昔から木登りがすきだった。遠い海へと手が届きそうな気がしたから。夜になれば輝く光の一部になった肉親に近づける気がしたから。そんな事を何年、何十年と思っていくうちに鮮明だった憎しみは方向を変え、負の連鎖だと云うことに気付く。今、自分が思っていた気持ちは自分で終わらせなければいけないのだ、と。はじめ、火が覆う故郷の姿を目の当たりにしたとき、燃え上がる感情はどうしようもなかった。直後仙人と呼称する翁が自分の目の前に現れ、云う。仙人への道を、そして復習の道は一旦閉ざされた。かのように見せていた。翁は元始天尊と名乗った。少年は呂望と云ったが仙人界に上がる頃には太公望と名を改めた。それは翁の計らいだったのかもしれない、十年経った頃太公望は名を変える事で当時感じた憎しみを同等に地界において来いというものだったという事に気づいた。その頃には太公望もすっかり仙人界の空気に慣れ、忘れたわけではなかったが木登りをする癖も何処かへいってしまっていた。

「スース、太公望師叔何処ですかっ!」

しかしその癖は仙人界に来て十年からまた二十年余の仙人界生活ですっかりもとに戻ってしまった。あれほど熱心だった修行も怠けるようになり、度々姿を消しては立ち入り禁止区域の蟠桃園に忍び込んで桃を食い荒らしたり、師である元始天尊の眼を欺いて人間界へと足を運んだしていた。はじめのうちは眼を瞑っていた翁も酷くなる一方の弟子の行動についには怒りを向けた。犯行の片棒を担いだとされる十二大使のひとり、普賢真人も呼び出しをくらいかけたのだが日ごろの行いのお陰か太公望ひとりが元始天尊の元へと向かう羽目になった。

重たい足取りとは別に脳内ではどういい訳をしようかと画策するあたり反省の色は見えない。それもつかのまの出来事で太公望は直ぐに別のことに思考を廻らせた。次人間界へ行くときは何処へ行こうか、とかじょじょに見張りが厳しくなってくる桃の園への侵入経路を考えていた。勿論、友人の普賢を引っ張っていくのが前提だった。そんなことを考えているうち、あっという間に大広間へと出てしまった。何を云われても平気なよう、既に太公望の頭の中には何通りもの答えが用意されていた。

「元始天尊様、わしに何か御用ですか」

肩膝を床につけ、白を切った。呼ばれた翁は振り向き様に呼ばれた理由はもう分かっているな、と今にも火を噴きそうな雰囲気を纏いながら太公望に尋ねた。太公望はいえ、と言葉を区切りあくまでも何も知らぬふりをする。今にも第三の眼が開眼されそうな勢いにまでなった翁を見上げても太公望は平然としていた。ここで下手に謝ったりしたならこれまでの行いすべてを認める事になるからだ。(殆どが既に元始天尊の耳に入ってはいるが)僅かでも自身の罪を白に出来るなら、と太公望はひょうひょうとした態度を続けた。

「まあ、よい。それは追々処罰を下すとしよう」
「げっ……あ、いえ何でもありません」

思わず零れた本音にねめつけられた太公望は慌てて取り繕った。
が直ぐに呼ばれた理由はほかにあるという翁に眼を見開く。太公望の中ではそれ以外呼ばれる理由が思いつかなかったのだから意外や意外だった。驚くあまりに視線はだいぶ寂しくなった頂頭部へと注いでしまいごほん、と咳ひとつ落とした翁に慌てて見直せば、些か前にはいなかった影が翁の後ろに出来ていた。翁、もとい元始天尊はそうじゃ、と怒りで我を一瞬忘れかけたらしく呟いた。

「ほら、でてきなさい」

ひらりとした布が後ろ側で引っ張られている。緊張しているのか、と太公望は少し痛み出した膝を心配しながら思う。翁との静かなやり取りの後ゆるりと布が前に広がる。踏み出された足からそのまま全身が太公望の前に出た。

と云う。お主の二番弟子となる」
「………、です。よろしくおねがいしますっ…ええと、」
元始天尊の視線が突き刺さり、慌てて声を出す。慌てた所為で前のめりになりかけ、膝に痛みを感じる。あと痺れもだ。

「元始天尊が師、一番弟子の太公望です」
「た、い…こうぼう、」

容姿は自身よりも、幾分か若い。しかも仙人は歳をとるのが人間と違ってだいぶ緩やかだ。人間界で十二年過ごし、仙人界で三十年過ごした太公望の容姿はなんら変化はない。仙人としての貫禄というものが少しついたくらいだ。と名乗った少女がいつから仙人界にいるのか、容姿からでは判断出来ず太公望は十になったばかりだろうと憶測をした。

「自己紹介も終わった。太公望、今日からお主がこやつの修行を手伝うのじゃ」
「は!?」
「………っ!」

思わず驚嘆の声を上げた太公望の目の前にいるは身体を思い切り飛び上がらせる。元始天尊は兄が妹の面倒を見るのは当たり前だと人間界の常識を押し付けた。仙人界に来て三十年も経っている(他の仙人からすればたった三十年だが)太公望は既に人間界でのそれを忘れている節があった。たとえば、責から逃れようとする考え方や向上心がやや欠けている、と元始天尊は思っていた。それを少量でも少年の中へ戻れば、と考えた結果である。じゃ、と退散しようとしていた元始天尊が思い切り何かに引っかかる。蛙のごとくになりかけ、奴めと毒を吐こうとしたのだが翁の服を引っ張りあげていたのは一番弟子ではなかった。

まだ幼い双眸が翁をじっと見つめていた。年寄りは子供に弱いというが、まったくその通りである。太公望が涙目で訴えかけても全くかわいくもなんともないのだが、つい数週間前から弟子になったとなれば話は別だ。純心な顔に胸を詰まらせた翁を少年はにやにやしながら状況を見守る。このまま仕方ない、と云ってとりやめをしてしまえば太公望への思惑が叶わない。元始天尊は泣く泣く両手で布を掴むの掌をそっとはずした。


木の上で居眠りしていた太公望は少し懐かしい思い出から眼を覚ました。
思えばと出会ってから四十年ほど過ぎた。ついこの間から命じられた封神計画に妹弟子であると霊獣の四不象と三人で旅をしている。あれからと絆を結ぶのに随分時間をかけた。何があったのか尋ねたことはなかったが人間界では随分酷い目にあっていたのは確かで、度々悪夢にうなされていた。今となっては懐かしい、でひとくくりできてしまう。今は夏だ。木陰が出来ていても空気全体が暑さで覆われているこの季節ではとてもじゃないけれど影では補えない。幾ら仙人と呼ばれる者になったからと云って暑さをやり過ごす術を太公望は持ち合わせていなかった。いつも来ている服を脱ぎ捨て、口に出さなければ人間と全く変わらない姿。

はボケをかます太公望と違い、しっかり者に育った。封神計画にをつけたのも太公望の意思というよりは元始天尊の計らいである。というのもはじめ少女がやってきた時も太公望はすっかり策に嵌り、元始天尊の思惑通りになっていた。それに気付いた頃にはひっそりと仕返しをしてやろうという気も起きず、諦めていた。からもここの処じじいくさくなってきた、と呟かれ少し衝撃を受けたのだが。考えて見れば妹弟子のも容姿はそう変わらずとも五十手前だ。昔のかわいさは何処へ行ったのだ、と云い返せば鉄拳が飛んでくるのは必須になっていた為、云いかえせなかった。しかしいつ頃からかあんなにも暴力的になったのだろう。自分の後ろをついてきてかわいらしかったのに、とうんうん唸っている太公望は危うく木から落ちかけた。

「ご主人!どこッスかー!」

朝方、と何処かへ消えた四不象の声が草原にとどろく。
任務中だというのに暢気な指導者のお陰で四不象も、でさえもそれに呑まれて慌てることはあまりなくなってしまった。ここだ、と教えてやる義理もなく、(教えたら教えたで次の村に行こうと云い出すので)もう暫くここで滲む汗を冷やしていたいと太公望は思った。

「みぃつけたっ!」
「むっ…」

木が微かに振動するかと思っていたらやはり、目蓋を開ければ身体に跨り、現れた妹弟子。見つかってしまったというため息と、五十手前にもなって人の身体を平然と跨るに太公望は眩暈がした。は左手を頭にやった太公望の意味を考える事なく、眉をきっ、と上げ睨む。

「ちょっと眼を離すと直ぐにいなくなっちゃうんだから、暑い中スープーと探し回ったんだよ」

うむ、と気の無い返事を返せばは些か不満げに太公望を見た。急激に上がった体温にぐらぐらとする太公望を差し置いて文句をいくつも吐き出す妹弟子は聞いてるのか、と太公望をしたから覗き込んだ。元始天尊に向けたときの純心な瞳、全く変わっていなかった。口も達者になり、体術もそこそこ、太公望を説教するようにもなったが瞳だけはあの頃と同じだった。夏の暑さとはこんなに耐え難いものだったか、と太公望はまた一瞬の気の緩みにより身体が滑りかけた。しかし、今度はが身体の上に乗っかっていたお陰で頭が幹から鈍い音を立てただけで済んだ。

「だ、大丈夫!?」
「……おぬしの所為だ、」

ぼそりと云った言葉を聴いたは自身の非が分からず頭の上で疑問符を浮かべた。どうせ、分かる筈はない。太公望は早く自身の身体から妹弟子が退いてくれないかと思いながらも口にするのは憚られた。眩暈が心地よくなりそうな、夏。またいつかこうして思い出すのだろうときらきらとした眼でこちらを見るほんの少しばかり歳をとった少女を見つめた。

やがて影すら蒼い夏が来る
2012/08/03|Happy Birthday!|title by BALDWIN×