06

眩いばかりの姿、あの人だけしか要らない。と思えて、世界で一番自分が幸せものだと自信過剰になる。それが恋だ、と最寄の本屋で置いてあったいかにも、な本にそう書いてあった。けれど、私が奴に感じている思いはこのどれにも該当しなかった。勢いで立ち寄って見たものの直ぐにばかばかしくなって店から出た。

なんて厭な日なんだろうか。いつものように出勤し、いつものようにロッカーに荷物と着替え、いつものように明るく扉を開いて挨拶を交わす。その筈だったのに、扉を開けた先に向ける声は変な処で区切られた。椅子の音もせずこちらをちらりとも見ない、色褪せたようにみえる後姿にもう一度言葉を云い直す勇気は無かった。

紙の上で行ったりきたりを繰り返す音。それだけが唯一の会話だった。あの日以来の再開は自身が思っていたよりもずっと酷い感覚だった。無視されるのはいつもの事だったがこれまで以上のぞんざいな扱いに気分は悪くなるばかり。少し前に時を戻してくれたなら私はなんなんだ、こいつはと毒づいて心の内で扱き下ろしていただろう。それなのにすっかりおかしい感情に飲まれてしまっている。奈良シカマルの笑い顔が頭から抜けていかない。それ処か昨夜よりも鮮明に思い出す。隣にいるから余計に意識してしまう。

「今度な、」

今度、あのオンナノコと会うのだろうか。今度の続きを私は知らない。あの後火影室へ行き、書類を渡した。また同じ道を通る勇気は無く窓から飛び出して事務室へと戻った。まだあの角の先に居るのだろうか、とか盗み聞きしてたと思われた、だとかそんな事ばかりを考えた分ミスを重ねてしまいイルカ先生に怒られてしまった。こら、とアカデミー時代の時と同じような怒り方をされてしまい恥ずかしい気持ちと情けない気持ちですっかりあの考えは消えたのに。職場を変えない限り会うと分かっていた相手との再会は直ぐにやってきてしまった。その所為で余計な考えは渦を巻いてぐらぐらする。

(仕事仕事仕事…集中しなさい、私)

文面の端々に散らばる漢字がゲシュタルト崩壊を起こしかけていて、どれを見ても漢字たちが勝手に遊びだし、隣に居る奴の名前を組み立てだしたり、面白おかしく(全く笑えない状況なのに)歪めて見せたり。あまつさえくのいちの字を見るだけでかわいらしいオンナノコを思い出すのだから始末に終えない。自分が思っているよりもずっと、心にこびり付いているのか、まさか。紙の上に乗っている言葉を頭にいれようと躍起になっている間、床とサンダルが摩擦を起こして小さな悲鳴を何度か上げた。うるさい、と飛んでくる言葉はなく、思考の渦にまんまと落ちてしまった私がそれに気付くこともない。

薄暗い空気の中で誰か助けを、と思っても今日は週に一度はある暇な日で、人ひとり、忍の影もない。いつもは全く、塵ほどにも思わないが、あののんきで里一番の稼ぎ頭がひょいと顔を出してくれないだろうか。見るのもうんざりなマスクがついていたってこの際構わない。

しかし、そんなときに限って誰も通りがからず、淀んだ空気のまま一刻を刻んだ。時のお陰で踊っていた文字はやっと落ち着きを取り戻していた。頭の中に入ってくるのは可憐という言葉ばかりだったのだけれども。時計の針が聴覚を刺激している。あと、何分、何秒。時間を刻めばこの椅子から逃げられるのだろう、外へ出て行けるのだろう。隣の様子を窺う気にもなれず、かといって心の中の波を引かせるには彼の、奈良シカマルの協力なしでは実現できないことだった。

気付かれないように、そっと、少年を見やる。男と表現するには些か早いのだから少年が適切であるように思う。そんな少年へと抱いている感情は果たして正しいものなのだろうか。

「………よかった、」

思わず洩れた安堵。相手に気付かれない言葉はそのまま地面に落ちていった。少年を見たら気持ちがくっきりと浮き彫りになってしまうのではないか、と思ったがなんのことはない。あの小生意気な、眉間にしわを寄せた男を見てもなんの感情もいだかなかった。その安堵だ。

これで安心した。もう少しで犯罪者になるところだった。
いつものように書類を片付けてしまおう。そう心が決まったときだった。

「何が」

反射的に声の方へ向くと奈良シカマルと視線が合う。心臓はこんなものだったか、と頭で考えしまうほど、高鳴った。蛇に絡まれたように私の身体は動かず、彼もまた何が、という言葉で止まっていた。反応しようとして、震えている唇は間抜けにも止まらない。奈良シカマルにばれていないだろうかとヒヤヒヤしてみるも、彼も気付いていないのだろう。机の上に乗った指先がひくりと何度か痙攣した。早く次を云ってくれないだろうか、と待ってはみるもののお互いが相手から来るのを待っていた。

心の振動が指先から机へ、そして相手の震える指先から全身へ移ってしまうのではないかと焦燥感に頭が支配された。早く、早く云って。思わず力いっぱいに瞑った瞳の中は暗闇で満たされる。その先には何故か奈良シカマルが意地の悪い笑い方をしてこちらを見ていた。

「……おい」
「………」
「、俺を見ろよ」

眉間にシワがいくほど強く求めた暗闇を遮るように、少年の声が胸を刺した。
子供なのに力の篭った、それに従うことを否めないような言霊で云った。胸の苦しさはあのオンナノコを見た時以上のもので、今驚かされたらそのまま心臓は止まってしまいそうな勢いだ。どんな表情をして私を見ているのだろう、おそるおそる目蓋を持ち上げればそこにはいつもの不機嫌を顔にたっぷり塗った男が目と鼻の先にいた。