07

思い返せば心の中で何度も浮かんだのは彼だった。莫迦みたいに私は眼を見開いて、爪先もピンと伸びて、サンダルが軋んだ。奈良シカマルの眉間は思ったよりも綺麗でいて少し日焼けをしていた。(事務処理が多いせい、とどうでもいいことを考えた)眼と鼻の先だと思っていたのは混乱を招いた脳が勝手にそう思い込んでいたもので実際の距離は皆無。自分のそれとは違う髪の毛が鼻を撫で、眼を見開く私の視界には奈良シカマルしか見えなくなっていた。奈良シカマルの睫毛が頬を撫でる。柔らかさに気を取られ、直ぐには唇の熱さに気付かなかった。

「………っ!」

固まった指先がジャケット越しの胸を押した。力のこもらない腕力は相手を押しのけるには不十分で、その熱は簡単には離れない。言葉にならない叫びを唇に移してもう一度暗闇を手に入れようと眼を瞑れば、知らない舌が下唇を撫でた。

(—俺を見ろよ—)

見ている、十分すぎるほどに。そう云いたいのに喉はカラカラと砂漠のようだし、舌はガムのように口の中に張り付いている。相手を分かっている、そう思うことはとても傲慢なことだ。私も、相手も。俺を見ろよ、と云った少年の無理やりな心のこもっていないと分かるそれは残酷なほどに痛い。痛くて、仕方ない。

「………」

事務をする部屋で体感時間はとても長く、実際起きていた時間はとても短かったはず。静かに離れた唇は電気でも通っているのでは、と思ってしまうくらいにピリピリとしていた。そこからまっすぐ心に降りていき針が刺さる。鈍い痛みがそこから全身へと広がるのが分かった。唇を合わせるのは心が重なり、互いの同意があればこそだ。それがないものがどれほど空しいものか、この時初めて知る。奈良シカマルを見上げる元気もなく、けれど呆然としていてもこの時間がかけて過ぎていくわけでもないのだからと恐る恐るささやかな望みを視線に集めて見上げた。そしてその望みは呆気なく砕かれてしまう。奈良シカマルはと一瞬だけ視線を交え、直ぐに何事も無かったかのように自身の椅子に腰掛けた。

まるでさっきの出来事は白昼夢だったのかと錯覚をしてしまえるほどに自然な形へと戻っていった奈良シカマルの横顔は何も浮かばせてはいなかった。そこにはへ対する心は皆目感じられない。どんな意地の悪いことをされても感じていたのは反発心と嫌悪、だけだったのに。壁を片腕で崩した男はそれだけで心を満たして、の感情は干からび、ひび割れた。

「………っあんたなんて大嫌い!」

小部屋に反響する声は憎悪に満ちていた。
軽々飛んでいった言葉はあっという間に地面に沈み流れていく様をは唇を噛み、自身へ償いを求める。しかし、一旦出たものを戻す力など無く、速度を上げ落ちた心を笑うかのように頬をぬらした。目の前に居る男の顔を見ることを躊躇し、腕を伸ばせば届く距離に居るのに酷く遠くに感じた。何か云って欲しい時に限って、毒舌家は言葉を失う。書類が花びらのように舞い、足は随分重みを持っているのに早くかけていけた。貝のように硬く閉ざした唇が発した言葉が扉の閉まる音と共に飛び出してきたとして、深く抉られた心内は癒されることはなく、は振り返ることもない。追いかけてくる足音はないままは溢れてしまいそうになる涙を必死に堪え、目元だけにとどめた。

奈良シカマルのことを一瞬でも思いを寄せたことへの後悔をした。触れられそうな距離から遠ざかることもましてや近づくこともなく、一定の距離を保ちながら見ていた横顔。憎らしくもあり、同時に刹那的惹かれてしまった。忍らしからぬ、と自身でも思うけれど。だから簡単に相手に心の内を読まれてしまい、手を取られて、挙げ句の果てに陥れられてしまう。理解に及んだとして、それを修復するには相当な力が手元になければ理解出来なかったと同意義だと思った。今のにはゆらめく感情を精一杯抑えるのに夢中で理解など一瞬のうちに砕け散ってしまった。

「……嫌いよ、あんたなんて…嫌いキライ…」

立ち止まり身を埋めて自分自身に云い聞かせるように繰り返す。
身に染みていく現実が実感となって益々鮮明にさせる。奈良シカマルの心内は初めて会った日から今まで理解出来たためしがないけれども、何かしら男の自尊心に傷をつけてしまったのかには知る術がなかった。サンダルの軋んだ音なのか、心音なのか分かりかねて地面を蹴った。誰も通らない細い路地に背を預けて仕事中だということも無視して、揺さぶりをかけられたのが年下だという事実を嘆いた。

(俺はあんたのそういう処、)

何か云いかけた男の言葉に耳を押しつぶす。聞きたくない、今は何も。(嫌い嫌い嫌い)否定の言葉をどれだけ落としたところで胸の内が晴れてくる様子はなく、ただただ失望の色がにじみ出る。そう、気がついたとしたってこの状況が好転する筈がない。胸を掻きむしって潰してしまいたいと思った。

「………ねーちゃん…?」

だっけ、と問いかけたのは太陽のような子だ、と思ったうずまきナルトという少年だった。路地にはふさわしくない髪色の少年はの顔色を伺うように腰を低くさせて覗き込んでいた。様子のおかしさよりも路地にうずくまっている不審さに少年は具合でも悪いのか、とまた問いた。

「だ、………だいじょうぶ、よ」
「ホントか?だったら何でこんな処にいるんだってばよ」

同級生の奈良シカマルに嗾けられた、と云うわけにはいかずは曖昧に笑った。まさかこんな場所で会うとは思わず、無防備な自身をのろった。伸びている陽に金色があたり、少年の性根には似合わずゆらりゆらりと緩やかに揺れた。

「本当に大丈夫。ナルト君こそどうしてここに?」

腰を上げる力もなく、両膝に手を重ね、相変わらずの姿勢のままうずまきナルトはああ、と漏らした。

「オレん家、この裏側なんだ」
うずまきナルトは右手を外光へと向けた。そしてあっ、と顔をきらめかせに向き直る。嘘をついているとは刹那にも思っていないだろうその表情に良心はジクジクと痛んだ。

「具合悪いなら家で休んでってくれよ!……ちょっと汚いかもしれないけど…」
「えっ……」

は突然の申し出に自を出してしまい奈良シカマルの言葉を彷彿とさせ、気持ちは右肩下がりっぱなしだ。なんていい子なのだろう、とは思った。同じ教育を受けていて天と地ほどの違いが出るなんて、胸の周りを意地の悪い顔をした男(今となっては少年と称しようとは思わなかった)が三叉槍を使って地味な嫌がらせをしてくる。益々気分は悪くなる。うずまきナルトは小首を傾げ些か不安げに見下ろす。下心のない純粋な気持ちに邪推をしてしまうのは失礼だ、とは嫌な男の影を打ち消すようにうずまきナルトの手のひらに自身の手を重ねた。