指先にキスマーク
指先にキスマーク : 太公望| 傷の数だけ美しい人 : 王天君

2011/03/22|太公望
執務室の扉を開けばそこに居る筈の軍師は書物に顔が埋まっているのも厭わず鼾をかいて眠っていた。眼を丸くして近づく彼女に軍師は気付く様子がなく、普段の彼ならば即座に眼を覚ましそうなものなのにと眉を寄せた。軍師があまり睡眠を取っていない証拠だからだ。机まで近づき起こそうかと伸ばした手を彷徨わせてみるが結局上下する肩に触れる事はなかった。

(グローブしていない…)

いつもと何かが違うと彼女が眼を凝らせば、それは直ぐに分かった。普段ならば隠れて見えない手の甲が書物の間から覗いて見える。筆を使うのにグローブは不要だからと一人で納得しながら寝ている事を善い事に彼女は軍師を産毛が分かる程至近距離で観察する。男である軍師は手入れなど全く持ってしてないであろうに女の肌以上にきめ細かく、もう直ぐ八十になるとは皆目思えなかった。彼女は自然と自身の肌に触れ羨ましさを滲ませた。そうしてそっと睫毛が垂れている軍師の頬に指先を寄せた。

「きゃっ…」

小さな悲鳴を上げた彼女は突然伸びてきた腕に驚き、反射的に身体を引くのだがその時既に彼女の身体は軍師の腕で捕らえられていた。机越しで見ていれば善かった等と意味の無い後悔をしながら彼女は軍師を見遣った。

「起きていたのですか」
非難の声を上げたわけでもなく只の確認の言葉を軍師に向ける。軍師は凝り固まった身体を書物の波から出てきた、その際に幾つかの巻物が床に落ちる。軍師という男は、些か大きめの眼を外界に見せた。彼女はその双眸と視線を合わせる事によって何を言葉にしようとしていたのかすっかり忘れてしまった。軍師は呆けている彼女の腕をゆるりと素手で撫で、面白がっている事が容易に窺えた。

「流石に頬に触れられたら眼が覚めるわ」
「お、起こしてしまってすみません…師叔」

撫でられた腕から灼熱の焔が湧き上がるような感覚が彼女を襲い、徐々に引き寄せられている身体をどうにかして遠ざけようと試みた。

「そう思うのならば、何故逃げるのだ?」

細い身体の持ち主である軍師は誰から見てもそこまで力があるようには見えないのだが彼女の身体は彼に近づいていく。抗っている彼女を見るのが些か愉しげであり抗議の声を上げようとするものならば先程の言葉が頭を過ぎり何も云えなくなる。

「おぬしは甘いのだ」

そういうと軍師は寄せた身体の細い腕の先にある指先へ噛み付いた。驚いた彼女にさして興味もないのか軍師は音を立てて吸い付く、微かな音量であるというのに彼女からしてみれば羞恥心を仰ぐものであるが為に部屋全体に響いているという錯覚を覚えた。その頃には逃げ腰になっていた身体は硬直状態に陥ってしまい、軍師の思惑通りになっていた。やっとの事で洩れた言葉は彼女でも何を云っているのか理解はしていないだろう。

「す、師叔…!——…何をっ!」
「わしの想いを此処につけたまでよ」
「……っ」

舌先離れた彼女の指先は他の白い指先とは違い朱く染まり、まるで彼女の感情がそっくりそのまま指先に出たようなものだった。軍師の直接的な言葉が彼女を貫き、更に息が止まるのではないかと云う程、詰まり、心臓が跳ね上がった。

指先にキスマーク

2011/04/04|王天君
爪を噛むことがいつの間にか癖になっていたと感情のない能面で彼は爪を噛んだ。数秒前、彼にそれを止めるように云った筈だが効果は全くない事が分かった。しかも素早い結果を見せられると自身の影響力等ミジンコ同然だと云う事も要らない特典としてついてくるとは、先程の時間まで戻れるものならば是非とも戻りたいものだ。

王天君は自分の事をどのような感情下に置いているのだろう、と彼を見るけれども視線を意に解せずと云った相も変わらずの態度である。彼は、彼はと考えている内に時間だけは過ぎていた。道士である私には時間等あまり関係のないものだとしても些か勿体無いような気がしてしまう。これはきっと敵側である元始天尊の弟子の太公望の所為かもしれない。最もあいつが時間を有意義に使っているのかと問われれば否定しか浮かばないのだが。けれども王天君が気にしているから自然と眼に付いてしまう。

「いつもそこにいんだな」
頭上からかかる声がすぐに誰か分かった。王天君だ。
「王天君がそこに居るからね」

やっとこっちを向いてくれたのだ、自分の中で満足のいく笑みを彼に向ければ、自負を粉々にする言葉が返ってきた。
「不細工な面すんなよ」
嬉しさを運んできた声の所為で盥が思いきり脳天を刺激した。残響が頭の中で暴れ回っている私に面白くもない場所で王天君は笑い出した。とはいっても口元を歪めて笑う彼独特の笑い方だったけれども。
「テメェの面はいつみても飽きねえな」
笑う、私は盥を突き飛ばし王天君を見遣る。感情の変わりように口元は益々歪む。

「…本当!?」
「当分はな、」
莫迦面だな、と笑われても私の頭の中には飽きないというのが当分巡ってその間は幸せでいられるんだろう。王天君は太公望の様子を見に行くと云って異空間に消えた。どうやら私はまだ当分の間は太公望の存在には勝てないらしい。

傷の数だけ美しい人

title:シャーリーハイツ|honey bunch