2010/11/16|太公望
だあほ、と云われていつもは煩いとか太公望だってとか云い返す言葉はすらすらと滝の流れみたいに落ちていくのに今日の私は何だか気分が酷く冴えなくて苛々としていた。屋根の上から街を眺めていたら太公望が視界にはいる、あ、もしかして私を探しにきてくれたのかなと云う淡い期待はものの、数秒で消し去られ太公望に続いて見えたのは城内では人気の高いと云われる女中が眼にはいってきた。何で一緒にいるんだろうと一番先に浮かんだ疑問を抱えたまま様子を見たら、早くも後悔した。
愛しているなんて太公望らしくなくて心とは裏腹に笑い出してしまいそうになるし、危うく屋根から滑り落ちそうにもなった。此処からでは低くも高くもない太公望の声は聞こえないが口の動きで何となく理解出来る。女中は此処からでも分かる程に顔を朱く染め、太公望の手に自身の手を重ねはにかむような笑いを、嗚呼もう厭だ、見ていたくないと見るのを途中で止めた。裏側から地上に降り立った私は裏側の様子を見る事なく城の中へ逃げたのだからそれ以上の事は聞かれても答えられない。
「煩い、」
部屋に立て篭もろうと廊下を歩けば何処からか最近王の座についた男の奇声が聞こえ、壁で隔たれている筈だと云うのに耳元で叫ばれているような感覚が襲った。この様子では当事者達がいる室内は酷い事だろうと無意識に靴音を廊下に響かせていたのに気付き、これでは善い勝負だと足の力も程々に歩行速度も緩めた。視界の端にちらつく映像の残骸に早くも嫌気がさし、このまま何十分も続くようならば何処かに頭をぶつけて上手い事記憶を削れるならどんなに善いかと思う。が、そんなことをしても要らない記憶だけを消す事はほぼ不可能に近いので自室の扉を乱暴に開閉するだけに留まった。
「厭だ、もう」
愛してるなんて自分以外に云わないで欲しかった。無駄な願いだとは知りつつも彼が、その感情を向けてくれる事を夢見ていた。けれどそれは所詮叶わないものだった、仙人界に来てからずっと好きだった。彼と出会いは最低なものだったがそれでも不思議と惹かれていた。引力のようなものに、まるで魂が彼を求めるようだった、彼も、太公望もそうならばどんなに善かっただろう。脳内に反響する愛の言葉か痛い。
「居るかのう、」
いつものように叩かれず、合図のないまま開かれる扉が今日は、否今日からはずっと憎いと思うだろう。太公望は部屋の中に居た。私を見つけ、やっぱりといった表情に見たくない些か前の過去と今現在の太公望が重なる。どうしたの、と椅子から立ち上がり太公望に気付かれないよう右手の掌を背で隠し爪が皮膚に食い込むくらい強く握りしめた。
「昼食、食べに行かぬか」
要らない、と断るつもりだった脳とは裏腹に心は正直者でうんと受け入れてしまった。太公望はじゃあ、と動こうとはしない私の手を取り連れ出す。まるで赤ちゃんのようだ。優しく包まれた私の手は引っ張られ、食堂へと運んでいく。いつもだ、迷ってどうしようもないときに、どんな些細な事にも太公望は自身に身を寄せようとしてくれる。
「、ねえ」
「うむ?」
「何でもない」
この胸の痛みと引き換えに彼が幸せを彼女と感じてくれるならば、今の私のささやかな幸せは暫くは痛みと同伴しているだろうけれども大丈夫だとうそぶきながら太公望の腕を逆に引っ張れるよう先を歩いた。口内に彼への想いを沢山詰めて。
心の持ち主
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