人魚の涙は海に溶ける

消えた星の光 : 普賢真人
床の冷たさを君は知らない : 伏羲
花のような死に様。 : 太公望
靴に傷つけられた足 : 太公望
人魚の涙は海に溶ける : 太公望


2010/08/16|普賢
ぱあ、と光が輝く。美しいと云う言葉を教えてくれたあの人は今何処にいるのだろう。夜は寒いからと窓を閉めたあの手だけが深く印象に残りすぎてあの優しい笑顔を思い出すのに苦労した。何せ、目をつむって手を窓から離して顔を空から逸らさないと思い出せなかった程だ。優しさを最期まで誇ったあの人が綺麗だと教えてくれた星達に混ざり合って自由を手にいれたかのように飛び回った後、魂を引き留められる箱に入っていってしまった。それは窓から手を離して、目を瞑って、顔を星空から背けなくても簡単に思い出せた。窓に身体を寄せると冷たさが全身に侵食して、酷く不快だった。何故暖かくないのだろうかと理不尽な事を考えては記憶が巻き戻される。太公望は云った、この戦いを終わらせると流せない涙を胸に抱えながら。私は頷く事も忘れ、ただ消えた優しさを見ている事しか出来ず、あの箱を今壊せたらどんなに善いだろうと考えた。優しい笑顔は最期まで涙によって滲み顔だった。

消えた星の光

2010/08/16|伏羲
彼女の名は知らぬ、気が付いたらこの世界に存在していた。闇を切り開いた、壁ひとつ越えればもうそこは見知らぬもので溢れていた。道を走る交通手段には車や自転車、バイク等と呼ばれるもので溢れ返り特にエンジンと云う人間で例えるなら心臓の役割をするらしく、それがついているものが発する音はとてもではないが聴けたものではない。何が何の役割でどんな名を持っているのか知りえなくても頭に流れ込んでくる。目を細めれば薄く靄がかかったかのような空気が見え、今の世界はあまり優しくないのだと感じた。女は伏羲の姿を捉え差ほど驚く様子もせず、代わった服装ね、と暢気な言葉にこちらが驚かされた程だ。そして直ぐにそれは人間とほば同じ形をしているからだ、と理解した。家の中に見知らぬ者が佇んでいるというのに、と思いながらいると美味しいお茶があるの、とまた暢気な言葉に促され何時振りかしっかりと臑を床に貼付けた。冷たい、という暫くなかった感覚に躯が跳ね上がった。

床の冷たさを君は知らない

2010/08/16|太公望
日頃莫迦だと云われ続けた介あって本当の莫迦者になってしまったらしい。勝てる筈もない相手に向かっていく自分をあれ程までに叱咤したのは後にも先にも彼しかいない、先にもと例えてはいるけれどももう自分には先等ない事は水にしては生暖かいのと、ぬめりがあるものが汗と混じり合いながら頬を伝うのを感じた時から分かっていた事だ。空から降ってきたものを直に当たり身体が自分の意思とは関係なく震え、跳ねる。縦にも横にも自由が利かず苛々した。「ぶんっ…ちゅう…!」声だけで吼えてみても身体は相変わらず、汗と血と涙が混じり合いそうになったのを必死で食い止める私を、滑稽だと云うように鼻を鳴らした。「最後だ」聞仲は禁鞭を手に腕を大きく振り上げる。嗚呼、莫迦ねと諦めた私を彼はどう思うのだろうと考えて視界が白くなるのを感じた。「莫迦者、」怒りとも呆れとも取れる声色で聞えた声に、白くなった視界は彼の宝貝によって起こされた風が煙幕となっていた事に気付かされた。ひらりひらりと舞う黄色い布は花びらのようだと思った。

花のような死に様。

2010/08/17|太公望
脳がある男は云った。何れはお前にも解ると。おぬし、だったかもしれない、どちらでも構わない。そう呼ばれて悪い気はしなかった。若い道士の名は確か太公望と云ったか、見かけ倒しだ、と青年の笑顔でからりと笑えるのだから中身がどうであれ差ほど意味はないのだと感じる。脳がある太公望と云う道士は仙人と呼べるには未だ修行が足りないのだと云う、歳は七十手前だと青年のそれを顔に浮かべ、少しも驚きを見せないでいるとふて腐れたように片方の頬がふくりと膨れた。そっちの方は青年と云うより少年のようで可笑しくて笑った。「おぬし、わしをからかって愉しいか」「脳のある道士様のお話は愉しいです」話が噛み合っていないことに笑い、おぬしだった、と耳心地の善い呼び方にまた笑うと先の尖んがった靴が裸足に刺さり少し涙が出た。青年の容姿をした太公望と云う道士の顔に視線を向けるとやはり彼は青年のような笑い方をしていた。

靴に傷つけられた足

2010/08/17|太公望
太公望が笑った。ただそれだけのことだと云うのに酷く落ちつかない気持ちにさせられて泣きそうになったのをぐっと堪えた。戦いに身を投じるのであれば誰しも覚悟というものを持ち合わせているものだ、自分もそうだと思っていた。なのに沢山の犠牲の中やっとここまで来れたと云うのに不安はまだ途切れることなく続いていた。泣きそうになったのも太公望の笑顔と不安の波長が運悪く合ってしまったからだと思い込むことにした。大丈夫だ、と笑顔にのしをつけた太公望を腕いっぱいに感じたくなり、誰もいない部屋だと分かっていたから大胆な事に彼に抱き着いた。太公望は一度だけ魚のように跳ねたがそれを最期に彼の腕が優しく背中へまわっていく、胸元の服を一段と強く握り締めた。普段は感じることの出来ない他人の体温にどきまぎしつつ、背中からリズム善く伝わってくる振動に行かないで、と云いそうになった。もし口にしたとしても太公望は足を止めることは皆目ないだろう。例え恋仲である相手からの願いだったとしても変わる事はない。太公望はもう一度大丈夫だ、と云い見計らっていたのか顎を上げた途端唇がさらわれた。

人魚の涙は海に溶ける

title by honey bunch