かりそめにもこい

仮初めにも恋 : 太公望| ひたむきな指先 : 太公望
逃亡前夜 : 太公望


2011/06/26|伏羲
沈む、沈む。浮き上がろうをすればそれを阻止するかのように胸部に掌が飛んできた、故に比べる必要もない落ち方をした。浮き上がりたいと願えば呆気なくこの痛みから解放されるというのにそう想わない為、いつまで経っても淋しさも切なさもこの痛みからも救われないのだ。何故知りながらも沈み続けているのかと飛び出してきた掌が問う。何故だろう、考えようとしたこともなかった。

「深い処まで」

そう、深い処まで、私は何をしたかったのだろう。深い処まで、ああそうだ、私は知りたかった。すべてを、知りたいと思った。否、間違っても真理なんて壮大なものを求めているわけではない。欲しいと感じたものは最も簡単そうで難しいものだ。握り潰してしまいたいと思えば呆気なく果物の如くに潰れてしまう、心。それを痛いほど渇望した。

「貴方が知りたい」
そう呟いたあと唐突に掌を掴み巻き込むつもりで引っ張った。案外簡単に道連れ出来たそれを慈しむこともなく深海に漂わせた。私の躯と共に。貴方と溶け合おうと無駄な足掻きを見せた証拠。深海へと沈む、まるで褥に身体を任せているような穏やかさを貴方は見せ、ならば私のこころは充たされると、これは確信に近かった。

口に含んでいた酸素はもとより肺の中の空気も排出してしまった。嗚呼苦しい、と漂っている貴方を見て思う事でもないのだけれど、人間の本能と云うやつなのだろうか。私は貴方よりも生への心配をしていた。苦しい苦しい空に向かって空気砲が浮上して大気へと戻る、その中途過程を見た私は泣きそうになりながら手を空に伸ばした。そして上昇。勢い善く上がっていく身体、一瞬の間。あっという間に私は地上へと身体を上げ、倒した。久しぶりに感じた空気に息が詰まる。隣では貴方が平気な顔をして、些か心配そうに私を見下ろしている。

「これでもまだ死に近づこうとするか」

黒いこの人は海の中ではそれが際立って酷くみえたのに、地上で見る貴方は驚く程美しかった。ぼやける視界の隅で貴方へと手を伸ばす。伸びて伸びて、やっと触れた頬は驚く程に冷たかった。生きていたい、貴方と共に、私はそう口にしようとして貴方に唇を奪われた。

仮初めにも恋

2011/05/23|太公望
この頃自身でも可笑しいと感じる程に心拍が尋常ならざる数を打つ瞬間がある。太公望と云えば桃泥棒で仙人界では有名な人物であり、日頃、彼の行動を見かけている者ならばやらかしたのを見つかった為かと溜息を落とす処だ。しかし、太公望が可笑しくなるのは桃を盗んだ時ではなかった。

「また来ているのですか、師叔」
「う、うむ」

修行の為、岩上で型を組んでいる少女は呆れ半分嬉しさ半分といった表情を太公望に見せた。太公望は自身のみに向けられている最上級の表情に破顔させた。なんてものを仙人界一の頭脳の持ち主太公望がする筈なく、彼を善く知らぬ者ならば普段通りだと思わせる顔付きで相槌を打った。彼女も未だ善く、と云える程には知らず普段の彼との違いが分からなかった。

「また、」
「今日は修行は休みだ、安心せい」

修行に休み等というものがあるのだろうか、と思ったが彼女はあえて何も返さず太公望を見遣った。

「わしの顔に何か」
「いいえ、師叔。先日と変わらず素敵なかんばせです」

少女の無垢な言葉に太公望は言葉を詰まらせ、何を云おうかと考える思考も停止した。少女には深い意味などもたないその言葉は太公望にとってすれば全く違う意味になってしまう、恋と云うものは恐ろしいと太公望はひしひしと自身で痛感していた。

「そ、ういうことは冗談でも云うでない」
少しずつ動き出した思考と太公望自ら導き出す腕の力で頬を掻きながら云えば少女は実に不可解だといった顔付きになる。

「何故ですか…?」
「わしにも羞恥心と云うものはあるのだぞ」

刹那間があった後、少女は不思議がっている様を依然太公望に見せたまま。早々に合点して欲しい道士は心なしか落ち着きがないようだ。
「そうなのですか」
ふ、と空気のように軽い笑いを口元にたたえた少女に多少の不満があるのか太公望は拗ねた。

「こら、何気に疑問系にするでない」
「すみません、師叔」

そう云いながらも笑みを含んだ唇は相変わらずで、それに視線を向けた太公望はそれがいかに美しいものか知った。そして少女が知らぬ間に道士は一人赤面する。

ひたむきな指先

2011/05/22|太公望
はやく眠ってしまいたい、そう思いを巡らせながら広い廊下を歩いていた。深夜にもなれば自然眠りはやってくるそれと共に静寂、暗闇。どれも私が苦手とする要素ばかりで善く空を睨みつけたけれど、相手は膨大な存在。たかが人間一人、人間よりはるかに永く生きていける存在だとしても空は掌には大きすぎる。

それを指摘したのは皮肉な事に太公望だった、彼は内面もさることながら世界を覆えてしまう能力を持ち合わせていた。それ故勿論の事、人ではなかった。彼が愛している世界の人間に彼は憧憬と慈しみを持っていた。私には些か羨ましいと思える感情を彼はいとも簡単に手に入れていた。それは能力の有無に限らず彼の懐の深さといったもの。泣きたくなるほどにそれに私は憧れた。

「太公望が好き」

黒く歪んだ感情の中で育まれた想いを伝えるつもりは全く無かった筈だったというのに思わず洩れた恋に些か驚いた様子の想い人。しかし、瞬時に曇らせた顔色に口元が歪んだ姿に瞬時に答えが頭に浮かんだ。

「私じゃあ、受け止められないんだね」

何て陳腐な言葉なのだろうとも思ったのだがそれ以外に思いつかない程、私は意外にも動揺していたらしい。太公望はうんともすんとも云わず歪めた唇を開きかけたり閉じたりしてこの間をやり過ごしていた。太公望は、と他人の事ばかり告げているけれども私も彼にしても重たい沈黙から逃げ出すのに必死だった。私が意図して云った言葉ではないと悟れる彼はたっぷり十分使って口元を歪みを戻した。

「おぬしは恋と憧れを同等にしておる、わしが人に憧れるように」
一度歪められた口元は中々元には戻らないらしい、一度綺麗に整ったそれはまた歪になる。それは、と呟いた私はそれ以上の言葉を紡げなくなる。憧れ、だけではないと云ったら嘘になるだろう。けれども誰しも初めは自身に無いものに惹かれるのではないのか。

「私は、」

それでも言葉は喉元でつっかえて音にならない。 早く云ってしまえば太公望が此方を見てくれるかもしれないのに、私は結局告げる事が出来なかった。告げたとしても太公望の歪みは消えないだろうと勝手に憶測を立てたからなのか、それとも私自身今の状況で満足していたのか分からない。夜は静かに私を蝕んだ。

逃亡前夜

title:シャーリーハイツ : sozai by はだし