世界の暗幕が落ちる
世界が一転、眩暈と吐き気と、嫌悪感が身体中を蝕んだ。つい、と云っても道士である私にとっては、五年十年はつい最近の分類に入ってしまうから、多々一般人との相違点がある。その私が云うつい最近とは、仙人界に着てから片時も離れた事のない兄弟子の太公望の元から消えた事であり、その太公望とつい(これは一般人と相違はないだろう)最近本気で宝貝を使った命の駆け引きをした事だ。なんてことはなくって、私の弱さ故に、兄弟子の元を離れ、妲己の臣下として動く事にしたから、ああなった訳だ。私は何も無い、一面草ばかりの地面に寝転がり(と云うよりも動けないだけ)胃のむかつきを、どうにか拭い去ろうと躍起になってみた。けれども、脳裏の片隅で思いだす映像に、捨て切った筈の感情がついてきてどうにもならず、思わず倒れこんでしまった。
(何故おぬしが、)
消息を絶った後、初めて口を利いた気がする。久し振りに会った兄弟子は、何も変わっていなくて、私の感情もまた、何も変わりはしていなかった。出会わないように、極力避けていた道を彼から歩んで来られたら、逃げる術はなく、叱咤されたくない一心で、宝貝で言葉を攻撃した。何か云ってしまう前に、不意をついた先制攻撃は、戦い慣れた兄弟子には軽く、跳ね返ってきた痛みを防御出来ずに、全て受け入れた。そうすれば何も見なくてもいいし、聞かなくて済むからという安直な理由で、死んでしまうかも、という不安は無かった。手加減をすると、心の何処かで信用していたからかもしれない。
(おぬし、)
(…煩い)
案の定、手加減された私は、地面に身体をあずけるだけで済んでしまい、気絶もせず、大多数を占めていた封神台への渇望も叶えられなかった。瞼を持ち上げれば、兄弟子である太公望がぼやけて見え、笑っているように見える。笑う、なんて天地がひっくり返ってもあり得ない状況だと云うのに、きっと、私の希望が通った結果なのだと思った。太公望の顔は変幻自在で、ぐにゃりと様々な形を造り、私までも笑わせようとしているように見える。
(――――)
その太公望から、何か、発せられていたのに生憎私には、耳鳴りが言葉を覆い、何も聴こえなかった。手慣れた様子で手加減をする、彼を少し憎らしく感じ、聴覚を奪ってくれたことにはお礼を云わなくては、と口を開こうにも力は入らない。兄弟子は随分、強くなったようだ、誇らしくもあり、恨めしい人だ。
(――――)
(何も、聞えないよ)
「本当、何も聞えなかった。嘘じゃあないよ、」
燃えるように熱い身体、太公望の腕がまっすぐ、私に伸びてくるのが波打つ視界でも分かった。ざらりとした、グローヴが私の感覚を益々、麻痺させて、痛ませる。なんて、優しい。残酷だ、と吐き捨てたいくらいに、彼は優しく私の頭を撫でた。抱きかかえようと、背中にその優しさが回されるのが、何となく分かって胸が詰まる。胸の詰まりは、彼の意思が叶えられないということを知っていたからで、持ち上げられようとする身体は拒絶反応を起こし、太公望を遠ざける。妲己が、もしものための保険を私の身体に、呪術をかけていたから、触れる行為は赦されても、それ以上は一切を受け付けない。もどかしさ、を与えるための、彼女の愉しみの一環にされていると理解を得ていても、もう、戻れない。
(――――)
太公望は放棄するという事を忘れたかのように、何度も繰り返し、その都度、頭が垂れ下がり私の視界から消えてしまうまで、続けられた。彼のトレードマークの帽子が頬をかすめて、痒かった。背中に回された筈の、グローヴが頬に戻って、触れられるのが分かる。払いのけるくらいの力は、戻っていたのに、それを実行に移すことは出来なかった。
「私もね、ずっと想っていた。聞えなかったのは最初だけ」
化かし合いを十八番にする彼に、嘯きをしようなんて、負け戦をするようなものだった。
嘘を熟知していたにせよ、彼の言葉は素直だった。脳裏にこびりつく、兄弟子の帽子と、四不象を呼ぶ声。世界が一転、吐き気が治まり、身体が徐々に軽くなる。草原に身投げしていた身体を、力一杯持ち上げて、私は走った。早く、早く、彼に見つからない処へと、逃げる為に。