カカシが倒れたと普段から慕っている猫面の耳には秒速で届いた。倒れるのは結構ある事なので今回もまたかと呆れ顔を作ろうとすれば集中治療室行きだと云うではないか。そこでやっと猫面は事の重大さに気付く。さてどうしたものか、彼は無事なのだろうか。それと同時進行で彼女は大丈夫なのだろうかという心労が増える。猫面を外したテンゾウは自室のソファーにもたれ掛り鉄臭い鉤爪を隅へと放り投げた。こんな時にあの男の心配よりも上回ってしまう女への気持ちにテンゾウは無意識に顔を歪めた。そうは云ってもカカシへの配慮は欠けてはおらず、里へ戻って早々に病院へと向かった先輩の様子は随分前に覗いてきた。

病室で何本も身体から伸びる線たちに流石のテンゾウも顔を顰めたが、当の本人は至って重症には見えず顔色はそこそこ善いものだった。それでも心の負担になるのは彼女の事だった。ソファーを背もたれにして仰ぐ。自室に匂いは持ち込みたくないのだが今は身体を流す気分ではなく、喩え気分が悪くともそれ以上の思いがテンゾウを支配していた。かん、と響いた音にテンゾウは薄く眼を開けた。気の所為かと閉じようとすれば家が吹き飛んだと錯覚する程の音が眠気に誘われつつあったテンゾウの耳に届いた。驚きで疲れも吹っ飛んだテンゾウは音の出所が自室の玄関からだと直ぐに気付き立ち上がる。予想はしていたのだがまさかこうも早くやってくるとは思わなかった、と血生臭い身体をどうすればいいかと頭の中で組み立てつつ玄関の扉を数センチだけ開いた。

「……てんぞっ、」

壊れるのではないか、と初めて思う。キナ臭い男と同等の強さをテンゾウに見せていた彼女に弱者という言葉は女と云うものが付いて回る人間だとは思わぬ程、彼女は強者だった。そんな女が血生臭い男の部屋の玄関口で弱々しい物腰で男の名前を呼んだ。心配事が当たってしまった、テンゾウは暫し何を云えば彼女の細い腰が強みを帯びるのか思考を光の如く行き来させてみたが無駄だった。今の男には云う言葉が見つからず、身体を横にずらした。

「―…此処に立ちっぱなしなのもあれですしとりあえず、中に入りませんか?」

身長差もそこまで無い筈なのに些か見上げる瞳がテンゾウの心も酷く揺らした。忍服で分からなかったが黒衣から覗く普段は晒される事のない部分は恐ろしい程に白い。そしてテンゾウの言葉に頷く首も細く、意図せず首へと血生臭い身体が引き寄せられそうになった。しかし伸ばしかけた掌は避けたスペースに身体を入れ込んで玄関を閉めた女、によって図らずもテンゾウの欲求が満たされる形になった。

「………、」

伸ばしかけた掌、狭い玄関口で密着した形で静止する二人。
胡散臭いマスクの男が居なくなった事によって暗部の頂点と云える男が顔に出せずとも芯の部分で焦っているのが弱々しさを身に纏っているにも分かった。些か顔を上げてテンゾウを視る。

「テンゾ、変態くさい」
「煩い人ですね。僕だって一応男なんですから、」
「…それに血生臭いし」

云う事を見事に無視した後、は家主よりも早く部屋の奥へと足を運んだ。テンゾウは慣れているのか玄関の扉を閉め、奥へ視線を向けると煩悩の対象はさっさと床に座り込んでいつの間にやら出したビールを煽っていた。溜息ひとつさえ気だるい身体には辛いことだ。それを知ってか知らずかは辛気臭いね、等と云うのだからたまったものじゃない。直ぐにでも水を浴びたいと身体が水気を欲している反面、刹那満たされた欲求の続きも理性の下で燻っていた。それを感じながらもう一度、今度はには分からぬように息を落としつつ冷蔵庫から見慣れた装飾された缶を手に取った。ソファーに座ればいいものを態々床に座り込むのが彼女らしい、と勝手にらしさを当てはめてテンゾウはと同じように床へ腰を下ろした。

缶を開ける音と喉が鳴る音、全て自分から発しているもので、此処は自分のテリトリーだと云うのに一メートルにも満たない距離でアルコールを摂取しているくのいちがいることで別空間にいるかのよう。つまりは酷く落ち着かない気持ちにさせられている。がテンゾウの部屋へ押しかける事なんて両手を使っても足りない程。今更な事だと云うのに血液が活発になる感覚が指先から足先まで感じるのは任務後だからか、それとも。

「なに、テンゾ」

喉が上下する、液体を流し込まれた彼女の身体は何処か艶を感じる。
やましい視線を送ったのがばれたのか怪訝な顔と声を上げたに我に返る。テンゾウは曖昧に口元を緩め、手に持っている缶の中身を口内へと流し込んだ。普段ならば訝しむ彼女だったが、珍しくアルコール一本で酔いが回ってきたところを見るとアパートの戸を力一杯殴る前に飲んできたのか。無防備にもテンゾウに無邪気な笑顔で笑い、テンゾウと同じように盛大にお酒を煽った。

「………ねえ、」
「なんですか」
「この、あいだの答え…教えてもらってない……」

彼女が云うこの間の答えに思い当たる節は二つあった。
一つはテンゾウ自身がマゾか否かというどうでもいいこと、もう一つは街を歩いていた相手の正体。普通ならば彼女と云う答えが一般的だろうが忍者という職業ならば考えられる事は一つではない。その答え。今云えと乞われるとは思っても見なかったテンゾウはすっかり不意打ちを食らいを驚きの眼差しで射る。その視線の意味するものを彼女なりに解釈したのか、一瞬合わせた視線を直ぐに逸らし、淡く笑った。

「、あの…」
今にも泣きそうだと、またもやテンゾウの中で形成されているというらしさの中でそう云っていた。勝手に伸びる手は直ぐに彼女の声で静止する。

「テンゾウ、大丈夫だよ」
「………」
「カカシはああ見えて丈夫だし、テンゾウや私よりも強いのだから」

何を云っているのだろう、この人は。今にも崩れ落ちそうな顔をして、後輩へ言葉をかけている姿にテンゾウは理性を自身の力で切り、腕の中へ閉じ込めたい衝動に駆られた。けれどそんな事を一度でも、ただの一度、してしまえばもうの事を先輩、くのいちという立場を無くし、ただ一人の女として見てしまうとテンゾウは自覚していた。もし、彼女の隣に座る自身が後輩と云う立場ではなかったら彼女は泣き言を云っていたのだろうか。もし、が浮かんで消えていく。もし、はないのだ。年の差や経歴はどう足掻いても彼女の上へは行けない。もどかしさに自身の息の根を止めてしまいそうだ。

「……、さん」

一メートルにも満たない距離がもどかしい。一向に縮まないこの距離は自身を嘲笑っているかのようだ。はテンゾウの方へ顔を上げる。テンゾウは仕草ひとつにいちいち緊張しなければいけなかった。今日はほとほとおかしい感情線。

「せめて、コーヒーにすれば善かったですね」

そうだ、コーヒーにすればおかしな想像をして血液を沸騰させる事も多分、無かっただろう。そうすれば冷静な頭でカカシへの配慮を巡らせ、安否を不安に思ったのだろう。テンゾウはから缶ビールを掬い上げる。それを黙って受け入れるに今なら何でも赦されそうな、莫迦な男の性が些か顔を出した。

「じゃあ、今からコーヒー頂戴」
「、ちょっと待っていて下さい。今いれてきます」
「うん」

台所が逃げ道となりテンゾウはほっと息をつく。
二人分の水分をヤカンで沸かしつつ、リビングに戻る度胸もなくテンゾウはヤカンの口から息が上がるのを待った。貴女が好きなんです、と云えば楽になれるだろうか。アルコールの所為で急激に彼女への想いを自覚してしまったテンゾウは頭の中を走り回る煩わしい問題の渦に飲み込まれそうになりながらもどうにか地に足をつけていた。


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