誰もが様子の何処か可笑しい日、太公望を覗いて皆が彼に対して他所他所しくなり話しかけても空返事しか返ってこないのには幾ら太公望でも訝しんだ。否、太公望だからかもしれない。いつもならば真っ先に太公望を捕獲しに来るであろう四不象やまでもが用事があると云い、誰一人として彼の近くには寄らなかった。最終的には城から蹴り出され、帰ってこないでいいとまで云われる始末。急きょ入った休みに嬉しいような、己だけ蚊帳の外で淋しいような感情を持て余しながら何処からか持ち出してきた桃を齧り、軽々とお気に入りの木の上によじ登った。此処から見える景色はどんな宝石よりも美しく、太公望はこの景色が好きだった。人間が活気を持ち働き生きている姿が見えるのだから。喉がごくりと大きくなった頃には桃の存在はなく綺麗に種だけを残した。食べなれている為かグローブは桃の果汁で汚れる事はない。


ぺ、と空に向かってそれを飛ばしたらあまり高く飛ばなかったそれは重力に沿って地面へ吸い込まれていくのだがそれを見る事無く太公望は空を仰いだままだ。調子が狂ってしまう、と此処数年間はいつも誰かと共にする生活がすっかり板についてしまったものだから独りと云うのは酷く心許無い事なのだと思い出させた。偶に忘れそうになる幸せを太公望は噛み締める。隠し事が上手い太公望とは違い皆の慌てぶりと云ったらない。己が隠し事をする事が多い分、他人に隠し事をされるのは慣れていなかった、傍から見た太公望は拗ねているようにも見えた。

「あたっ…」

地面に落下した種は偶然通りかかった通行者に当たり痛みを訴える声を出したのだがぼう、と空を仰ぎ見る太公望は気が付かなかった。もう既に考える事は止め休みに徹底したからだ。


太公望が城へ入る事を許可されたのはそんな小さな出来事があってから数時間が経過した頃だった。真っ先に四不象と、武吉が飛び出して来たかと思えば太公望の腕を強く引っ張り、数時間前までは放り出された身体を今度は中へ押し込まれた。何だと困惑気味の太公望に二人、否一人と一匹は笑顔を湛えながら太公望を引きずっていく。

「な、そんなに慌てて何かあるのか」
「それは見てのお愉しみっス」
「お師匠様、きっと驚かれると思いますよ!」

ずんずんと進んでいく一人と一匹に訝しげな視線を送りつつも太公望は自分で足は進めているが腕は相変わらず身体よりも前に位置していた。お愉しみと云うからには愉しい事なのだろうと予測をつけてみるものの、思いつく限りと云ったら笑顔で書類の山を差し出される事しか彼には思いつかない。お愉しみと云えばお愉しみであり、驚くと云ったら驚く、太公望は厭な予感が汗となって身体中から吹き出るのを感じどうやってこの一人と一匹の拘束から逃れよう等と策を練っていた。が、しかし四不象の言葉で逃亡する事は皆無だと知る。

「此処っスよ、ご主人」

まだ逃げられると扉を開こうとする武吉の手が腕から離れた、太公望が右足をそろりと半歩下げる。左足も、と太腿に力を入れたが前に真っ直ぐに向かっている片腕が四不象の手中にある事をすっかり忘れていた太公望は結局逃げられないのだと悟り、がくりと項垂れた。これで真に大量の仕事だったのなら先程空に飛ばした桃の種のようになっても構わないと太公望は思った。 立て付けが少々悪かった扉はがたん、と大きめの音を立てて開いた。

「お誕生日おめでとうございます!」

小さな爆発音が聞えたかと思えば、瞬間に視界は鮮やかな紙吹雪で埋まった。 これは、と驚きから呆けている太公望にがひょこひょこと笑顔でやってきた。いつもの眉間にシワを寄せて気難しい顔をした彼女とは大違いで太公望は久方振りのの笑顔に顔を向けた。

「お誕生日おめでとう、」
「こ、れは…」
「今日、誕生日でしょう?」

は笑って、もう一度お祝いの言葉を太公望に告げた。 太公望は何とも云えずにいるとは横にずれる、良く見知った仲間達が飛び出して来た為言葉を返し損ねてしまった。天化達はいつもの屈託の無い笑顔で祝いの言葉を太公望に云う。それにまだ把握しきれていない太公望は辛うじて相槌を打つだけだった。ああ、そういえば今日はわしの誕生日だったか、と思い出した頃には皆からの祝いの言葉を受け取った後だった。もう何十年も誕生日を祝う事もしなかった太公望にとっては誕生日と云う日は普通の日と何等変わりはなくなっていた。それでも何処からか仕入れてきた自分がこの世に生を授けられた日をこうも祝ってもらうと気恥ずかしいような、むず痒い気持ちにさせられ太公望は皆にお礼を云う時も彼にしては珍しくたどたどしい言葉に皆は作戦成功と喜びに拍車を掛けた。

お開きになったのは亥が過ぎようとしていた頃だった。皆で料理を少しずつつつきながら、仕事以外の話に花を咲かせた。数時間だったがとても充実した時間だった。最後当たりでそろりと外へ出て行くに気が付いた太公望は皆の目を盗んで同じようにそっと外へ出た。こっそりと付いていくのは彼の十八番であり容易く彼女の後をつける事が出来た。昼間とは違い涼しい夜風が身体を通り抜け、髪の毛を揺らす、優しい風だ。さくさくと草を踏んで進んでいくに太公望も続く、その音が止んだのは今朝方太公望がお気に入りと称していたあの桃の木の前だった。驚く太公望には気づく事もせずその木に触れる。まるで触れたら壊れてしまいだと云わんばかりの手つきでそれに触れる彼女はとても美しくて哀しげにも見え太公望は思わず声をかけてしまう。

「おぬしだろう、わしの生まれ年を皆に知らせたのは」

驚いた顔をし、大きく振り向いた彼女の目は微かに揺らいでそこからは溢れかけた涙が存在した。まさか泣いているとは知らず太公望は更に動揺した、いつもの凛とした彼女からは想像も付かない事だったからだ。は素早く月の光で輝く涙を裾で拭い取るといつもの表情に戻した。

「あ、ばれちゃった。何で分かったの、?」

太公望はその動揺を隠す事に徹底し、いつもの口調で言葉を返す。

「直ぐ分かるわ、それに教えたのはおぬしくらいだしのう」
「良く覚えているね、そんな昔の事」
「それはおぬしにも同じ事を云えるのではないか?」

そうだね、と照れたように笑った彼女に太公望はいつもの仲間としてのではない感情が膨れていくのが分かり心臓がときりとした。抜け出して来ても平気なのと云う言葉にもうじき終わりなのだから平気だと返すと悪戯をしでかした子供のような笑みになり空を見上げたに太公望も同じ事をする。深深と胸に暖かくなるものを感じながら涙が毀れそうになり、何故が涙を見せたのか少しだけ分かる気がした。何故此処にと云う問いかけにもは太公望が此処が好きだって云っていたからと微笑んだ途端それが愛である事を知る。此処まで来たのは間違いではないのだと云われた気がして、また胸が熱くなった。

アガパンサスの微笑み
2010/08/03|Happy Birthday!