あの日から奈良シカマルの異変は続いた。あの日、と云うのははたけカカシさんが書類を提出しにやってきた時の事。ボールペンを破壊したあの日から奈良シカマルと私の関係性は可笑しくなった。元々可笑しいのだがそれを輪にかけたおかしさだ。あのボールペンが私と奈良シカマルの関係性を保つ唯一の糸だったかのように、あの日から彼は私に全く見向きもしなくなった。否、この云い方では人によっては誤解が生まれる。元々見向きもしていなかったのだが、ミスや仕事の遅さに対して皮肉を云うことも嘲笑的な表情を向けてくる事も。一番驚いたことはこの二年間ほど目まぐるしかった仕事や辟易していた残業が皆無と云って善かった。その為仕事は定時に終わることも出来、憎たらしくて仕方なかった奈良シカマルとの相席も以前ならば両手で事足りないほどだったのに、今ではすっかり指を数本曲げれば済む話だ。
顔も奈良シカマルは火影室へ入り浸りが多い為週に一度見られたら幸運だった。ああ、また間違いがあった。幸運ではなく、不運だった。その不運が今まで週七でやってきたのが週一へと落ちたのだから幸せな話だ。そう、幸せだと思っていた先週までは。もしかして思い込もうと必死になっていたのかもしれない。書類を読んでいるつもりでいても頭の中には一文字も入ってこないし、隣に居るイルカ先生の顔を見ても前のような嬉しさはない。あの日壊したボールペンは無残な姿を見ることなく奈良シカマルの掌に隠されたまま。壊れたものの意味と奈良シカマルの異変を幾ら思考を廻らせてみても分からず、痒いところに手が届かない不快感だけが残っている。
思えば友人の言葉は実に的を得ていたのだと今更ながらに思う。
最初植え付けられた不快感はどんな恋心よりも勝る毒のようなものだった。顔を見れば他のありとあらゆるものを押しのけても奈良シカマル一色になってしまう。声を聞けばそれだけが壊れた機械のような再生まき戻しの繰り返し。些細な仕草にいちいち反感や敏感になるのも見方を変えれば関心があるからのこと。気付く時には後悔となって襲ってくるのだと初めて思い知らされた。
「でもやっぱり恋愛とは違うと思う」
こう云えば先に述べた事を見れば今の発言は有りえない、と眉を寄せるだろう。でも本当にそうなのだ。奈良シカマルと接点が紙一枚の薄さであっても彼の心理が気になるだけであって恋のような緊張感は感じられない。切なさや苦しさなんてもっての他だった。ただの興味。ただの滞り。ただの、ただの、内でこの形容し難い気分をふと浮かんだ言葉を適当に貼り付けて無かったようにしたいのか。ただ、という言葉が眼球の中でごろごろ云い書類の言葉もすっかり巻き込んでめちゃくちゃにした。
「火影様に、ですか」
イルカ先生は申し訳なさそうに眉を下げて私を見上げた。というのもファイルを片そうと思って立ち上がった私と硬くて軋みが酷い椅子に座っているイルカ先生との違いだった。
「ああ。使わせてすまないがちょっと行ってきてくれないか」
「……いえ、この書類で全てですよね?」
「悪いな」
仕事以外で外に出る事は滅多にないからか少し緊張していた。書類を両手で抱きかかえて火影室へと向かう足は何だか重たい。その原因は云わずと知れたこと。生意気にピアスを耳にぶら下げ、厭味な顔つきで私を見る眼、零れる言葉の棘の数々。それを無意識のうちに思い浮かべてしまう脳内は誰かの脳みそを取ってかえなければこの記憶を打ち消すことはできないだろう。
(————…あ、)
部屋を出て廊下を進み、角を一度、二度曲がれば階段があるフロアに出る。そこを上がり少し進めば火影室だ。その角を一度、二度曲がる二度目に差し掛かる前、思わず、立ち止まる。誰かなんて姿を確かめなくても分かる、私が聴いた事のないような笑い声だけれども誰かなんて考えなくても分かってしまった。どんな表情でその声を出しているのか、私には見えない。見た目は不真面目そうで面倒くさいと口に出す何て奴だと思ったのに。
(…私には絶対見せない素顔)
角の向こう側で奈良シカマルが可憐な声を出す女の子に莫迦だ、と云った。
その言葉は何度も聴かされた。けれど私に云うその言葉と彼女に云う言葉の重みは何処か違う、軽やかな、愛おしいものへと向ける暴言だ。手にしている紙が汗を吸い込む感覚がする。ここを通らなければ火影室へは行けない。立ち去るわけにも行かず、先へ進む事も出来ず、墨が滲まないことだけを精一杯祈った。
「ったく、絶対来なさいよって云ったのにこの間の約束すっぽかすんだからっ!」
あんたの誕生日祝い、皆で待っていたのに仕事だなんて本当いつから真人間になったのかしら。つい何週間前の当日に知った奈良シカマルの誕生した日は厭でも覚えていた。眼が眩んでしまいそうな、見たこともない表情がいつもの仮面から垣間見えた日。このオンナノコと約束を交わしていたのに、彼は私を椅子に縛り付けて残業させていた日。
「別にこの間じゃなくてもいつでも会えんだろ」
「いつでもじゃないの!この間じゃなきゃいけなかったのに、シカマルのばあか」
シカマル、このオンナノコが云うとあんなに憎らしい名前が可愛く聞こえる、世の中の不思議だ。いつでも会えると云った奈良シカマル。会おうと思えば会える、私には無いものだ。たった指数本で済んでしまうほどしか顔を合わせる事がない繋がり。汗はだんだん酷くなる。動揺しているのだ、と分かってはいつつもそれが何故なのか思い浮かばない。何処から私は手汗を握っているのだろう、記憶さえも酷く曖昧になってきた。何を、考える事を放棄した頭は勝手に手足を動かした。
「あーわかったって。今度な…——」
「………ん?どうしたのよ、シカマル」
眼が合う、奈良シカマルの面倒くさそうな眼が見開かれるのが分かる。それを無視して進むほどの度胸などなく、かといって勝手に進みだした足を止めることも出来ず、頭を軽く下ろし二人の間を通り過ぎる。角から出てくる前に見えた、見た事もない表情は胸を酷く落ち着かせない気持ちにさせた。手汗なんかさっきの比でもないし、暑くもない今の季節にそぐわない暑苦しさ、特に心臓なんて警報のように鳴っている。刹那見えた可憐な声のオンナノコはずっと前に思った、細い手足、白いレースが似合いそうな、そう、奈良シカマルが認めるであろうオンナノコ像が些かのずれもなくぴたりと型にはまった。同じ忍であろう服装が、忍だから、と諦めた私の胸を突き刺した。
「私なんて最初から眼中になかったんじゃない…」
他人にしか見せない恥ずかしげな笑い方の片鱗でもこちらに向けてはくれないだろうかと思ってみた所で叶う筈がない。彼は、奈良シカマルという男は私の事を疎んでいるのだから。