び床に落とされた行李は淋しげにゆらゆらと身体を揺すった。太公望の背中が離れていくにつれて治まるだろうと勝手に思い込んでいた感情の波は予想に反した。莫迦だろう、と云われても彼を見る度に思い出してしまう。太公望にとっては甘い幸せな時であってもからしては地獄の数秒、痛みばかりが思い出される時。彼と彼女ではこうも差がある。行李を思わず蹴ってしまい憤慨するかのようにきしきし云わせたそれを見ながらまた感情が一つ落ちた。